僕が、こういうことを語るのは、一歩早いというか理論的にどうこういうことと、肉体的にどうこう動くということに乖離がある以上好ましくないことなのかもしれない。うん、じゃ書くのやめたらということかもしれない。それは、書くという行為を自己満足へと帰着させようとする人間的にひどくくだらない行為かもしれないしね。まあ、それでも書くというんだから仕方がない。
風が、心地よい。歩いていると川沿いで、珈琲の匂いが漂ってくる。これだけの平穏な心もちでいられること以上に、幸福なことはあるであろうか。方向性というものが、確かにある日常ではある。気持ちいいことを、率直に気持ちいいと言える日常。陽の当たる場所で、考え、伸び、健やかに語る姿勢。ああ、しかしどんどんこうしてすぐに理屈っぽくなってくる。あの青空は、僕に過剰に理屈っぽくなることを警戒するべきと説いてくるというのに。
変な暇、というものをどうもてあますのか?これは、僕自身に対する僕自身の問いだ。ただし、答えは明快で、どうもてあますもなにも、暇をどういうふうに扱うかのプロになれば、それはもう暇な時間を過ごしているとは言えないというものだ。つまり、暇な時間をどう過ごすかのプロになるということは、暇な時間をうまいこと減らす技術を得ることだし、有用なことに時間を費やす以上、もう暇を持て余している人ではなくなるということだ。哲学のプロは、考えた成果を暇の対価という価値段階では終わらせない(はずである)。考えるということを意義あるものにする、暇を意義深い時間にまで高める達人である(はず)。哲学は、だから曖昧なものというよりかは、ある意味思考に一定の枠を与えた上での頭のスポーツのようなものである。まあ、だから哲学は、誰でも手を付けられそうでいて、至極難しいものであると言えるのだが。ね、理屈をこねまわしているようで、それが現実と折り合いのつく地点にもっていかなければいけない、とか。きちんと先人から梯子を接いできているような伝統の上になりたっているから、それを学ばなければ話にならん、とかね。
おっと、話が哲学者たるものはこうあるべきというちょっと別の話題になってきてしまったが、別の観点に立てば、暇な時間になれば人間は余計なことを考えだす(それが、多少正しいことであっても、余計は余計ということに変わりないことだったりする)というのは目に見えていることだから、意味のある人生を送りたいと思うのならば、大概はかたちから入ることをしていけばよりスムーズである。どうやら、僕に足りないのはそういう規律ある行動だけであるらしい。僕らは、子どもの頃は、いろいろと何かをやるにせよきちんとその都度、一定の枠というフィールドを与えられていた。実は、大人が生きていくためにもフィールドというのが必要だ。そういう適度な規範が必要なのね。そういう世の中のルールってのを無視して進む道は、理解されない道である。人間は、変な意地を張らずに、多少は理解されるかもなと客観的に観られるような、多少は承認される道を歩まなければ、まあ、なんというか継続的な歩行は無理である。確かに、個人のなかに理解されない部分は少し持っていたほうが、スパイスとしてその人の個性にはなる。だが、理解されないことばかりで組成された人格は、まあ社会的には「宇宙人」扱いされて、共に歩むことを厭われる存在となってしまう。そして、ひとりあたかも真空のなかで生きているということは、一層その個人にとって辛く昏い道を選ぶような人生になってしまう。そういう道を歩む危険性は、個々人の性格を作りあげていくうえで、誰もが孕んでいることではあるが、主にダイアローグの欠如からそういうのは生まれてくるはずである。だから、世の中を生きるには、その内部で了解されている一定のルールを学び、その中でまずはうまくプレーすることであり、新たなルールを作ることが可能になるためには、まずは人間の基礎的段階を経なければ言う資格すらないということだし、そもそも新たなルールを作ると言っている時点で、それは相当にレベルの高い話なので、あんまり若いあまちゃんが早々とそういうことを言うと、不遜に過ぎるという評価を下され、「なにをおっしゃる。」と鼻で笑われざるを得ないことになるだろう。ちゃんと、僕の好きな言葉にウィトゲンシュタインの「人生とは、まずその内部にあるルールを知ること。そしたら、誰よりも上手くそのゲームをプレーするだけである。」という言葉があるではないか。もう、そんな近くに大切なことが落ちているのを分かっているんだから、自分でそれを拾い上げてみろ、そしてそれを掴んである段階まではしっかりとそれを抱きしめて歩け、と自分に言いたい。
まあ、ここまで破綻しそうなほどまで生活というのを犠牲にして、色々とあっちこっちの世界を考えられたのは、しかもそれでも生活がなんとか保たれている今というのは、はっきり言って幸福な生活の極致であると言えそうなのだけれども。それに、感謝をせずして、次なる発展は望めないと思っておいたほうがいいだろう。そして、また仕事をしていくほかないのだろうと思う。今まで、仕事という仕事を放棄して、「考える」ということで奉仕してきたという自負があるのなら、その成果として「行動」を生み出していくしかやはり方法はないんだということに気がつく今なのである。
ああ、「勇気」とはすべての徳の母親だったのだ。「勇気」さえあれば、何とかなるものを。
実家帰ってきて、今また、こういうふうに思っている。所詮、理屈をこねくり回しているに過ぎない。でも、それを自覚できているのなら、することは分かっているはずだ。うん、まあ少しくらい分別ないくらいがちょうどいいのかもしれないけど。呼吸している人間なら、人間らしく生きよう。
