元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「孤高のメス」

2010-06-16 06:40:38 | 映画の感想(か行)

 観賞後の印象は限りなく薄い。これはキャラクター設定の不調に起因している。茨城県北部の地方都市にある市民病院を舞台に、物的・人的資源の不足や頑迷な病院当局に対して果敢に取り組む外科医の活躍を描く本作、何よりこの人物像に深く切り込む余地がないのが痛い。

 主人公の当麻鉄彦はブラックジャックみたいな凄腕の外科医で、しかも栄誉や金には執着せず、患者を救うことにしか興味がない。明かな医者の理想像であるが、それだけに御立派すぎて映画の登場人物としては魅力がないのだ。手術中に演歌を大音響で流すとか、見合いの席であるはずなのに全然気が付かない脳天気さを示すとかいったエキセントリックな面も紹介されるが、その程度の“御愛嬌”では観客は納得しない。また、彼が医者を志すきっかけになった幼少期の出来事も、絵に描いたようなステレオタイプで面白味がない。

 これではヤバいと思ったのか、映画化に当たっては物語の中心から当麻を外し、彼のチームに配属された看護婦の浪子の視点から筋書きを追う作戦に打って出た。シングルマザーの浪子は覇気のない職場において、これまた本人もやる気なさそうに日々を過ごしていた。ところが颯爽と現れた当麻の仕事ぶりに衝撃を受け、少しずつ自覚を持つようになる。

 しかし、脚色のポイントであった浪子の扱い方も、やはり通り一遍の印象しか受けないのだ。彼女はどうして看護婦になったのか、女手一つで子供を育てなければならない事情とは何か、そういう大事なことが描かれていない。救急医療の現場にいながら愚痴ばかりこぼしている後ろ向きの態度から、優れた医師との出会いでアッという間にポジティヴになっていくという、その変貌の様子があまりにも予定調和に過ぎる。これでは観客が感情移入できない。

 エピソードにも工夫が無く、生体肝移植をめぐる諸問題や、主人公達を妨害する守旧派の行動も“とりあえず織り込んでみました”という程度で、まるで力が入っていない。そもそもこの映画が浪子の死から始まること自体、噴飯ものではないか。あれだけ努力したにもかかわらず、病院で倒れた彼女を誰も救えなかった。要するに状況は何も変わっていないのだ。それに対する問題提起もそっちのけで、早々に回想シーンに入ってしまうこの無神経さは如何ともし難い。

 当麻役の堤真一と浪子に扮する夏川結衣は共に手堅い演技だが、ストーリーに難がある以上、報われているとは言えない。成島出の演出は明らかに過去の諸作品よりも力量が落ちており、平凡なテレビドラマと変わらない。とにかく、大鐘稔彦による原作のファン以外は、取り立てて観る価値は見出せないと思う。
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「フォーン・ブース」

2010-06-15 06:41:06 | 映画の感想(は行)
 (原題:Phone Booth )2003年作品。軽佻浮薄なプロモーターが、たまたま入った電話ボックスでライフルに狙われる。ワン・アイデアによるサスペンス編で、上映時間も1時間半弱。CGてんこ盛りの大味なアメリカ映画が目立つ中、こういうタイトな作劇に出会うとホッとする。ジョエル・シュマッカー監督も職人ぶりを発揮し、観客を最後まで離さない。

 ただし、万全の出来ではない。まず、コリン・ファレル扮する主人公が最初からいかにも“敵の多そうな男”である点はインパクトが弱いと思う。ここは一見平凡で没個性の人物にして、この事件により意外な“裏の顔”が発覚する・・・・という設定にした方が面白かった。

 また、ファレルの熱演を強調するあまり、プロットを追う過程がおろそかになっている。おかげでラストに意外性がない。また、そのプロットそのものも特段優れたものではなく、犯人も屈折度が足りない。もっと凄みのある“仕掛け”を用意するべきではなかったか。フォレスト・ウィティカー演じる警部がやたら善人ぶっていたりと、脇のキャラクターも甘い。

 映画にするより演劇の方がマッチすると思ったが、シュマッカー監督は舞台演出の経験もあるので、その方法論をスクリーン上でもやってみたかったのだろう。ともあれ「気の効いた小品だが、取りたてて誉め上げるレベルでもない」というのが結論だ。
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「冷たい雨に撃て、約束の銃弾を」

