元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

ジェーン・オースティン「高慢と偏見」

2008-06-13 06:40:53 | 読書感想文

 前に書いたように「ジェイン・オースティンの読書会」はなかなか楽しめる映画であったが、恥ずかしながら私自身はオースティンの作品で読んでいるのはこの一冊だけである(爆)。

 ロンドン郊外の田舎町を舞台にして、若い娘の恋愛騒動を描く。言うまでもなくジョー・ライト監督「プライドと偏見」の原作だ。これが書かれたのが日本で言えば江戸時代であったことがとても信じられない。作者が女性であることを抜きにしても、ヒロインをはじめとする女性キャラクターの心理が絶妙に描かれていることに舌を巻いた。

 単純な娯楽小説のようにそれぞれに明確過ぎる性格付けがされているわけではない。出てくるのは普通の市井の人々。誰しもちょっとだけ正義感が強く、ちょっとだけ自惚れやで、ちょっとだけ怠惰で、そして平凡な幸福を願っている。考えてみれば、この“ちょっとだけ”の微妙な割合が各人少しずつ違うことにより、誤解や偏見は生まれるのだろう。ただし、オースティンは“たかが、ちょっとだけという話ではないか!”という感じで、ポジティヴに構えることさえ出来れば、人並みの幸せは向こうからやってくるのだ・・・・との底抜けな楽天性で全編を突っ走らせている。そこが何とも快い。

 主人公のエリザベス・ベネットの人物設定が見事だ。知性と独立心だけは秀でているが、若くて経験が伴わず気ばかり焦る毎日。そんな彼女が一見鼻持ちならないミスター・ダーシーと知り合い、反発しながらも葛藤の末に相手の良さを見出して最後には理解し合う。そのプロセスが何とも精緻な筆致で綴られていることはもちろん、人間的成長を遂げる彼女の内面が、傲慢やわざとらしさとは無縁の、それどころか愛らしさを漂わせた造型を見せているところが読者の共感を呼ぶ。

 ただ、この岩波文庫版の訳はどうにもいただけない。文章がゴツゴツしていてしなやかさに欠けるのだ。今度は別の訳で読むか、いっそ原書での読破にも挑戦してみたい。それから登場人物がけっこう多いので、キャラクター相関図みたいなものも欲しかった。

 なお、本書の出来はもちろん、映画版「プライドと偏見」の脚色も素晴らしかったことも再確認できよう。実に読み応えのある一編だ。オースティンの他の作品も手に取りたくなる。
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「アイ,ロボット」

2008-06-12 06:58:00 | 映画の感想(あ行)
 (原題:I, Robot)2004年作品。意志を持ったロボットたちが反乱を起こす近未来社会を描いたSF活劇もので、原作はSF界の重鎮アイザック・アシモフである。ただし、有名な小説を映画化して成功した例などけっこう少ない。本作もそのパターンに過ぎない。

 今どき“ロボットが人類に反旗を翻してどうのこうの”という手垢にまみれたモチーフには興味はないし、スクリーンの真ん中でふんぞり返っているウィル・スミスに演技面を期待しても仕方がない。脚本面も穴だらけで、特にメイン・プロットとなるべき“ロボット工学三原則”が単なる“生産者側のポリシー及びステートメンツ”に過ぎず、実際は殺人ロボットだろうが何だろうが作り放題だという設定には呆れた。

 よって映画の焦点は「ダークシティ」でSFファンが大喜びしそうな映像構築力を存分に発揮したアレックス・プロヤス監督の“画面作り”へと自然に移ることになる。しかし、残念ながら本作では“主人公”であるロボットのサニーの造形以外にはこれといったヴィジュアルは見当たらない。終盤のアクション場面は馬力はあるが、よく見るとカメラをぐるぐる回しているだけで、これをもって作品自体のアドバンテージとするわけにはいかない。要するに“観ている間だけはまあ退屈しないSF活劇編”というレベルに留まっている。

 それにしても、いくら舞台が未来だとはいえ、中盤のカーチェイスもほとんどCGで処理しているのにはアクション映画好きとしては釈然としないものを感じる。少しは本物っぽく見せて欲しいものだ。
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「ジェイン・オースティンの読書会」

2008-06-11 06:37:27 | 映画の感想(さ行)

