Jan.9 2006 スロベニアへの道

2006年01月09日 | 風の旅人日乗
1月9日 月曜日

凍りついた光景のロシア上空を飛びながら、これを書き始めている。
いいえ、鳥でも飛びながらは書けません。飛んでいる飛行機の中でシートに座って書いてる訳ですね。

モニターによると、飛行機はハバロフスクの北方を西北西に向って飛んでいるのだけれど、眼下には、冷凍庫の中のような、凍てついた景色が延々と続いている。アルミ箔をしわくちゃにしたような山肌を見せている高原地帯を縫って、凍った川がのたくる白蛇のように見える。

しかし、積雪の量自体は、先ほど上空を通り過ぎた、上越、信越、新潟のほうが遥かに凄かった。
『観測史上初』というフレーズが繰り返される、この冬の豪雪のTVニュースを実感した。

朝10時に葉山を出発し、途中、東京に立ち寄ってから成田に向かい、ミラノ行きのアリタリア航空の飛行機に乗って、午後4時前にはロシア上空を飛んでいる。
江戸時代の水戸光圀公や一心太助君、銭形平次君、その他の江戸っ子君たちには、信じ難いことだろう。
昭和生まれで平成に生きる、九州から出てきた田舎っ子にとっても、自分がこんなに高速で空間移動していることが、少し信じ難い。

信じ難いと言えば、「ってやんでい、べらぼうめ。テメエの言ってることが真っ当なら、お天とさんが西から昇って来るぜぃ!おととい来やがれ、このスットコドッコイ!」と元気に喧嘩していた江戸っ子には申し訳ないが、現代人は、太陽が西からも上がることも、経験する。

日本から西に向って飛ぶヨーロッパ線では、ある時間帯に飛行機に乗っていると、北極圏に近い高緯度を飛んでいるときに、西に飛ぶ飛行機の速度が、地球の自転の、その緯度での地表の東向きのスピードを追い越してしまい、一度沈んだ太陽が再び西から顔を見せることがある。

そのままその高緯度帯をグルグル西向きに飛んでいたら、その太陽は東に沈んでいくんだろうけど、そうなると飛行機に乗っている自分は、昨日とかおとといに行っちゃうのかなあ?そんなことはないんだろうなあ。
…よく分りません。
これ以上考えているとアインシュタインの一般相対性理論の世界に入っていきそうなので、今は、アリタリア航空機上で飲み放題のイタリア・ワインに没頭することにする。

さて、そのアリタリア航空機は、アルプスの山々のシルエットを北に見ながら、日が暮れたイタリアのミラノに無事着陸した。
ひどく寒い。摂氏1度だ。まあ、ミラノは、2月から始まる冬季オリンピック開催地のトリノよりも北なんだから、寒くても仕方ない。

しかし今回の旅の目的地はミラノではない。トリエステという、国境の町だ。

ミラノで3時間ほど乗り継ぎ時間をつぶし、トリエステまで旧式のプロペラ機で飛ぶ。

夜の11時過ぎ、トリエステ空港の、やけに恐い検疫係官から開放されて到着ロビーに出ると、メールで予約していた白タク運転手のミハ君が、くたびれた顔で(飛行機が予定よりかなり遅れたのだ)、「wellcome Kazu!」と書いたプラカードを、胸の前につまらなそうに掲げて待っていてくれた。

彼が運転するシトロエンが深夜のモーターウエイを東に向って爆走する。
右横にアドリア海が闇の中に真っ黒く広がっている。
葉山を出てから22時間近く経っている。眠い・・・。

しばらく猛スピードでブンブン走った後に見えてきた料金所のようなところで、ミハ君が、「パスポートを出して」と言う。
何で?と聞いたら、ここは国境なんだと言う。
国境?
この料金所(お金は取らないけど)のような国境の向こうは、スロベニアという国らしい。

スロベニアって国、知ってますか?
僕は知らなんだよ。

と言うか、今回の自分の行き先がスロベニアだってことも知らなかった。ここで初めて知った。家族にも友人にも関係筋にも、「イタリアに行ってきます」、って言って日本を出てきた。