2010-06-14 06:28:50 | 映画の感想(た行)

 (原題:Vengeance 復仇)ジョニー・トー監督の“美学”を存分に堪能できるフィルム・ノワールである。ハッキリ言って今まで同監督の作品は世評ほどには良い映画とは思わなかった。評価できるのは「マッド探偵(ディテクティヴ)」ぐらいだが、あれは映画祭上映のみであり一般公開はされていない。今回、通常の劇場にかかる作品では初めて見応えのあるシャシンにめぐり会った次第だ。

 マカオに住む公認会計士とその子供達が何者かに惨殺され、妻は瀕死の重傷を負うといういる事件が発生。妻の父親であるフランス人のレストラン経営者コステロは復讐を誓い、マカオで3人の殺し屋を雇う。ただしコステロの脳には昔受けた銃弾が残っていて、いつ記憶が失われるか分からず、復讐はその前に遂げなければならない。やがて、下手人が時折この3人に仕事を依頼するマフィアのボスであることが分かる。だが、3人はコステロとの約束を果たすため組織全体を敵に回し、真っ向からぶつかることになる。

 コステロの役は当初アラン・ドロンに振られたらしいが、ドロンは脚本の不備を理由に断ったということだ。なるほど、確かに筋書きは上等ではない。それまで世話になったボスに対し、いくら急遽雇われたとはいえ、見ず知らずの外国人のために銃を向けるこの3人の心理状態が分からない。主人公達に武器を提供する裏稼業の人間や、外国人とのハーフの子供を数多く育てている女の扱いも取って付けたようだ。何より、これほどのドンパチが巻き起こっていながら警察での捜査が進展していないのは納得できない。

 だが、今回のトー監督の力業は目覚ましいものがあり、御都合主義的な展開を観る者に納得させてしまうのだ。これはひとえに、コステロという“部外者”を物語の軸に据えたことが大きいと思う。今までの同監督の作品群は、いかにも“内輪ウケ”しかしないカッコ付けに終始していた。プロット構築をすっ飛ばし、当事者ばかりが自己陶酔的に盛り上がっていて、少しでも冷静にドラマを追おうとすると途端に鼻白んだものだ。

 ところが本作は中盤までコステロが良い案配に狂言回しの役どころを演じ、予定調和的な筋書きをクールな視点が牽制している感じである。つまりは策に溺れずにカッコ付けの匙加減を調整できたということだろう。

 いつもながらの鏡を利用しての銃撃戦もさることながら、ヒッチコックの「海外特派員」を思わせる雨の中のバトル、そして紙ゴミを固めた巨大なキューブを盾代わりにしての“荒野の決闘”など、見所がたっぷりだ。

 コステロを演じるのはフランスのエンタテインメント界の大物ジョニー・アリディ。スター性を漂わせた貫禄と哀愁が強い印象を残す。お馴染みアンソニー・ウォンをはじめ、ラム・ガートン、ラム・シュという3人の殺し屋の面々も良い味を出している。是非ともトー監督にはハリウッドで仕事をしてもらいたい(そういう話はすでに持ち上がっているらしいが)。ジョン・ウーに続くアクション派の旗手として評価されるに違いない。
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「イン・ディス・ワールド」

2010-06-13 06:52:33 | 映画の感想(あ行)
 (原題:In This World )2002年作品。ペシャワールからロンドンを目指すアフガン難民の少年の旅路を追うマイケル・ウィンターボトム監督作。2003年のベルリン国際映画祭で金熊賞他3冠を受賞しているが、正直言ってつまらない映画だ。

 主人公の少年と彼と同行する青年はパキスタンの難民キャンプでオーディションした演技経験のない素人で、ストーリーもほとんど即興。全体的に限りなくドキュメンタリーに近い出来になっていることがセールスポイントらしい。しかし、こんな手法は10年以上も前からイラン映画が採用し、大きな実績もあげているのだ。この映画が評価されるとしたら、イラン映画の製作方法をヨーロッパ人監督が採用したという「事実」のみだろう。

 内容自体は実に退屈で、映画的趣向も作劇のメリハリもなく、あるのは「アフガン難民というのは可哀想だよね」という決まり文句のみ。同様のネタを扱ったイラン映画群とは雲泥の差である。小型のデジタルカメラによる小汚い画面も願い下げだ。

