水面を破壊せよ、上へ昇って

勢いよく水面を破壊する気概で、海面に湧く言葉たちであれ。

日本不和協奏曲

2017年04月27日 23時43分15秒 | ぽつり一言
おそらくなんですけどね。
ここに、いわゆる右と左に引き裂かれながら前進している日本列島全体へ向けて、分析のメスを入れようとしているのでして。
シンプルな話、右と左の違いは、おそらく次のようなことに起因すると思うのです。
私は、長年、右の方と左の方の主張を耳をダンボにして聞いて参りました。
そんななかで、今、考えていることを語りたいと思います。
ここで、専門用語を一発ぶちかまします。
(人類が無意識的に存続したいかどうかをエポケーすること)
これ、重要な作業です。
さて、この言葉の説明を致します。
多分、最もナニコレワードである「エポケー」から説明すると、まあ単純な話、立ち止まって考えるという意味がピッタリだと思います。
はい、そして一般的には、人類の平和=人類の穏やかな継続という図式が簡単には思い描かれますよね。ところがどっこい、ここで私は全くもって真逆のことを述べてしまいます!
何か……
それは、人類の平和の達成とは、必ずしもその後の人類史の継続を意味しないということです。
あれ?人類って、平和を望んでるんじゃないの? と同時に、人類は生存し続けることを望んでだっているんじゃないの? って、フツーの人なら思いますよね。
しかし、これらの二つは共通するどころか、対立する事項にもなってしまうのです。
さて、この話がどのように右と左の対立と関わっているのかと言いますと、単純に僕は、右の人はなるたけロマンティックな言説を忌避して現実路線で人類継続を意識的に望む思考様式を、一方で左の人はその青春の夢を諦めず何かを達成することに情熱を燃やして、その何かが達成された先の未来が必ずしもあるかどうか無意識的に考慮しようとしていない思考様式を採っている人と言えるのではないかと推論するのです。
俗っぽく言えば、太く短くを望みロックな精神に鑑みると早死にカッコいいとか評する精神性と、地味でも泥臭くてもいいから細く長く行こうぜって感覚の違いとも言えます。
そう、人類平和の達成って、もしかすると人類の歴史の劇的な終わりを意味する可能性があるのですね!
だから、人類は無意識的に存続したいかどうかをエポケーすることに大きな意味があるのです。
さあ、私たちはどんな未来を望んでいるのでしょうか?
共に考えてみましょう。
僕らの右か左の違いは、人類の存続に対する意識の持ちようなりアプローチの違いから発生しているのだと思います。
と、これが、今夜僕が考えたささやかな主張です。
どんな反応が帰ってくるでしょうかね?

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