やはり、さっき観た映画のメッセージは衝撃的だった。
僕が、日々の怠惰に溺れ、「使命」を手放しそうになったときに、叱咤を受けたような、そんな母からの怒りのような、恐るべき天啓に等しいものを与えてくれたように思えるのだった。
この様な、映画を観る機会を与えてくださったある人にはほんとに「感謝」申し上げたい。僕は、甘ちゃんのなかの、もう最近のトマトみたいに甘く、はちみつと砂糖とメープルシロップをぜんぶ一気飲みしても足りないくらいの程度の甘さで日々を過ごしていたのだと、思い知らされた。
そして、「真実」は無いことが「真実」だと思うことができたのだ。それは、まさしく「水」のようである。ただし、実際に人間は「水」が68パーセント位の割合で出来ていることから、人間が「水」のように生きれば良いというのは、やはり68%くらい合ってはいるが、いや、多少の水だけでは語りきれない法則も必要なんだよ、とは言っておく必要が有るかもしれないが……。
とにかく、「真実」は頭で得るものであるのならば、「体」は要らない。おそらく、どんなときでも逆転の発想が必要で、「体」が「答え」を教えてくれるというふうに思っているほうが、健康的なのかもしれない。頭は、あくまで想像する、プランを立てるところ、そしてフィードバックを分析するところで、「実践」なき理屈は、赤子の手を捻るより容易い取るに足らぬ言葉の羅列に過ぎないと思われる。
自分には、「自己陶酔」などしている暇は無い。かといって、「自信喪失」なんて更にくだらないことをしている暇も、やはり無い。
「愛」と「勇気」に生きる。これが、僕にとって最も大事なことで。人生をいじくりまわすことからは、何にも得られない。持つべきものは、友である。それは、自分という牢獄から救ってくれる、ひとつの真理である。
さて、「分析」することと、「総合」されることは、どちらも同程度に重要である。これは、「分裂」と「統合」という言葉にも、置き換えられる。私たちは、生きている限り「分裂」していくことを宿命づけられているが、その都度、小さな「統合」も為していかなければ、何も成すことはできない。そういう意味で、「矛盾」を生きることを余儀なくされているというのがわれわれ「人間」なのである。ああ、僕はおかしい。「バカ」だ、と思っていなければ、他人から「学び」もしないし、かといって「自信」を持たなければ、だれも味方になろうとは欲してくれない。そんな、厳しい世界で、「笑顔」を保って生きていくほかないのが人間なんだろう。
「自分」の苦労なんか数えないで、「人」の「達成」を悦ぶくらいの度量を持とう。だって、人間だもの。大事なのは、己の欲せざるところ、人に施すこと勿れ。これって、何度言っても足りない、ごく当たり前の論理だろう。俺は、今こう簡単そうに言っているが、実際は、一生かけてでも為すべき行為である。それを、仏教用語では「正定」という、「正しき道理を為すことを絶えず自分に言い聞かす」、といった様なことだ。
人は、理屈では理解できない。しかし、理はそれぞれの人を貫いている。何事にも、人は理由を求める。でも理由なんてないのだ。ただ、それゆえニヒリズムに走っては、ニーチェの堂々巡りに陥る。ニーチェは、まだきちんと理解されていない、と思われる。ニーチェが、狂人になってまで、われわれに伝えようとしたことはなんなのか?僕は、それが知りたい。それを知りたいと願う、ひとりの普通の人間である。
人は、人の上に立つことなど本来的には出来ない。でも、人の上に立たざるを得ない人というのは、実は「それほど大したことの無い」だ。つまり、何を言いたいかというと、「素直に自分の弱さを認めている不甲斐ない人間の1人」だ、ということだ。人間は、己を知ってこそ、他人を使える。
言葉は、「凶器」でもあるが、「利器」でもある。それを忘れずに、僕らは「希望」の言葉こそを語っていこう。
僕には、「体系立った」ことなど理解できない。逆に言えば、「収集のつかない事態」を直観することができる。人間、そう簡単に答えが出るものではない。だから、悩んだ時は、諦めて「寝る」のである。それが、何よりの薬だ。もう、頭だけ使うことはやめよう。身体が、求めていることをやって、頭を元気づけさせるのだ。総ては、ただ歩むことから、くよくよせずに、はじめてみよう。
口先だけ、なんて勿体無い。身体をもっと、活かそう!できるだけ、気楽に、こうやって、文章書くのが楽しいって!
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