ある産婦人科医のひとりごと

産婦人科医療のあれこれ。日記など。

iCloudの「iPhoneを探す」を初めて利用しました

2012年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム

iPhoneを紛失し、今日は朝から、自宅、職場、自家用車内などを探し回りましたが、なかなか見つからず困り果てておりました。

夕方になって、iCloudに「iPhoneを探す」という機能があったことを思い出して、初めて利用してみました。iPadでiCloudのWebサイトにアクセスして自分のアカウントでサインインし、「iPhoneを探す」をクリックしたところ、iPadの地図上にiPhoneの位置が表示され、自宅にあることが判明しました。そこで再度自宅を探して、やっとiPhoneを見つけ出すことができました。

世の中便利になったものだと感心しました。


光陰矢の如し

2012年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム
本当に時間のたつのが速いように感じる今日この頃です。

外来診療を担当する日は、朝8時半に外来に行ってそのまま休みなく外来診療をこなしつつ、合間合間に病棟や手術室などにも顔を出したりしているうちに気がついたら夜になっています。手術を担当する日は、朝早くから手術室にこもりきりで手術に没頭しているうちに外は暗くなっています。やっと仕事を終えて帰宅した途端に緊急手術などで病院に呼び戻されることも多いです。帰宅すると家人はもうとっくに寝ていることも多いです。

私が飯田市立病院に赴任したのは24年前の平成元年4月で、産婦人科のスタッフは最初たった3人(産婦人科医1人、助産師2人)しかいなくて、その3人で外来診療も病棟回診も分娩もすべてこなしました。当時は県内で最も小規模な産婦人科でしたが、この24年の間に扱う分娩件数は県内最多となり、産婦人科スタッフも大変な大所帯となりました。

1年後には県下最大規模の周産期センターも完成する予定なので、多分これからますます忙しくなると思います。眼前には多くの困難がたちはだかってますが、みんなの力を結集して困難を一つ一つ乗り越えていくしかありません。いろいろ悩んでいてもしょうがありません。今まで何とかなってきたんだから、多分これからも何とかなることでしょう。ここまで来たら今さらもう後戻りはできません。定年退職までの残りの6年間は、最後の御奉公でこのまま行けるところまでどんどん突っ走って行くしかありません。その後は大学医局の優秀な後輩達が立派に引き継いでくれることでしょう。


やっとiPhone5が届きました

2012年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、予約していたiPhone5がやっと届きました。スマートフォンを持つのは生まれて初めてで、使い方がよくわかりません。お店の人からは、「iPhoneの設定はうちではできないので、すべて御自分でやってください。どうしてもわからない時は、アップル・サポート・センターに問い合わせるか、アアプル・ショップに行ってください。」と言われました。今まで携帯電話を買い替えた時のように、お店の人が手取り足取り全部やってくれない。とりあえず、Eメールの初期設定などを行ったあと、iPadで読んでいる自炊本のデータを、順次、iPhoneに移行してます。いつでも自炊本を全部持ち歩けるのはいいのですが、iPhoneの画面はiPadの画面と比べるとかなり小さいので、これで読書するのは老眼の身には非常に厳しいことがわかりました。また、電話のかけ方やメール送受信のやり方なども、今までと使い勝手が全然違うので、未だよくわかりません。これまで愛用してきたdocomo携帯電話の住所録をどうやってiPhoneの方に移行するのかもよくわからず、悪戦苦闘してます。

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iPhne5

2012年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日、エディオンで今話題のiPhone5を見て急に欲しくなり、さっそく予約してきました。SoftBankかauかで少し迷いましたが、当地域ではまだSoftBankはつながりにくいという話をよく聞くので、今回はauのiPhone5を予約しました。iPhone5の画面は、今毎日持ち歩いて読書や外来診療の患者説明用などにも使っているiPadの画面とほとんど同じだったので、多分なんとか使いこなせるようになると思います。使ってみるのが楽しみですが、いつ入荷するかは全くわからないとお店の人が言ってました。私は今までずっとdocomoの携帯電話を使ってきましたが、iPhone5はdocomoで取り扱ってないので、今回、初めてauに乗り換えることになりました。

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これから何を目標に頑張ったらいいのか?