 (原題:The Jane Austen Book Club )果たして物語は人生を変えることが出来るのか。そんな命題について本作はひとつの回答を提示する。結論から言えば“物語自体は人生を変えない。ただし、他の条件が有効に機能すれば、生き方を変える要因の一つには成りうる”というものだ。ではその“他の条件”とは一体何か・・・・それを分かりやすく軽妙に示しているあたりが、この映画の見どころである。

 カリフォルニア州サクラメントを舞台に、英国の著名な女流作家ジェイン・オースティンの作品を読んで感想を言い合う“読書会”に集まった面々の人間群像を追う、カレン・ジョイ・ファウラーの同名小説の映画化。この“読書会”というのは、一見ネットのオフ会のように思える。メンバーは6人だが、これはオースティンの長編小説が6冊であるためだ。そして6人の友人・知人・家族などが時折加わる。会合は月一回で、それぞれテーマをひとつの小説に絞って6回連続で開催される。場所は各会員の家の持ち回りだ。

 料理や酒を囲んだ肩の凝らない集まりのようであるが、単なるオフ会とは決定的に違うのは、各人がオースティンの作品に関して自らの責任で真剣なコメントを述べ合うという点だ。当然、他のメンバーからはその見解について鋭い突っ込みが入ることもある。ただ漫然と感想を垂れ流すだけの“ぬるい”会ではない。これは、しょせんは匿名の集まりで場合によっては匿名のままで終わってしまう馴れ合いに過ぎないオフ会とは異なり、この“読書会”は互いに身分を明かした、いわばカタギの(?)サークルであることも大きい。ネット上のヴァーチャルな付き合いに端を発したものではなく、真にリアルな関係による集まりであるからこそ、本音のやり取りが可能になるのだ。

 映画は各メンバーのプロフィールや抱いている屈託などを過不足無く描いているが、面白いのは彼らの生き様がジェイン・オースティンの作品群の内容と微妙にリンクしてくるあたりである。彼らは、各人が自分が読んでいる書物と自らが置かれた境遇とを見比べて、フィクションに過ぎないはずの小説の中から生きるヒントを見出そうとする。ただし、それだけならば単に“読書をして考えさせられた”という次元での話であり、正直言って感銘の持続力は弱い。しかし、自分以外に同じ書物を読んで共感し合う仲間がいれば、そして書物の中から得た教訓を互いに出し合い、それが練り上げられてゆくような環境に身を置きさえすれば、物語は人生を変える力を持ちうる。

 前述の“物語が人生に影響を与えるための「他の条件」”というのは、こういうことだ。つまり、物語のエッセンスを現実に投射できるような人間関係を周囲に形成できれば(あるいは、形成しようと努力しようとすれば)、物語は人生にプラスの作用をもたらす(こともある)。

 ロビン・スウィコードの演出は丁寧で、肩の力が抜けたような自然体。各キャストのパフォーマンスも良好。特に貫禄を見せるキャシー・ベイカーとリン・レッドグレーヴ、小股の切れ上がったイイ女っぷりのマリア・ベロが印象に残る。全員収まるところに収まっていく終盤と、さらなる“読書会”の継続を暗示する展開を残し、観賞後の味わいは格別である。
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「キリング・ゾーイ」

2008-06-10 06:37:10 | 映画の感想(か行)
 (原題:Killing Zoe )93年作品。クエンティン・タランティーノ監督が製作総指揮を担当。彼の僚友であるジェイムズ・エイヴァリーがメガホンを取った犯罪ドラマ。パリにやって来たアメリカ人ゼッド(エリック・ストルツ)は金庫破りでは名の知られた男。旧友エリック(ジャン=ユーグ・アングラード)と再会した彼は、銀行襲撃のチームに加わる。ところが、綿密に立てた計画はエリックの暴走により破綻。警官隊に囲まれた彼らは人質を取ってたてこもるが、人質の中に昨晩会ったばかりの娼婦ゾーイ(ジュリー・デルピー)を見つけたゼッドは、何とか彼女を助けて脱出しようと、エリックたちと血みどろの戦いを繰り広げる。