そう言えば、この旅の打ち合わせメールのごく初期の頃に、Sで始まる地名のような単語が一度だけ登場したが、その後出て来ないので忘れてた。スロベニアのことだったんだね。

スロベニア。Slovenija。
1991年にユーゴスラビアが解体分離後に独立した国。
つい最近EUに加盟。
人口約200万人。
運転手のミハ君からの、にわか勉強です。

その国境に程近い港町、Port Rose(スロベニア語でポルトロッシュ、イタリア語でポルトロゼ)が今回の旅の目的地だった。知らなかったなあ。

さぁて、明日は、できたてのホヤホヤの、まだ発売前の、全長44フィートのワンデザインクラスのヨットを、日本人として初めて操船する。
どんな艇なのかなあ? 
開発陣と設計者は自信たっぷりだ。
楽しみだなあ。

ホテルはえらく豪華で、カジノまで付属しているけど、今日のところは取りあえず、明日に備えて早く寝よ。

Jan.8 2006 海洋生物の記憶

2006年01月08日 | 風の旅人日乗
1月8日 日曜日

Hマリーナヨットクラブの、今年最初のクラブレースに参加した。
今年も熱く燃えるMレース委員長の下、Hマリーナヨットクラブの人たちのレース熱は冷めることを知らない。

真っ白な雪を5合目くらいまで深く被った富士山を見ながらの寒い海でのレースに、28隻もの参加艇が集まった。
朝起きて、あまりの寒さに驚いて、海に出るのはやめようかなと思っていた自分が恥ずかしくなる。

口うるさい西村スキッパーなのに、昔の熟年仲間、新しい若い仲間に集まってもらって、とても楽しいレースになった。

今日のメンバーを紹介すると、
フォアデッキ 東京工業大学大学院出身。シドニー・ホバートレースで日本艇最上位記録保持者(総合3位)。現在、東芝原子力部門の雄、I部長。51歳。

マスト 渋谷松涛の理髪店の息子で、青山学院大学アメリカンフットボール部元キャプテン、現コーチのN君、35歳。

ピット 同志社大学ヨット同好会出身。元からす中核クルー。某一流コンサルタント会社を自主退社して、現在起業準備中のH。45歳。

トリマー 高校生の頃から外洋ヨットに乗り、現在はお茶の水のK記念病院医局長の要職にあるD先生。45歳。

メインセール ヨットのプロを目指して、現在は逗子マリーナのレース艇AのオーナーM氏の会社で働かせてもらいつつチャンスを狙っているK。25歳。関東学院大学ヨット部出身。

タクティシャン Kの同期。チームレース世界選手権に連続して挑戦している茨城の熱き刺客。実家の八百屋さんを手伝いながら、ヨットレースというスポーツをどのように自分の人生に取り入れていくか、試行錯誤中の25歳。

こうして書いてみると、改めて、自分は、一緒にセーリングしてくれる人に恵まれていることに感謝しなければいけないな、と思う。
ありがとう。

さて、明日からヨーロッパ出張。
最新のワンデザインボートでの楽しいセーリングが待っている。
それなので、1週間ほどブログ日記お休みします。

冬の寒さの中で頑張ってセーリングしている人たちに、暖かい海を走る楽しいレースの思い出を書いたエッセイを、下に転載します。
サントリー株式会社の優秀な広報部が作っている、素晴らしくおしゃれな雑誌、『サントリークオータリー』に書かせていただいた原稿です。もし時間があれば読んどくれ。


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ランドフォール
          覇者の美酒

西に向かって太平洋を疾走する艇の舳先と帆の間から、意外な熱を持った強い光が甲板を直射する。溶けた金塊を思わせる太陽が、正面の海に落ちていこうとしている。

その光と同じ色に染まった水面に舳先が突き刺さり、次の瞬間、艇はうねりに乗って一気に加速する。左右の舷側から噴水のような飛沫が舞い上がる。

艇の四方を取り囲む水平線の少し上空に、底辺をスパリと切り揃えた綿菓子のような雲が幾つも、行儀良く並んでいる。貿易風帯に特有の雲。ロサンジェルスをスタートして以来、何度目かになる夕暮れが近づいている。