2012年04月14日 | 日記・エッセイ・コラム

もともとは漢方医学を学ぶ目的で医学部を受験し、学生時代には独学で漢方医学の勉強をしましたが、医学部卒業後は母校の産科婦人科学教室に入門して三十年間漢方医学の勉強は封印して過ごしてしまったので、これから封印を解いて漢方医学の勉強を独学で再開したとしても、一人前の漢方医として世間で通用するようになるのはもう難しいと思います。

産婦人科に入門後は、その時その時の必要に迫られて、産婦人科の各分野の仕事に従事してきました。大学院生時代は主に婦人科病理学、婦人科細胞診断学などの勉強が中心でした。飯田市立病院に赴任してからは、婦人科腫瘍学関連以外に、腹腔鏡下手術や周産期医学などの分野の仕事のウエイトも大きくなりました。

私の婦人科腫瘍学の最初の師匠は野口浩先生、塚原嘉治先生をはじめとした教室の諸先輩方でした。手術のやり方や病理診断、細胞診など、非常に多くのことを教わりました。その後、藤井信吾教授、小西郁生教授からも非常に多くのことを教わりました。今では、塩沢丹里教授をはじめとして信大の諸先生方から教わることが非常に多く、当科における婦人科悪性腫瘍手術の執刀は信大の腫瘍専門医の先生方に御願いすることが多くなりました。

私の腹腔鏡下手術の師匠は可世木久幸先生(日本医大教授)でした。毎週、可世木先生と腹腔鏡下手術を実施していた日々は私にとって非常に楽しい思い出です。当時は腹腔鏡下手術に明け暮れた毎日でしたが、残念ながら私は不肖な弟子で全然上達せず、今では腹腔鏡下手術から完全に足を洗ってます。

私の周産期医学分野の師匠は何と言っても波多野久昭先生です。波多野先生は今では不妊症の専門家ですがもともとの御専門は周産期医学で、周産期医学に関してはほとんど素人同然だった私に、十四年間の長きにわたり、いろいろなことを基本から教えてくださいました。また、芦田敬先生からは周産期医学の最近の考え方について二年間で多くのことを学びました。

残りの人生で何を目標に頑張ったらいいのか? これから全く新しい分野に挑戦して一から入門しなおしても、結局は中途半端に終わるだけでしょう。残された時間は無限にあるわけではないので、時間はなるべく有効に使う必要があります。可能性としての選択肢はいろいろあり得ますが、もう自分も若くはないし、やはり今までの人生で培ってきた知識と技能と経験と人脈を有効利用する道を選択した方が、世間からの要請にも少しは応えることも可能になると思われます。


定年退職後の生活設計

2012年03月29日 | 日記・エッセイ・コラム

人生九十年としてあと三十年あるとしたら、これから今の職場を退職するまでの数年間で身も心もぼろぼろになってしまっては何にもなりません。今まで仕事を最優先にして、いろいろなことを犠牲にして生きてきたのは、本当に馬鹿げていたような気もします。退職後にはつらつと楽しく充実した生活を送るためにも、これからはライフスタイルを根本的に変えて、無理せず趣味を最優先にして楽しく健康的に生きていきたいと思います。


地域の病院がこの世の中に生き残る条件は?

2012年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム

大学病院を辞して地域の病院で診療に従事するようになって23年経過し、自分もある程度の勉強は続けてきたつもりだが、その間に産婦人科の各分野も非常に大きな変貌を遂げ、自分の医学的常識や手技などが全般的に旧式になっていることを強く感じる今日この頃である。今後、地域の病院がこの世の中に生き残っていくための必須条件として、診療内容を年々バージョンアップさせて時代にマッチした病院に変身し続ける必要がある。新しい医学を習得した若い医師がどんどん増えて、日々大活躍してもらう必要がある。中高年医師は、若い医師達が活躍できる環境を整備し、徐々にシェイドアウトしていくのが世のため人のためだと思う。最後の御奉公として、若い医師達が思う存分頑張れる診療環境を整備するよう精一杯努力したい。


多忙なれど充実して楽しい日々

2011年12月18日 | 日記・エッセイ・コラム

最近は、月当たりの分娩件数 110~120件がほぼ定着し、年間の分娩件数はおそらく 1300~1400件程度となる勢いです。比較的暇な日もありますが、忙しい日は一日十数件の分娩があり、先週も立て続けに五件連続で帝王切開を実施した日がありました。