 失敗に終わる強奪計画、ギャングたちの仲間割れの抗争などは「レザボアドッグス」そっくりで、若い娼婦と意気投合する主人公は「トゥルー・ロマンス」と似ている。過去二つのタランティーノ作品と似ているあたり、“亜流”との指摘を受けそうだが、観た印象は全然違う。ハッキリ言ってこの監督、タランティーノよりもっとビョーキだ。作者の興味は男同士がぶつかり合う硬派アクションではなく、「トゥルー・ロマンス」のゲーリー・オールドマンとブラッド・ピットを合わせたようなアブないヤク中のエリックの異常ぶりを見せつけることにある。

 強盗に入る前夜に繰り広げられる、麻薬パーティのアブノーマルぶりはこの作品の白眉といえる。もう、ゲロゲロのぐでんぐでんである。カメラワークは歪みっぱなし、ほとんどノイズばかりのBGMが渦を巻き、これを延々と長回しする。ここでエリックは自分がホモでエイズだと告白するのだが、そんなセリフも忘れるぐらい、この映像のラリラリ度(?)は満点だ。当然、全員がヤクのやり過ぎでゲロを吐くまでこれが続く。

 計画失敗に逆上し、殺戮を続けるエリックはどんどん狂気にはまり込んでいく。演じるアングラードは、「ニキータ」や「ベティ・ブルー」の彼とは同一人物とは思えないほどのハマリぶり。絶叫するギャングども。血しぶきをあげて倒れる人質たち。確かにスゴイけど、このままでは救いようがないぞと思っていると、ゾーイが物語の前面に出てくるところから、がぜん画面にメリハリが出てくる。

 「トゥルー・ロマンス」のパトリシア・アークエットと同じような役どころだが、あっちは単なるパープー女(胸がちょっと整形臭かったぞ)、こっちの方がはるかにいい。当時はフランス若手女優の一人と持て囃されただけあって、アメリカの若手女優とは格の違いを見せてくれる。娼婦なのに知的でキュート、純粋な面も感じさせて、うーむ、やっぱりカワイイぞ(^^)。彼女がゼッドと二人でエリックとハデな乱闘を演じ、血ヘドを吐きながらつかみかかっていく場面もヨイが、前半でのゼッドとのセックス・シーンでテレビで流れるホラー映画と映像がシンクロしていくあたりの表情はサイコーだ。

 舞台がフランスのせいもあるのか、どこかしっとりした印象を与えるし、ヨーロッパ・テイストたっぷりの音楽もいい。そしてまたアッケラカンとしたラスト。なかなかのの快作である。
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「山のあなた 徳市の恋」

2008-06-09 06:31:13 | 映画の感想(や行)

 製作意図がさっぱり見えない映画である。本作の“元ネタ”になる清水宏監督による昭和13年製作の「按摩と女」には某映画祭で接したことがあるが、正直言ってあまり上等なシャシンではない。今ではお目にかかれない身体障害者をネタにしたギャグが興味深かった程度で、出来としては水準の人情コメディである。これをなぜ今になってリメイクしなければならないのか、最後まで納得できるようなモチーフにはお目にかかれなかった。

 山の温泉場で仕事に励む徳市という盲目の按摩が、東京から来た何やら訳ありの若い女を気にかけるうちに、淡い恋心を覚えてしまうという設定だが、ストーリーは典型的プログラム・ピクチュアであった原作をなぞっているため、筋書きでの面白味はない。ならば斬新な演出が成されているかといえば、まったくそうではない。あくまでも“元ネタ”に準拠しているだけだ。

 キャスト陣が目を見張るような快演を披露しているわけでもない。徳市に扮する草なぎ剛をはじめ、加瀬亮や堤真一、三浦友和といった脇を固める面々も、まあ予想通りの仕事ぶりである。ヒロイン役のマイコとかいう新人に至っては、見かけこそ純和風の美人で絵にはなるが、演技面では“脚本通りやりました”というレベルで話にならないし、もちろん魅力なんて感じられない。

 監督は石井克人である。彼は怪作「鮫肌男と桃尻女」(99年)で大いに観客を湧かせたものの、続く「PARTY7」(00年)は「鮫肌~」の二番煎じみたいなスタイルで何とか場を保たせた感が強かった。そして2003年に撮った「茶の味」は打って変わった静かな田園劇(?)で驚かせたが、内容の薄さは如何ともし難かった。この「山のあなた 徳市の恋」はもちろん外見面では「茶の味」の路線を踏襲したものだが、昔の映画の忠実なリメイクである以上、作家性を出す余地は限りなく小さい。

