水面を破壊せよ、上へ昇って

勢いよく水面を破壊する気概で、海面に湧く言葉たちであれ。

ズレ、間、差異

2016年08月15日 00時29分51秒 | エッセイ
 僕らの意識の真相は、ズレと間と差異によって明かされる。
 赤い真夜中に、テーブルの上に残したパンケーキの熱量さえ、僕らの意識がそれに到達する前に、その温度はどんどん大気中に逃げていく。
 かるが故に、僕らが何かを実現させるには、僕らは何かを未成就のままにしなければならない。
 想像が逞しく広大な草原を駆け抜ける、そのイメージでさえ、僕は夜のパーソナルコンピュータの前で思い浮かべているに過ぎない。現場で想像せよ、と言うが、その現場はもう既に夢のなかであろう。
 僕は、何も誇張したいわけではない。僕らの人生とは、既に誰かが言いえているように胡蝶之夢の如きものなのだから。
 想いが、雪を降らせるように、僕らのイメージは、時を経て、実現される。そこには、ある種の祈りが届く適切な距離がある。
 約めて言ってしまえば、僕らの脳内のニューロンこそ、この「ズレ」=(別名:ゼーレ)と間(=別名:魔)と差異(=別名:祭)の体現であると言い切れるのではないだろうか? ゼーレとは、ドイツ語で魂という意味である。何らかの、ズレによってそこに魂が宿ると言えるのかもしれない。私は、魂の定義を以下のようにする。物質(と私たちが便宜的に名付けているもの)の有機的な偏りである、と。つまり、物質がある一方に偏ったが故に、生まれたのが「目的」を持った生命なのである。つまり、そこにズレという適度な緊張感がなければ、生まれ得なかったもの、それが生命なのである。だから、僕らは、常にちょっとズレている感覚を持ち合わせていることで、生命を継続していけるのである。
 魔、とは人間に不思議な力を授けるものである。ハイな気分にさせたり、灰な肺にさせちまったり、とことん不可解な奴である。間男なんてのも、つくづく間の悪い奴の代表である。
 祭とは、人間の生き様である。寂しい夜にも、提灯に灯りを点し、一しきり大騒ぎすれば、大抵の悩みは雲散霧消する。これもまた、一種の儀式である。
 以上のように、われわれの意識は、ズレと 間と差異によって、語られるといえるのだろう。
 ところで、僕の書いているこのくだらない備忘録は、神様から見て、如何なる意義を帯びているのか、というのは心底気になるところではあるのだが。だが、しかし、それもまたズレによって、明かされないまま終わりそうである。
 そして、誰も、私も必要としていない文章こそ、誰にとっても必要なものであるという逆説は、いつなんどきでも成り立つようだ。

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