太陽が水平線の向こう側に消える一瞬、その上端が緑色に閃く。グリーン・フラッシュだ。雲がなく、視界が良く、クッキリとした水平線に太陽が沈まない限り、グリーン・フラッシュを見ることはできない。

それを最後の挨拶として、その日の太陽が姿を消す。しかしその天体が発する光はそのあと、水平線の向こう側から、こちら側の空と雲を染め始める。時には、天体が姿を消した西の空とは反対側の、東の空までをその光が染めることもある。

それまで青一色だった空の色は橙色から朱色へ、そして紫へと変わり、上空の雲の形や高さによって、それらの色が空全体へ無作為に飛び火する。

甲板の上では夜航海の準備が始まっている。次の四時間の当直を受け持つクルーたちが甲板に上がってくる。舵取りはナビゲーターから指示される針路を確認する。
操帆担当のクルーは明るいうちに索具、帆、帆綱の具合を点検する。昼間であればなんでもない些細な事故も、夜間に起きると人命に関わる事故へと発展しかねない。

そこまで深刻な事態にならなくても、一分一秒を争う外洋レースでは、帆装関係に発生する不具合は、そのまま敗北に繋がってしまう。

艇の位置は、ロサンジェルスとハワイ諸島オアフ島を結ぶ大圏コースの少し南。ダイヤモンドヘッド沖のゴールラインまで残り1000海里を切っている。トランスパック・レースという、百年近い歴史を持つ、伝統の外洋レースである。

当直の引継ぎが終わると、それまでの四時間、オアフ島に向けて一秒でも早く艇を走らせることに没頭していたクルーたちが、非番になって艇の中に入る。栄養一点張りの味気ない食事を済ませ、汗の染みた、共同で使う寝棚に潜りこんで、次の当直までの、短い休憩に入る。

五感を研ぎ澄ませて風と海に対峙し、艇と人間の帆走能力すべてを動員して勝ち負けを競う外洋レースに、酒が入り込む余地はない。休息中であっても、クルーたちは常に、甲板に飛び出して風と海に立ち向かえる態勢でいなければならないのだ。

ミッドナイトブルーに塗り込められた空一面に、まるでコンピュータ・グラフィックスで描いたような非現実さで、膨大な数の星が輝いている。
天上を通って空の端から端へ、一筋の白い薄雲がかかっている。天の川だ。帯状に密集してこの銀河を構成する一つ一つの星は、太陽系から遠すぎて小さく霞む。それらの星の濃密な群が、まるで薄い雲のように見えるのだ。

風を知るための風見を照らす赤い電球が、艇の中央からそそり立つ帆柱の上端に薄ぼんやりと光っている。艇がうねりに乗るたびに帆柱が前後左右に揺れ、その淡い赤灯が天然のプラネタリウムの中を不規則に回る。
目に入る人工の灯かりはその風見灯と、意外な高速で時折空を横切る人工衛星の灯火だけだ。それを除けば、原始の時代と同じ夜空が水平線の際まで広がっている。
帆を揚げて宇宙の只中を航海しているような錯覚さえ覚える。

夜に入って一段と強くなった貿易風で波立つ海面は、星の光を映すことなく、ぬめった黒色だ。

大波に持ち上げられた艇が疾走して波を蹴立てるたびに、船首が切り裂く海水と、船尾から伸びる澪の中で、夜光虫が妖しく青白い光を放つ。
高速で走る艇のすぐ近くの水中が不意に青白く光るのは、そこにいた大型の海洋生物が艇の接近に驚いて、海水を激しく掻き乱したからだ。

背後から雲が迫る。それを伝える見張りの声。甲板上が緊張する。この雲は、激しい雨と突風をもたらす。

外気温が急速に下がり大粒の雨が落ちてくる。ほとんど同時に、それまでより一段階も二段階も強い風が吹き込む。その風が帆に入り、帆が張り裂けんばかりに膨らむ。帆走艇にとって、危険だが船足を稼ぐ絶好の機会でもある。