年の瀬も押し迫ってきた今日この頃ですが、年内に帝王切開がまだ十数件予定され、年明け早々にも、連日、帝王切開が三件くらいづつ予定されてます。おそらく、正月休み中も、毎日緊急手術があるのではないかと予想してます。

この週末も、病院から約 5km離れた場所で病院の忘年会が開催されてましたが、宴会の最中に当直の先生から緊急コールがあり呼び出されました。タクシーを呼ぶよりも手っ取り早いと考えて、宴会場から病院までの約 5kmを小走りで駆けつけ、そのまま朝まで若手医師達と緊急対応しました。

私も定年退職までの 7年3ヵ月は、気力・体力の続く限り、この地域の産婦人科医療を死守するために頑張り抜きたいと考えておりますが、扱う症例数が非常に多くなってきましたので、大学病院の産婦人科との緊密な連携なしでは一日たりともやっていけません。大学の医局には優秀な後輩医師達が大勢いて、教育もきちんと行き届いているので、次世代へのバトンタッチは、何があっても絶対に大丈夫だと確信しております。私も定年退職がだんだん近づきつつありますが、若い後輩医師達と共に新しい医学を学び、共に成長してゆけるので、非常に充実した楽しい日々です。


物忘れ癖

2011年12月04日 | 日記・エッセイ・コラム

若い時分から、人の名前をすぐに忘れてしまい、なかなか思い出せなくて苦労することが非常に多いです。毎日顔を合わせて何年間も一緒に仕事をしている病棟スタッフなのに、実は、まだ名前を十分に憶えきれてない人が大勢います。病棟の宴会などで、突然、「名前当てクイズ」が始まり、「さて私の名前は何でしょう?」と病棟スタッフから次々に名前を聞かれ、ほとんど答えられず自分でもびっくり仰天してしまうことも慣例行事となってます。

また、財布、キー、携帯電話、院内PHS、愛読書などを、そこいら辺によく置き忘れて、「私の財布を見なかったか?」などと、毎日のように「置き忘れ事件」を繰り返してます。私の人生のかなりの時間がそれで浪費されてます。

物忘れ癖のために日常業務に支障をきたすようだとまずいので、重要書類は決して自分では保管しないようにして、すぐにクラークさんに手渡して厳重に管理してもらいます。また、日々の自分のスケジュールをしっかり把握しきれてないので、会議などの直前に院内PHSで知らせてくれるようにクラークさんに頼んであります。

最近、amazonで探し物探知機「どこいっ太郎」を購入しました。財布や車のキーなどを探すのに便利な道具として購入しました。部屋の中でも、子機に取り付け、親機のボタンを押せば、探し物が音を発するので見つけられます。難点は子機が大きすぎることです。

探し物探知機 【どこいっ太郎】 RF-315N

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周産期専門医試験について

2011年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム

10月22~23日に東京大学で周産期専門医試験があります。

試験本番まであと9日となりました。試験に不合格でも日常診療上で特に困ることはありませんが、不合格の場合はだらだらと受験生活が続いて、他の事が何もできなくて困ります。

考えてみれば、昨年は毎週末のように登山・ハイキングを楽しんだんですが、今年はほとんどどこにも出歩いてません。日曜日の午後、急に思いついて、久し振りに風越山登山をしましたが、運動不足で、途中で何度も足がつりそうになってしまいました。こんな不健康な生活を続けていては駄目だと痛感しました。


吉野ヶ里遺跡

2011年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム

佐賀市のどんぐり村で開催された日本周産期・新生児医学会学術集会(第29回周産期学シンポジウム)に参加し、昨日、日本版新生児蘇生法ガイドライン2010のアップデート講習会を受講しました。

昨日は、どんぐり村の学会会場までたどり着くのに、自家用車で長野県の自宅を出発してからほぼノンストップで約15時間もかかりました。全国的に大雪となり始めているようですが、佐賀市でも雪が降り始めました。明日は1日がかりで自宅まで帰る予定ですが、大雪の中で明日のうちに自宅まで帰り着けるかどうか心配です。

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本日夕方、長年の夢がかなって吉野ヶ里(よしのがり)歴史公園を初めて訪問することができました。今の中学生達が学んでいる歴史教科書には、吉野ヶ里遺跡は弥生時代の代表的な遺跡として必ず記載されてますが、私が中学生の頃の歴史教科書には載ってませんでした。ですから、吉野ヶ里遺跡は、今の若い人達にとっては誰でも知ってる常識語ですが、中高年世代だと知らない人の方が圧倒的に多いのではないかと思われます。私が吉野ヶ里遺跡のことを初めて知ったのは、2002年(平成14年)1月15日に放映されたNHKの特集番組:「プロジェクトX ― 挑戦者たち ―王が眠る神秘の遺跡 ― 父と息子・執念の吉野ヶ里」を見た時でした。

