私は岐阜県瑞浪市の出身で、自然科学者になりたいという幼少時からの夢を実現するために、最初は名古屋大学理学部に進学しましたが、卒業を前にして医学を勉強したくなり医学部を再受験しました。受験科目の関係でたまたま信州大学を受験しましたが、入学試験の前日まで長野県内に足を踏み入れたことは一度もありませんでした。信州大学卒業後は岐阜県に戻る予定でしたが、岐阜県内の行き先がなかなかみつからず、とりあえず母校の大学院に進学して長野県に残留しました。というわけで、私は長野県の中でも松本市内しか住んだことがなく、飯田市立病院への赴任を命ぜられた35歳になるまで飯田市を訪れたことは一度もありませんでした。平成31年3月に私は65歳で市立病院を定年退職しました。無我夢中で働いて本当に楽しいあっという間の30年間でした。最初のうちはいつか地元の岐阜県に戻りたいと思ってましたが、今となっては岐阜県に戻っても知り合いはほとんど皆無です。今ではこの飯田下伊那地域に非常に多くの知り合いができて、この地が世界でいちばん居心地のいい場所となり、死ぬまでこの地で暮らしたいと思ってます。
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平成元年4月に飯田市立病院(市立病院)に産婦人科が開設されることとなり、信州大学産婦人科より教授命令で初代市立病院産婦人科部長として赴任し、それから平成の30年間を市立病院で勤務しました。
市立病院に産婦人科が開設された当初は産婦人科医1人、助産師2人の診療態勢でした。平成3年4月にN医大講師(医局長)だったH先生が就任し常勤医2人となりました。H先生とは、その後14年間よき相棒として苦楽を共にし一心同体となって働きました。
飯田下伊那地域では、平成元年には分娩を取り扱う施設が13施設(4病院,9診療所)ありましたが、産婦人科医の高齢化により地域の分娩取り扱い施設は年々減り続け、平成10年頃には地域の分娩取り扱い施設は計6施設(3病院、3診療所)となり、その6施設で地域の分娩(年間1500~2000件)を分担して取り扱っていました。平成17年の夏頃に、その6施設のうちの3施設(2病院、1診療所)がほぼ同時に分娩の取り扱い中止を表明しました。この3施設分を合計すると、年間約800~900件の分娩受け入れ先が突然なくなってしまうことになり、地域から多くのお産難民が出現する最悪の事態も予想されましたので、関係者たちは非常に大きな危機感を持ちました。
そこで、平成17年8月に当地域の各自治体の長、医師会長、病院長、産婦人科医、助産師、保健師などが集まって産科問題懇談会を立ち上げ、この問題に対して今後いかに対応していくかを話し合いました。市立病院(平成17年当時の常勤産婦人科医3人、小児科医4人、麻酔科医3人)は、県より地域周産期母子医療センターに指定され、地域における唯一の二次周産期施設として、異常例を中心に年間約500件程度の分娩を取り扱ってました。産科問題懇談会での話し合いの結果、周辺自治体からの資金提供もあり、市立病院の産科病棟・産婦人科外来の改修・拡張工事、医療機器の整備などを行ってハード面を強化し、常勤産婦人科医数も信州大学からの人的支援が得られて常勤医3人態勢から4人態勢に強化されました。また、分娩を中止する産科施設の助産師の多くが市立病院に異動することになりました。分娩取り扱いを継続する2つの産科一次施設にも、できる限り(低リスク妊婦管理を中心とした)産科診療を継続していただくとともに、地域内の関係者の協力体制を強化して産科医療を支えあっていくことになりました。具体的には、市立病院で分娩を予定している妊婦さんの妊婦健診を地域の産婦人科クリニックで分担してもらうこと、地域内での産科共通カルテを使用し患者情報を共有化すること、市立病院の婦人科外来は他の医療施設からの紹介状を持参した患者さんのみに限定して受け付けること、などの地域協力体制のルールを取り決めました。また、産科問題懇談会は継続して定期的に開催し、いろいろな立場の人達の意見を広く吸い上げて、何か問題が発生するたびにそのつど対応策を協議し、その結果を情報公開して市の広報などで市民全体に周知徹底させてゆくことが確認されました。
平成18年4月以降、飯田下伊那地域の分娩取り扱い施設は3施設(市立病院、2診療所)のみとなり、予想通り市立病院の年間分娩件数は倍増し約1000件となりましたが、共通カルテを用いた地域の産科連携システムが比較的順調に運用され、それほど大きな混乱もなく地域の産科医療を提供する体制が維持されました。また、平成19年6月には市立病院の常勤産婦人科医は5人となりました。
当時、長野県内の他の医療圏でも、産婦人科医不足の状況は急速に悪化し、各地域を代表する基幹病院産婦人科が、次々に分娩取り扱い休止に追い込まれる異常事態となりました。そして、比較的順調に推移していると考えられていた飯田下伊那地域の産科医療提供体制にも、平成19年10月以降は急速に暗雲がたちこめ始めました。市立病院と連携して妊婦健診を担当していた2病院の常勤産婦人科医が県外に転勤し、1診療所が休診となりました。さらに市立病院産婦人科の複数の常勤医が平成20年3月末で辞職したいとの意向を表明しました。平成19年11月に開催された産科問題懇談会にて、平成20年4月からの分娩制限(里帰り分娩と他地域在住者の分娩の受け入れ中止)を決定しました。
その後、信州大学からの人的支援に加えて、他県より2名の産婦人科医が就職し、市立病院は常勤産婦人科医5人態勢を何とか維持できることとなり、平成20年3月に開催された産科問題懇談会にて、翌4月から実施が予定されていた分娩制限を解除することを決定しました。また平成20年4月より、助産師外来を大幅に拡大し、超音波検査を専任の検査技師が担当するシステムも導入しました。平成22年4月、市立病院産婦人科は常勤医6人態勢となりました。
H医院が平成23年2月をもって分娩の受け入れを中止し、近い将来に地域の全分娩が市立病院に集中する事態も想定し、分娩受け入れ数の更なる拡大に対応できるように施設を整備する計画を策定し、平成25年に県内最大規模の周産期センターが完成しました。実際に平成28年7月からは市立病院が飯田下伊那地域で唯一の分娩施設となり、年間1200~1300件の地域のほぼ全分娩を取り扱うようになりました。平成31年1月より市立病院産婦人科は常勤医7人、助産師50人以上の態勢で産科診療を行ってます。
飯田下伊那地域では、初期~中期の妊婦健診は4診療所で行い、後期以降の妊婦健診および分娩業務は主に市立病院で行って、市立病院と地域の産科医療機関とが緊密に連携し協力して互いの業務負担を軽減してます。平成30年度の県と市の予算で、当地域に病診連携のための産科電子カルテシステムを導入するプロジェクトが採択され、平成31年3月より地域産科電子カルテシステムの運用が開始されました。今後、試行錯誤で数年かけてシステムを完成させていく必要があると思います。
平成の30年間、飯田下伊那地域の産科医療提供体制は大きく変遷しました。幾度となく壊滅的な危機的状況にも直面しましたが、その度に信州大学産婦人科からの支援や地域の多くの人々の協力体制の構築によって、危機を一つ一つ乗り越えてきました。産科医療を取り巻く地域の状況はこれからも常に大きく変化します。今後もその時その時の状況に応じて臨機応変に対応し、時代とともに変革を続けていく必要があるでしょう。令和の時代も、多くの人々が協力して、また新たな歴史を切り開いていくことでしょう。