 「ウェルカム・トゥ・サラエボ」といい、この映画といい、ウィンターボトムは「戦争難民ネタ」で社会派を気取るのは止めてほしい。個人的には「日蔭のふたり」のようなまっとうな劇映画路線に戻ってもらいたいところだ。
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「告白」

2010-06-12 06:50:22 | 映画の感想(か行)

 快作である。勝因は、作者が題材の“本質”を見抜いている点にある。原作の湊かなえの同名小説は私も読んでいるが、あれを“教育問題に深く切り込んだ社会派ミステリー”だと思う読者はあまりいないだろう。有り体に言えば“ブラックな笑劇”であり、単なる与太話である。それをキャラクター設定の妙味と語り口の巧さにより、最後まで読み手を離さないエンタテインメント性を獲得しているだけの話だ。

 だから映画化する際は、間違っても時事ネタ方面にテーマを振らないことが肝要である。その意味でも、監督として中島哲也を起用したのは正解だ。限りなく軽薄な映像ギミックの洪水で観客を幻惑させ、その中にフッと“素”に戻ったような真面目なモチーフを少量振りかけることにより、センセーショナルな題材の特質を浮かび上がらせる。こういうハッタリかました中島の持ち味こそが、このシャシンにはふさわしい。

 自分の教え子に愛娘を殺された中学校の女教師がそれをクラスで発表し、周到に復讐を開始するというこの設定、考えてみれば突っ込みどころが満載だ。そもそも子供を連れて帰るために、勤務が終わるまで子供を学校内で待機させておくこと自体が噴飯もの(公私混同である)。犯人の一人である男子生徒が“電気工作の天才”であるのも取って付けたような話なら、その母親との確執もジョークとしか思えない。そもそも、エイズ患者の血液をごく少量混ぜた牛乳を飲ませた程度で相手をビビらせようとするのもレベルが低い。そんなに簡単に感染するわけがないではないか(爆)。

 しかし、そんなディテールの甘さをカバーするのが原作では文体構成のテクニックであったように、この映画化版ではケレン味たっぷりの映像処理の釣瓶打ちが観る側に深く考えるヒマを与えず、最後まで物語を疾走させている。一歩間違えば失敗に終わるが、本作は紙一重のところで踏み止まっていると考えて良いだろう。またレディオヘッドからAKB48に至るまで、多彩な楽曲の使い方も実に効果的だ。

 主演の松たか子は静かな狂気を漂わせた快演で、これは彼女の代表作になると思う。岡田将生が演じる熱血教師のグロテスクな戯画化のようなキャラクターも良い。また、私の大嫌いな木村佳乃が劇中で早々にくたばってしまうのもポイントが高い(笑)。西井幸人や藤原薫ら生徒役も申し分なく、さすが子供の扱い方が上手い中島監督だ。橋本愛にゴスロリ風ファッションを着せるあたりも御愛嬌か。

 とにかく、どこかミケランジェロ・アントニオーニ監督の「砂丘」のクライマックス場面を想起させるような爆発シーンまで、存分に観客を引き回すヴォルテージの高い娯楽作である。観ないと損をする。
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「めざめ」

2010-06-11 06:31:57 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Carnages)2002年作品。スペインの闘牛場で若い闘牛士に大怪我を負わせて殺された雄牛の肉を接点として交錯する十数人の男女の運命。短編映画の世界で名を馳せた女流デルフィーヌ・グレーズ監督の長編デビュー作で、評論家筋のウケもすこぶる良かった映画である。しかし私は評価する気になれない。

 売れない女優が自殺志願の男と知り合う話や、妊娠中の妻の我が侭に悩まされる学者の一件など、多岐にわたるネタを用意していながら、各エピソードがちっとも面白くないのだ(興味を持てたのは“5歳までの記憶がない女”の話ぐらいか)。つまらない挿話をいくら積み上げても全体的に面白くなるわけがない。

 もっとも作者は“個々のストーリーの面白さ”など眼中にないことは見て取れる。雄牛という動物をスピリチュアルな存在に見立て、超越的な視点から見下ろした寓話的なドラマ運びを狙っており、五つ子や五歳の幼女など「5」という数字に極端にこだわる態度も“中身より形式”を重視するスタンスの表れであろう。しかし、劇映画としてそれでいいのかどうか・・・・。

