序文 震災を超えて~『想像ラジオ』が提示した震災後の精神世界~
震災を乗り越える叡智を創造するという文学の挑戦
震災と文学の関連性を巡る一考察~特に東日本大震災と『想像ラジオ』を主たる題材として~
震災に遭遇し、われわれはいったいその未曾有の大災害から何を学んだというのだろうか? そもそも先だっての震災は、いったい何のためにわれわれを襲ったというのか? ともすると「文学」というものは、それに対する回答をわれわれに用意してくれるものであるのかもしれない。V・フランクルの言葉に「意味への意志」というものがある。それによれば、
それゆえ、なぜか論者は震災という事件に真っ向から直面、まるで宙に浮遊したまま、震災の経過を淡々と横から眺めているというリアルな感覚に乏しい現実の受け止めた方しかできなかったのである。そのことは論者に、半分は住んでいた地域を鑑みれば、被災者としての生を、しかしながら半分は、それでも目立った被害を受けなかった非被災者としての生をその後は送るべしという、極めてアンビバレントな宿命を負わせることになったのである。
論者が、主観的な感覚においてではあるが、先の震災が起きる2年程前、脳内に押し寄せてくるような意味の洪水に襲われる事態に直面した。無論、先の震災を想定していたというわけではない。ただ、論者には悲劇の前の心の準備を十分にする時間があったということである。
ともあれ、先の震災はわれわれにとって何某かのメッセージであるほかはない。そうでなければ、起こることに何の意味もなかった出来事としか捉えようがなくなってしまう。しかし、ドゥルーズの語るところの「出来事」という意味で説明をするとなると、それぞれの人生にとって何の意味もない「出来事」などは、有るはずがないのである。「死」と「生」の境を、自由に横断できる時代がくる。
これまで無菌状態だった平和が、土の生気を吸って蘇る!!!!!!!!!!!!
われわれが暮らしている日本こそ「絶望の国」であるということが、東日本大震災によって、より一層明確化されてしまったのである。それに対し、われわれが「態度価値」をどう見出していくかということが鍵なのである。手始めに「態度価値」を把持できれば、おのずと「体験価値」を見出すに至り、結果、「創造価値」も追従してわれわれの暮らしに現れるようにもなるだろう。
また、人類の教師、ソクラテスの言葉も借りれば、われわれは先の震災で、それぞれの人生上で類を見ないほどに「驚き」、それによって更なるものの考え方の向上を促されたのではないだろうか。
時代を画することが起きる予感。大いなる「やる気スイッチ」。
われわれにとって、虚構と事実は、その境をなくしつつあるものとして存在していると言えるのではないだろうか。
あれだけ夢に見ていたことが、一夜一夜に蘇る。
われわれは、夢を諦めたときに、もっとも夢へと近づくことのできる存在である。
ギルガメシュ神話。
良弁。
論者は知り合いの女性から、「大きな揺れが来たとき、ワクワクした。俄然、精神が高揚し、喜ばしい変化が起きようとしていると思えた。」という趣旨のセリフを聞いた。なんと、ウィリアム・ジェイムズもほぼ同じことを言っている。不謹慎かもしれないが、わたしは震災という深い時代の亀裂に身を投じるという一生に一度の事態、言い換えれば、自己破壊衝動を助長する、エクスタシーを伴うイベントである。それはまさしく、人生における重大でアトラクティブで心躍るような、リアルで本物の生々しい体験ということができるのではなかろうか? 本物の体験とは、紛れもない死と真剣に向き合ってこそできることである。
被災者は非被災者であるがごとく、非被災者は被災者であるがごとく考えることが求められる。
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