 あえて言えば彼の作家性なんて「鮫肌~」で見せたドタバタ劇以上のものは(今のところ)存在しないと思う。かなり意地悪な見方をすれば、彼は自分の作家表現の“引き出し”が小さいことに気づき、でもそれを見透かされないように旧作の再映画化という題材でこの場を凌いだのでは・・・・とも思える。

 ホメるべき点を一つだけあげるとすれば、映像の美しさだろう。初夏の伊豆の風景は、森林浴でもしたくなるほど清々しい。環境ビデオみたいな楽しみ方は、あると言えるかもしれない。
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「ポゼッション」

2008-06-08 06:57:15 | 映画の感想(は行)
 (原題:Possession)80年フランス=西ドイツ合作。監督は「私生活のない女」などで知られるポーランド出身の異才アンジェイ・ズラウスキー。ドイツに住む若夫婦が主人公。近ごろ妻の様子が少しおかしい。私立探偵を雇ってしらべた夫(サム・ニール)は妻に愛人ができたらしいことをつきとめる。事件をさぐっていくうちに探偵は妻に惨殺され、夫の周辺にも奇怪な出来事が頻発するようになる。正気を失いつつある妻を心配しつつも夫は妻そっくりで妻とは正反対の優しい女とつき合うようになるが、やがて妻の愛人の正体を知ることとなる。それは人間ではなかった。

 以上がストーリーの概要であるが、映画はまるでそれを無視したかのような目茶苦茶な展開で進んでいく。実際観たら何が何だかさっぱりわからない映画で観る者は途方に暮れてしまう。ただ、強烈なのが妻を演じるイザベル・アジャーニの狂的演技で、ひょっとしてこの人は本当に狂っているのではないかと恐ろしくなる。

 無表情で家の中をひっくり返して回る場面や、ヘラヘラ笑いながらナイフをかざして迫るシーン、圧巻は地下鉄の構内で発狂するくだりである。持っていた買物袋をぶちまけたかと思うと、獣のような叫び声をあげて地面をのたうちまわり、最後には股間からネバネバした液体をしたたらせるグロ場面まで、10分近くのシークエンスをカメラは切り替えなしのワン・カットで映し出す。この監督の変態度も相当なものだ。

 じっさい彼女はこの作品に出演した後、ノイローゼで精神科医の治療を受けたというからスゴイ。そしてなんとこの映画でカンヌ映画祭の主演女優賞までとっているというのだから、何も言えなくなる。

 私はこの作品を87年の東京国際映画祭の「ファンタスティック映画部門」で観たのだが、スタッフ・キャストの豪華さのためか場内満員。しかし、映画が終わったあとはほとんどの観客が無言で青ざめた表情で劇場を後にしていたことを思い出す。あまりの変態さで製作されてから8年もの間日本での一般公開が見合わされたといういわくつきの作品である。
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「僕の彼女はサイボーグ」

2008-06-07 06:43:41 | 映画の感想(は行)

 クァク・ジェヨン監督作品らしい“主演女優で保っている映画”だ。「猟奇的な彼女」や「僕の彼女を紹介します」で立証された通り、女の子を可愛く撮ることにかけてはアジア屈指の腕前を持つ同監督だが(笑)、日本で作られた本作もその持ち味は全面開花している。

 そもそも小出恵介扮する冴えないオタク大学生が簡単にキレイな子と付き合えるわけがないのだが、映画ではそんなことにを気にさせる間もなく、ヒロイン・綾瀬はるかの魅力で観客をノックアウトしてしまう。

 それにしても、この若い女優にはこれほどまでに人を惹きつける力があったのかと思うほど、それはそれは可愛く描かれており、特に最初に主人公の前に現れてニコッと笑いかける場面など、まさに観ていてスクリーンに吸い込まれるようなヤバい感覚に襲われる(爆)。二度目に人間型ロボットとして姿を見せるときは、さすがに冷たい無表情で通すが、常軌を逸したパワーを持て余しつつも次第に主人公を意識するようになる過程がこれまた萌え萌えなタッチで捉えられており、この監督の変態スレスレの感覚には苦笑してしまう。実はこのロボットは未来の自分が送り込んできたという設定で、ほとんど「ドラえもん」の世界なのだが、作者は日本のアニメーションが相当好きなのだろう。