参考:吉野ヶ里遺跡―復元された弥生大集落、七田忠昭著

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1986年(昭和61年)、吉野ヶ里で巨大工業団地建設計画に伴う「開発調査」が開始された。開発調査とは、建設区域に遺跡があるかどうか調査することを、文化財保護法によって義務付けたものであり、調査は工事をする側の責任において行う必要がある。佐賀県庁文化課では吉野ヶ里発掘プロジェクトを立ち上げ、リーダーを含めて6名のメンバーで調査を開始した。

吉野ヶ里は、昔から畑を耕せば土器がでてくるというような土地であった。しかし、そこが古代の王国跡だとは誰も思ってはいなかった。そうした中でただ一人、七田忠志(地元高校の歴史教師)だけは違っていた。生涯をかけて(1981年、昭和56年没)独力で発掘調査を続けた。彼の没後、その息子・七田忠昭が佐賀県庁文化課の吉野ヶ里発掘プロジェクトのリーダーとなった。

発掘は順調に進んだ。忠昭は父の夢みた王国が具体的な姿を現してくるのを素直に喜んだ。ただし、この発掘の目的は「開発調査」であり、発掘が終わり次第遺跡は壊されてしまい、二度と再び人々の目に触れることはない筈だった。発掘現場周辺ではブルドーザーが準備活動を始めていた。調査を終了した地点から、順次工業団地建設に向けて整地するためである。

発掘を進めるうちに忠昭は確信した。この遺跡は絶対に壊してはならない。そこで、あらゆる手立てを尽くして遺跡を破壊から守ろうとした。そして、最終的に吉野ヶ里遺跡が永久保存されるきっかけとなったのは、佐賀県知事・香月熊雄の判断であった。

吉野ヶ里遺跡は、1991年(平成3年)5月28日に国の特別史跡に指定された。さらに、1992年(平成4年)10月27日の閣議決定により、国営公園(吉野ヶ里歴史公園、面積54ヘクタール)として国土交通省によって整備されることになった。また、本公園の周囲は、国営公園と一体となった遺跡の環境保全、及び歴史公園としての機能の充実をはかるため、県営公園(約63ヘクタール)として佐賀県によって整備が進められている。すなわち、吉野ヶ里遺跡は、その周囲も含めて総面積約117ヘクタールの区域が、一体的な都市公園として整備されている。

吉野ヶ里遺跡は、弥生大集落を復元した全国最大規模の遺跡として知られている。弥生時代を通して存在しており、ムラからクニへの変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡である。

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雪が降り始めた吉野ヶ里歴史公園(2011年1月15日、日暮れ)

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人生の岐路

2010年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

思えば人生には多くの岐路があり、多くの出会いがあり、多くの人々に導かれて、私はここまでやって来ました。

もう四十年も前のことになりますが、高校生の頃、私は数学と英語が好きで、大学受験の時は名大理学部と南山大外国語学部英米学科とを受験しました。当時はオープンキャンパスなんてものはなくて、田舎の高校生が大学キャンパスを見学する機会はほとんどなく、受験日当日に生まれて初めて大学のキャンパスを見ました。名大と南山大は、歩いてすぐに互いに移動できるほど近距離に位置してましたが、両大学のキャンパスの雰囲気は全く異なり、まるで別世界でした。名大理学部の方の受験生はほとんど男性ばかりでしたが、南山大外国語学部の方の受験生は女性が多く、キャンパスの雰囲気は非常に華やかでした。あの華やかな世界では生きていけないと直感し、名大理学部の方に進みました。

名大理学部時代は、下宿にこもって趣味の数学と英語の勉強に没頭し、大学以外に英会話学校にも通いました。そんな数学、英語漬けの日々の中で、たまたま大学の近くの本屋さんで(故)大塚敬節先生の漢方医学の入門書に出会いました。その本を読んだのが医学との接点でした。突然湧き上がった漢方医になりたいという気持ちがどうしてもおさえきれず、その場で医学部受験を決意して、すぐに出身高校に行き内申書を作成してもらい信大に願書を提出しました。