 ドラマ運びの定石を無視した唐突な展開の連続は観客無視と言っても良い。それと、解体された牛の描写をはじめ生理的に不快なシーンが目立つのも減点。剥製を作る場面なんて動物好きの人は正視できないだろう。所々にギャグを織り交ぜているのは救いだが、こういった“頭の中だけで作ったような映画”を駆け出しの作家が手掛けるのはどうも愉快になれない。
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「プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂」

2010-06-10 06:55:46 | 映画の感想(は行)

 (原題:PRINCE OF PERSIA:THE SANDS OF TIME)随分と雑な作りだと思ったら、テレビゲームの映画化らしい。もっとも、ゲームを映画にしてはイケナイという決まりはない。面白く作ってもらえば、元ネタが何であろうと関係ない。しかし本作は、ゲームの悪いところを作劇の中心に据えているという点で実に感心しない。それは“何度でもやり直しが利く”というモチーフである。

 古代ペルシアを舞台に賑々しく展開するのは、時間を巻き戻す機能を持つという“時間の砂”の争奪戦。当初は数分間の遡及能力しかないことが示されるが、その“製造元”の中心地に行けば無制限に時間を元に戻すことが出来るらしい。ハッキリ言ってこれは“反則”だろう。どんな紆余曲折があろうとも、この“時間の砂”を使えば一気にチャラにすることが可能だ。作劇面から限りなく緊張感を奪う結果にしかならない。あくまでも数分間だけ遡れることをプロットの一つにするべきだった。

 しかも呆れることに、悪役の目的は自身の権力欲を満たすことだったりする。その程度のことならば“時間の砂”みたいなオカルトグッズを使わずとも、権謀術数で何とかなるはずだ。斯様に敵役が知恵の回らない奴ならば、主人公達の奮闘も何やら空しくなってくる。

 アクション場面は金が掛かっていて派手だが、あまり盛り上がらないのは“どこかで観たような画面展開”のように思われるからだ。つまりは段取りが上手くない。監督のマイク・ニューウェルは過去に「魅せられて四月」や「ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー」といった佳作をモノにしているが、元々はお手軽三流活劇の作り手であり、今回は自己のルーツに戻ったような不甲斐なさだ。

 主演のジェイク・ギレンホールは、肉体改造までして頑張ってはいるのは認める。しかし、彼の面構えは時代劇向けではないのだ。他の出演者も(ベン・キングスレーを除いて)サマにならない面々ばかり。特にヒドいのがヒロイン役のジェマ・アータートンで、全然美人ではないのに加え、品がなくて存在感も限りなく小さい。まるで場違いであり、キャスティング・ディレクターに猛省を促したい。

 それにしても、事の発端である聖地アラムート侵攻のいきさつが、あまりにイラク戦争と似ているのには苦笑した。不法な武器輸出をしているという疑いだけで戦争を仕掛けるのは、大量破壊兵器の存在があると言い張ってイラク侵攻を強行した米軍と一緒だ。もちろん、このネタは本作においては取って付けたようであり、作品の質の向上に一切寄与していない。たぶん“思い付き”のレベルなのだろう。
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「ディープ・ブルー」

2010-06-09 06:49:39 | 映画の感想(た行)
 (原題:Deep Blue)2003年作品。イギリス・ドイツ合作の海洋ドキュメンタリーである。監督と脚本はアラステア・フォザーギル。こういう映画にメッセージ性を求めても、せいぜい“自然を大事にしましょう”みたいな御題目しか出てこない。要は“どれだけ面白い映像を集めているか”である。その点においてこの作品は、どうも物足りない。

 シャチがアシカの子供を弄ぶ場面や、北極圏の凍った海面にわずかに空いた裂け目にイルカなどが殺到するシーンなどは確かに興味深かったが、それ以外の画面はテレビの“ネイチャー特番”あたりで何度も紹介されているようなものばかりである。デジカム撮影による薄汚い映像がたびたび挿入されているのも興醒めだ。

 しかも、リュック・ベッソン監督の「アトランティス」(91年)だのジャック・ペラン監督の「WATARIDORI」(2001年)だのといった上質の作品を過去に目にしている身にとっては、この程度のパフォーマンスでは、観ていて退屈なだけである。

 唯一の注目点はベルリン・フィルが初めて映画音楽を手掛けたことかもしれない。ただし、ジョージ・フェントンによる音楽そのものが低調だし、録音も良くない。あまり観る価値のない映画である。
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「鉄男 THE BULLET MAN」