 さて、前半は好調だけど後半は腰砕けというパターンに陥った前述二作に比べれば、この映画のクァク監督は意外と頑張っている。予告編でも示されたように、本作の中盤以降にはカタストロフがやってくる。このロボットの役割はそれを乗り切ることでもあるのだが、かなり強引な筋書きにドラマツルギーが壊れてくると思いきや、何とか二枚腰で土俵際に残ってしまうのには驚いた。

 そして長めの上映時間はタイム・パラドックスに一応の決着を付けるために必要だったことが分かり、作者のマジメな姿勢に感心してしまったほどだ。もちろん突っ込みどころはけっこうあり、特にロボットが主人公を子供の頃に連れて行くところは、どう見ても描写が彼の親の世代の子供時代であり、脚本の練り上げが足りない。

 しかし、監督が外国人ということも考え合わせれば笑って許してしまうレベルのものだろう。SFXは健闘していて、活劇シーンのテンポも良い。難しいことを考えずに気楽に観るのにはもってこいのシャシンだ。ただし、彼女のようなロボットは厳密にはサイボーグではない。サイボーグは脳は人間で身体の一部(あるいは全部)が機械というシロモノである。人間そっくりに作られた彼女は正しくはアンドロイドと呼ぶべきだ。
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「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」

2008-06-06 06:29:04 | 映画の感想(か行)

 (原題:Catch Me If You Can )2002年作品。スティーヴン・スピルバーグ監督が立て込んだスケジュールの合間を縫って2か月足らずで撮り上げた映画だが、ここ10年間の彼の作品の中では上出来の部類に入る。

 十代の凄腕詐欺師とFBI捜査官の追いかけっこという、スピルバーグ映画としては“小さな”ネタを扱い、しかも彼が青春時代を送った60年代を舞台にしていることもあって、肩の力が完全に抜けきった作劇である。スピルバーグが片親の家庭に育ったことが彼の作品に大いに影響していることは知られているが、従来まで映画の中で表面に出ていなかった“親子の絆”というモチーフに今回は正面から向き合い、しかもコミカルなタッチで料理していることを見ると、彼の作家としての“成熟”らしきものも感じさせる。

 しかも「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」に代表される父と子のぎこちなさは一掃され、この作品でのレオナルド・ディカプリオとクリストファー・ウォーケンの関係は実に濃厚だ。少年時代に父親と離れて暮らしていた作者の心情が素直に投影されているようで、観ていて納得できる。時系列を一部バラバラにして、結末を早い時点から明かすような展開にしているのは、映画の主眼が「スティング」や「デストラップ」などの“コン・ゲーム”ではなく、主人公の成長に焦点を当てた青春映画のセンを狙っているからで、これも首肯できる方法である。

 キャストはいずれも良好だが、女房子供に逃げられた寂しさを仕事で紛らわそうとするFBIエージェントに扮するトム・ハンクスは出色。主人公の母親がフランス系との設定で、フランス女優のナタリー・バイを起用しているのには少しびっくりした。冒頭タイトルと今回はジャジーなジョン・ウィリアムズの音楽もセンス満点。60年代の風俗も申し分なく、観て決して損はしない。
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「アフタースクール」

2008-06-05 06:24:17 | 映画の感想(あ行)

 終盤、大泉洋扮する中学教師が“元同級生”の自称・探偵(佐々木蔵之介)に言い放つセリフが本作のすべてだ。中学校の教室にはいろんな生徒がいる。ヒネた奴、マジメな奴、怠惰な奴、スタンドプレイが好きな奴etc.でも、学校を卒業してクラスを形成していた人間関係の構図から逃れられる者など、ほとんど存在しないのだ。

 考えてみれば当たり前で、赤の他人が40人ほど集まって集団生活を強いられればそこには明確な力関係が生じる。そして各個人の“立ち位置”が決まってくる。学校を後にしてそれぞれが自分の道を歩もうとも、世の中がひとつの大きな社会的“集団”である限り、一人一人にとって大きな価値観の転換でも生じない限り、取るべきポジションは決まってくるのだ。