信大受験のために松本市を初めて訪れました。初日の受験科目がたまたま自分の得意科目(数学、英語)でしたので、初日の試験が終了して、「これならもしかしたら合格のチャンスがあるかもしれない」と直感し、すぐに近くの本屋さんに駆け込み、2日目の受験科目の受験参考書を買い込み、一夜漬けの受験勉強をして何とか合格にこぎつけ、私の松本市での生活が始まりました。

医学部6年の時に、医学生が市民に医学の世界を解説する医学展という行事が開催され、私も医学生として参加し、趣味の東洋医学についての展示発表をしました。その時、当時産婦人科講師の(故)飯沼博朗先生が顧問になって面倒を見てくださいました。飯沼先生が「産婦人科では漢方や鍼灸を実践できるよ」と産婦人科入局を熱心に誘ってくださいました。偉い尊敬する先生から直接誘っていただいて感激し、その場で産婦人科入局の決意表明をしました。

大学院生の私を婦人科腫瘍学の世界に誘って研究を指導してくださったのは、当時産婦人科講師の野口浩先生でした。大学院では子宮体癌の臨床病理学的研究に従事しました。大学院修了後は、当時産婦人科助教授の塚原嘉治先生の御指導で婦人科細胞診の勉強を始め、一時期、明けても暮れても細胞診に没頭しました。

信大産婦人科に入局して7年経過し、これからどこでどうやって生きていくべきか?と思い悩んでいた矢先に、(故)福田透教授が飯田市立病院産婦人科初代部長に私を指名してくださり、平成元年4月に松本市から飯田市に家族を引き連れて引っ越して来ました。

飯田市立病院産婦人科が開設された当初の2年間は、一人医長で頑張りました。その後、日本医大講師、医局長だった波多野久昭先生が就任してくれました。波多野先生とは全く面識がなかったんですが、初対面の日に一緒に子宮外妊娠の緊急手術を行い、そのまま縁あって14年間よき相棒として一心同体となって一緒に働きました。波多野先生は長年にわたり苦楽を共にしてくださって、いくら感謝しても感謝しきれません。福田先生の後を継いで信大教授となられた藤井信吾先生は、しばしば手術指導に来てくださって、非常に多くのことを学ばさせていただきました。藤井先生の後を継いで信大教授となられた小西郁生先生もしばしば手術指導に来てくださって、多くのことを学ばさせていただきました。日本医大教授の可世木久幸先生は、10年以上にわたり腹腔鏡手術の指導に毎週来ていただき大変お世話になりました。また、信大産婦人科教室の多くの先輩・後輩達が常勤や非常勤で入れ替わり応援に来てくれて、共に楽しく学んできました。小西先生の後を継いだ信大教授の塩沢丹里先生からも、非常に多くのことを学ばさせていただいてます。今年4月からは、信大産婦人科統括医長だった芦田敬先生が赴任し、当科の診療をリードし、若い医師達を日々厳しく教育してます。最近は若い医師が増えて活気にあふれてます(ある研修医の奇跡の産婦人科入局宣言)。

飯田市立病院産婦人科は、開設以来、いつつぶれてもおかしくない状況が長く続き、常に自転車操業を続けてきましたが、この地で偶然出会った多くの人々に助けられ支えられて、何とか奇跡的にこの世の中にかろうじて生き残ってます。いつのまにか22年の月日が流れ、私のこの病院での任期もだんだん残り少なくなってきつつありますが、残りの8年間は滅私奉公で頑張り抜きたいと思ってます。

来年はできれば周産期専門医(母体・胎児)試験に挑戦したいと考えてます。定年後に向け、漢方の勉強も再開したいと考えてます。また、健康維持のため太極拳を気長に続けていきたいと思います。


二重の虹(Double Rainbow)

2010年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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2010年12月22日、飯田市立病院医局の窓より撮影

主虹(primary rainbow)と呼ばれるはっきりとした虹の外側に、副虹(secondary rainbow)と呼ばれるうっすらとした虹が見られることがあります。主虹は赤が一番外側で紫が内側という構造をとり、副虹は逆に赤が内側、紫が外側となります。

Frequently, a dim secondary rainbow is seen outside the primary bow. The colours of a secondary rainbow are inverted compared to the primary bow, with blue on the outside and red on the inside. The secondary rainbow is fainter than the primary bow.