水面を破壊せよ、上へ昇って

勢いよく水面を破壊する気概で、海面に湧く言葉たちであれ。

世界認識の方法―文明の本質、自然と人間、科学哲学、創作物に触れる悦び、及び自由を保証する檻について(端書き)―

2016年09月14日 23時20分06秒 | エッセイ
 文明の進歩とは、「恐怖」による束縛から「安心」がもたらす自由へ至る道のりをたどるものだ。

 而して、自然を「畏怖」の対象から「征服」の対象にすり替えたのが科学の発端である。
  コントロールしようがないモノを、どうにかしてねじ伏せることができるかどうかが科学の仕事である。

 思い通りにならない世界を、思い通りにしようと東奔西走するのが、人類の目下の任務である。

 人間にとって最大のカタルシスとは、まさしく世界を「直観」する際にこそ訪れるものである。
 自分を内包された自然の一部分として見るのではなく、世界から切り離された純然たる個体とみて、その神視点から世界を見るということである。科学とは、そのような野望によって生み落とされた人間固有の方法論である。
 つまり、そこには対象と自分を切断し、全体を眺めるだけの距離がある。自分を、世界の内部の者と見なさない傲慢さがある。
 科学を、人類の傲慢の申し子とみるか、あるいは少しでも現状という枠をはみ出そうとする進取の精神の賜物と見るか……。どちらの視点でみるかは、今後の科学哲学領域において活発な議論が為されていくものと期待しているところではある。

 音楽とは耳で音を聴く以上の何かであり、また同様に、本を読むということも目で字を追う以上の何かであることは、おおよそ確かなことである。
 それ以上の何かにアクセスする、または何かを疑似体験できるからこそ、その行為に価値があると思えるのである。

 アクセスして、帰ってくることの深い意義。
 何かを見るということは、何か見えないものをみようとする気概をも含む。
 しかし、人間にとってある檻に閉じ込められていることは、ひとつの幸福であったりもする。

 雲の中にいるとき、われわれはそれを雲だとは認識しない。むしろ、「霧」だと認識する。雲とは、霧の内部から抜け出し、距離を以てそれを観察したときはじめて名付けられうる名称ではある。つまり、人間にとって「雲」という概念は、その外部に居るときにしか思いつくことのないものである。その内部に居る際は、「霧」という別の概念で以てしか説明されざるを得ないものである。 
 これは、人間が「世界」を観る際にも同様に発生する問題を提起するものである。人間を世界の内部にしか居れない存在とするならば、正しい世界の捕捉方法など彼らは知る由もないはずである。

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