 そして玄妙なことにその“大きな価値観の転換”というのは、そう頻繁には起こらない。たとえ起こったとしても、状況によりその“転換”を受け入れたに過ぎず、本性はあの教室での立ち振る舞いのままなのだ。いわば、学校を出てから生涯を全うするまでの間は、長い長い放課後(アフタースクール)みたいなものである。

 それを知らずに自分だけ学校を完全に卒業したつもりになっている自称・探偵は、自身が見えておらず、もちろん周囲も見えていない独善的な野郎に過ぎない。自分の“立ち位置”をわきまえ、それに見合った方向でベストを尽くす堅実な生き方こそが一番である・・・・という、実に説教臭いテーマをサスペンス・コメディの形でサラリと嫌味なく提示させた監督・脚本の内田けんじの力量は端倪すべからざるものだ。

 前作の「運命じゃない人」は観ていないが、前回もこのペースで仕上げているとすれば、海外の映画祭からも高い評価を受けたというのも頷ける。1時間40分という上映時間も簡潔でよろしい。シナリオ面でも邦画では珍しく堅牢なプロットを持つ上出来のコン・ゲームだと思う。

 もちろん、細かな突っ込みどころはあるかもしれないし、筋書きも部分的に読めるところがある。しかし、一方的に動きまくる自称・探偵に対する中学教師側の“反撃”が、凡百の犯罪コメディとは違って実に地に足が付いた確実なものである点は、作品の主題に合致していて納得できる。

 大泉と佐々木をはじめ、堺雅人、田畑智子、常盤貴子といったキャストも自らの持ち味を活かした適材適所を地で行くような仕事ぶり。これも映画のテーマと通じるところがあるのかもしれない(笑)。
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「少年時代」

2008-06-04 07:58:34 | 映画の感想(さ行)
 90年作品。第二次大戦中の富山県を舞台に、そこに疎開してきた東京の少年と地元の少年たちとの友情と葛藤を描く。柏原兵三の小説「長い道」を基にした藤子不二雄Aの漫画「少年時代」の映画化。監督は「鑓の権三」「舞姫」などの篠田正浩。

 昭和19年、東京の政府高官の息子である小学5年生の進二は父の里である富山に一人で疎開してくる。坊っちゃん然とした進二にまず近づいてきたのが、クラスの級長でリーダー格の武である。武は貧しい漁師の子で、家の手伝いをしながらも成績抜群。腕力もある。彼は子どもたちのボスとして君臨していた。皆の前ではガキ大将として独裁的な力をふるう武だが、進二と二人きりの間は対等な友達関係でいる。しかし、副級長の須藤は武をうとましく思っていて、ひそかに打倒・武の陰謀をめぐらす。武と須藤のパワー・ゲームはエスカレートする一方だが、進二は武との友情に心ひかれながらも、横暴な彼の態度に賛同できず、須藤の側につくが・・・・。

 戦時中を舞台で主人公が少年というと、どうしても日本映画の場合、センチメンタリズムを前面に押しだしたりして、観る方をうんざりさせるが、この映画は違う。実に見応えのある、格調高い作品である。まず、日本映画にしては珍しく、子役がいい。優柔不断なお坊っちゃんといった進二役の子どもや、策略に長けた政治家みたいな須藤役の子役、圧巻は武を演じた堀岡裕二だ。子どもでいながら、人生を見透かしたところのある表情、それでいて周囲に対するコンプレックスを背負っているような目付き、すばらしい演技だと思う。武が隣町の番長にからまれている進二を助けるため、雪の中を自転車で飛ばしていくシーンはこの作品のクライマックスのひとつ。そしてそのあと、町の写真館で二人で撮った写真が感動のラストシーンの伏線となる。

 子どものドラマといっても、全然甘いところがない。仁義なき権力抗争、新参者に対する情け容赦のなさ、などは完全に大人の世界である。それだけに印象は苦い。しかし、子供たちの好演と抑制の効いた演出は、この映画をさわやかなものにしている。大事にしていた戦艦陸奥のバックルを、さんざんいじめられた武にあげて、富山を去っていく進二の心情がよくわかるのも、そこにいたる盛り上げ方が巧妙なためだ。

 岩下志麻、細川俊之、河原崎長一郎といった大人たちも好演。山田太一の脚本はよくできている。そして時代を見事に画面に反映させた木村威夫の美術と、鈴木達夫によるすばらしいカメラワークに拍手を送りたい。
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