風が、心地よい。歩いていると川沿いで、珈琲の匂いが漂ってくる。これだけの平穏な心もちでいられること以上に、幸福なことはあるであろうか。方向性というものが、確かにある日常ではある。気持ちいいことを、率直に気持ちいいと言える日常。陽の当たる場所で、考え、伸び、健やかに語る姿勢。ああ、しかしどんどんこうしてすぐに理屈っぽくなってくる。あの青空は、僕に過剰に理屈っぽくなることを警戒するべきと説いてくるというのに。
変な暇、というものをどうもてあますのか?これは、僕自身に対する僕自身の問いだ。ただし、答えは明快で、どうもてあますもなにも、暇をどういうふうに扱うかのプロになれば、それはもう暇な時間を過ごしているとは言えないというものだ。つまり、暇な時間をどう過ごすかのプロになるということは、暇な時間をうまいこと減らす技術を得ることだし、有用なことに時間を費やす以上、もう暇を持て余している人ではなくなるということだ。哲学のプロは、考えた成果を暇の対価という価値段階では終わらせない(はずである)。考えるということを意義あるものにする、暇を意義深い時間にまで高める達人である(はず)。哲学は、だから曖昧なものというよりかは、ある意味思考に一定の枠を与えた上での頭のスポーツのようなものである。まあ、だから哲学は、誰でも手を付けられそうでいて、至極難しいものであると言えるのだが。ね、理屈をこねまわしているようで、それが現実と折り合いのつく地点にもっていかなければいけない、とか。きちんと先人から梯子を接いできているような伝統の上になりたっているから、それを学ばなければ話にならん、とかね。
おっと、話が哲学者たるものはこうあるべきというちょっと別の話題になってきてしまったが、別の観点に立てば、暇な時間になれば人間は余計なことを考えだす(それが、多少正しいことであっても、余計は余計ということに変わりないことだったりする)というのは目に見えていることだから、意味のある人生を送りたいと思うのならば、大概はかたちから入ることをしていけばよりスムーズである。どうやら、僕に足りないのはそういう規律ある行動だけであるらしい。僕らは、子どもの頃は、いろいろと何かをやるにせよきちんとその都度、一定の枠というフィールドを与えられていた。実は、大人が生きていくためにもフィールドというのが必要だ。そういう適度な規範が必要なのね。そういう世の中のルールってのを無視して進む道は、理解されない道である。人間は、変な意地を張らずに、多少は理解されるかもなと客観的に観られるような、多少は承認される道を歩まなければ、まあ、なんというか継続的な歩行は無理である。確かに、個人のなかに理解されない部分は少し持っていたほうが、スパイスとしてその人の個性にはなる。だが、理解されないことばかりで組成された人格は、まあ社会的には「宇宙人」扱いされて、共に歩むことを厭われる存在となってしまう。そして、ひとりあたかも真空のなかで生きているということは、一層その個人にとって辛く昏い道を選ぶような人生になってしまう。そういう道を歩む危険性は、個々人の性格を作りあげていくうえで、誰もが孕んでいることではあるが、主にダイアローグの欠如からそういうのは生まれてくるはずである。だから、世の中を生きるには、その内部で了解されている一定のルールを学び、その中でまずはうまくプレーすることであり、新たなルールを作ることが可能になるためには、まずは人間の基礎的段階を経なければ言う資格すらないということだし、そもそも新たなルールを作ると言っている時点で、それは相当にレベルの高い話なので、あんまり若いあまちゃんが早々とそういうことを言うと、不遜に過ぎるという評価を下され、「なにをおっしゃる。」と鼻で笑われざるを得ないことになるだろう。ちゃんと、僕の好きな言葉にウィトゲンシュタインの「人生とは、まずその内部にあるルールを知ること。そしたら、誰よりも上手くそのゲームをプレーするだけである。」という言葉があるではないか。もう、そんな近くに大切なことが落ちているのを分かっているんだから、自分でそれを拾い上げてみろ、そしてそれを掴んである段階まではしっかりとそれを抱きしめて歩け、と自分に言いたい。
まあ、ここまで破綻しそうなほどまで生活というのを犠牲にして、色々とあっちこっちの世界を考えられたのは、しかもそれでも生活がなんとか保たれている今というのは、はっきり言って幸福な生活の極致であると言えそうなのだけれども。それに、感謝をせずして、次なる発展は望めないと思っておいたほうがいいだろう。そして、また仕事をしていくほかないのだろうと思う。今まで、仕事という仕事を放棄して、「考える」ということで奉仕してきたという自負があるのなら、その成果として「行動」を生み出していくしかやはり方法はないんだということに気がつく今なのである。
ああ、「勇気」とはすべての徳の母親だったのだ。「勇気」さえあれば、何とかなるものを。
実家帰ってきて、今また、こういうふうに思っている。所詮、理屈をこねくり回しているに過ぎない。でも、それを自覚できているのなら、することは分かっているはずだ。うん、まあ少しくらい分別ないくらいがちょうどいいのかもしれないけど。呼吸している人間なら、人間らしく生きよう。
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