2010-06-08 06:43:07 | 映画の感想(た行)

 まるで要領を得ない映画である。私は89年に製作された塚本晋也監督の長編デビュー作「鉄男」は観ていないし、92年のシリーズ第2作「鉄男2/BODY HAMMER」も未見だ。よって、このパート3が前二作とどういう関係性を持っているのかは不明だが、本作単体で見れば“出来損ない”と断じても仕方がないレベルである。

 まず、主人公が東京の外資系企業で働くアメリカ人のビジネスマンだという点で違和感を覚える。どうして外国人なのか、まるで必然性がない。しかも、母親は日本人なので彼はハーフのはずだが、外見は純粋な(?)白人である。彼の妻は日本人だから出来た子供はクォーターなのだが、これも東洋人の血が入っているようにはまったく見えない。

 そして、なぜかセリフのほとんどが英語。海外市場をターゲットにするには“英語圏映画”のスタイルに成りきっていないし、説明不足も甚だしい作劇は日本の観客にとっても理解困難だし、ましてや諸外国のマーケットに通用するはずもない。

 主人公は最愛の息子を殺されたことで身体を“鉄の細胞”に支配され、怪物に成り果てていくという設定は、まあ受け入られないこともない。それが彼自身の憤怒に呼応して、巨大なモンスターに変貌するくだりも悪くない。この監督得意のケレン味たっぷりにガナリ立てる映像と音響のコラボレーションは、一般受けはしないけれどそれなりのスタイリッシュな造型を提案していると思う。

 しかし、彼を狙う武装集団の正体がまるで分からない。さらに、偏執的に主人公を追う塚本晋也自身が演じる謎の男は、最後まで氏素性も思考形態も行動規範も“謎のまんま”である。明示どころか暗示さえない。こんな体たらくでは、観客にどんなカタルシスも与えられないだろう。まあ、上映時間が短いのが救いといえるだろうか。主演のエリック・ボシックとヒロインに扮する桃生亜希子の演技も、特筆できるものはない。

 余談だが、観た後に本作がある映画に酷似していることに気が付いた。それはケン・ラッセル監督の「アルタード・ステーツ 未知への挑戦」だ(80年作品)。自分から望むのと無理矢理やらされるという違いはあるにせよ、トンデモ科学によって主人公が身体的・精神的に変容を遂げていき、それが暴走してカタストロフィ寸前になるが、陳腐な精神論もどきによって呆気なく話が収束してゆくという話の組み立て方はそっくりだ。勝手に“借用”したとは思えないが、どっちの映画も気勢が上がらないことは共通している。
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「マスター・アンド・コマンダー」

2010-06-07 06:26:57 | 映画の感想(ま行)

 (原題:Master and Commander:The Far Side of the World)2003年作品。パトリック・オブライアンの世界的ベストセラー海洋歴史冒険小説「オーブリー&マチュリン」シリーズの第10作目「南太平洋、波瀾の追撃戦」(私は未読)の映画化。19世紀初頭を舞台にした海洋戦記物という設定にはピーター・ウィアー監督の資質は合っていないように思える。

 事実、大掛かりな戦闘シーンこそあるが、印象は実に薄く、平板と言っても良い。宣伝文句にもある“戦争に駆り出された少年達の苦悩”もそれほど強調されておらず、ただラッセル・クロウ扮するカリスマ的な艦長の不貞不貞しさだけが目立つ。

 しかし、ポール・ベタニー演じる船医兼博物学者がクローズアップされるようになると、興趣が増してくる。凄腕の外科医でありながら、ガラパゴスで新種の動物をみつけて(たぶん上陸はダーウィンより前)大喜びしたり、研究のために航路の変更を強弁したり、それでいて交戦時には真っ先に武器を取る。こういう“実社会と折り合いは付けながらも、内面は超然としている孤高の人物”を描かせるとウィアー監督は抜群に上手い。

 ある意味“俗世間の権化”とも言える艦長とバイオリンとチェロで合奏し心を通わせるシーンはこの映画のハイライトだ。海の荒々しさと美しさを捉えた映像も要チェック。ウィアー監督による戦争物としては初期の傑作「誓い」に及ぶものではなく、全体的にかなり薄味であるとは思うが、これはこれで観る価値はあると言えよう。
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