水面を破壊せよ、上へ昇って

勢いよく水面を破壊する気概で、海面に湧く言葉たちであれ。

決定的な事象なんて有りえない

2016年09月22日 10時22分36秒 | エッセイ
 まあ、僕らが生きていく限りにおいては「哲学」なんて、遊びの一つでしかない。世界をこれこれ、こういう風に解釈するのが好きだと表明しているだけで、別にほんとうに正しいことを言っているわけではない、と断言してもいい。哲学など、どんな形で語られようと、どんな形で存在していようと何の問題もない。ただ、われわれ人間たちが、それぞれ抱えている問題を、どう解決するのかということに関して、何らかの役割は担っているのかも知れないが……、それは断言できない。
 だから、「真理」などを探すのは不毛なのである。不毛というより、真理は逃げていくというか、われわれは、核の周縁を飛ぶことしかできないというか‥。つまり、物事の核心が「真理」であるとするならば、われわれは、核心へ「生きてい」る間は、たどり着くことは叶わず、遠すぎもせず、近過ぎもしない中途半端なトコを永遠に廻っているしかできないのである。
 もっと言えば、こうせねばならぬという「道徳」を自らに課していくと、「できること」が減少してくるという事態になってくる。まずは、失敗を恐れずに行動を、と言ったところであろうか。自分なりの道を、プランを立てて歩んでいくというのは、それはそれで意義のあることだが、大体人生はプラン通りになんか行かない。むしろ、プラン通りに行かないという「真理」をこそ、受け容れる必要がある、それは、まさしく「真理などは無」いという「真理」を受け容れろと言っているに等しい。が、それこそ確かな真理である。まさしく、われわれは「この先」という何が起こるか分からない「時代」の最中をこそ常に生きているのであって、何事にも初めてそれに対するが如き心で立ち向かっていかなければならない。人生に、予め用意された解答などない。その解答を創り出していくのは、他でもない個々人である。少しくらい「道を踏み外」すことなど、恐るるに足らずだから、安心してその歩を進めていくがよい。
 「道徳」もまた、時代の要請に応じて姿を変容させていくべきものであることには変わりない。


コメントを投稿