この突風はそれまでの風とは異なる方角から吹き込むことがある。
貿易風帯の雲の下では、この、予測困難な風向の変化こそが、帆走艇にとっての曲者だ。急激な風向変化の対応に手間取ると、帆が深刻な損傷を受ける。最悪の場合は帆柱を失うことさえある。
帆走艇が帆柱を失っても、それが理由で直ちに遭難するわけではない。応急の帆柱を立てて目的地に向かうことも可能だ。しかし、レースでの上位成績は、帆柱を失った時点で諦めなければならない。

突風と豪雨の中、最大限の艇速を保つ努力が甲板上で続けられている。風の変化に呼応して帆綱を調節し直す。必要があれば帆を張り替える。状況によっては、ついさっき休憩に降りたばかりの非番のクルーも甲板に飛び出してくる。
全員でこの小さな嵐に立ち向かう。

雲が艇の上空に留まるのは長くて三、四十分ほど。その雲が去ると、宇宙と直接繋がっているかのような星空が再び天を覆う。
船首が切り裂く水の音と、船尾から噴き出る波の音だけに支配される静寂が戻ってくる。
雨具を着る間もなく甲板に出て、ずぶ濡れになった非番のクルーたちが船室に戻る。温かい飲み物を胃に流し込んで身体を暖め、残り少なくなった休憩時間を惜しんで睡眠をむさぼる。

日付が変わって数時間、西に向かって走り続ける艇の真後ろ、東の空が白み始める。闇に溶けていた海面は鈍色として明度を取り戻すが、色彩はまだ戻ってこない。

東から広がった頼りない明かりは、やがて薄桃色となって空全体を覆うようになり、大気が温もりを帯び始める。生命の時間が戻ってきた安堵感。甲板にいるクルーたちの表情が、少し緩む。
艇は相変わらず順調に、海面を滑るように走っている。

艇の後ろは、いつの間にか茜色に染まり、ほどなく、空と海の隙間から、眩い光がはしゃぐようにして漏れ出してくる。
疾走し続ける艇の船尾から伸びる、泡立った航跡の上で、その蜜柑色の光が乱舞する。

無彩色だった海面はいつの間にか群青色を取り戻している。深く、濃く、それでいて吸い込まれるように透明な青。  

高度を持ち始めた太陽からの光線は、何の抵抗もなく海水を通り抜け、海中深く向かったまま戻ってこない。光を反射する粒子さえない、透明すぎるほど透明な太平洋の海水が艇の周囲を満たしている。
 
何日目かの朝。周囲の水平線に浮かんでいる雲とは明らかに別種の雲を、艇の左前方にクルーの一人が発見する。
島の上には、大洋の真ん中に浮かぶ雲とは異なる形の雲が湧き上がる。
太平洋を東から吹き渡ってきた貿易風が島に当たって上昇し、その風に含まれていた水分が結露して雲になる。ハワイ諸島すべての島の東側地域に降り注ぐ豊かな雨は、この雲がもたらす。
その雲の方向を凝視するクルーたちの目に、水平線から僅かに盛り上がった薄墨色のシミが見えてくる。

ランドフォール!
陸地発見!

マウイ島とモロカイ島である。

Land Fall! それはコロンブスの時代から船乗りたちの心を浮き立たせる言葉だった。それは、現代の外洋レースでも変わらない。水棲生物の縄張りである海から、人間が不安なく呼吸し生息できる陸の世界へ。

それまでの当直制が解かれ、クルー全員が甲板に出る。オールハンズ・オン・デッキ。
全員が余力を絞り出し、艇を走りに走らせ、ゴールラインを目指す。しばらくするとオアフ島が、別の雲の下に見えてくる。ゴールのダイヤモンドヘッドは、その左端辺りにあるはずだ。

太陽が沈み、それまでの日々と同じように美しい太平洋の夕焼けが始まっている。しかしその夕焼けは、もはや原始のそれではない。
オレンジ色に染まった空を背景に、ダイヤモンドヘッドの輪郭が、黒くクッキリと影絵のように浮き上がっている。その右側の斜面、ホノルル市郊外に広がる住宅地に、人の肌の温もりを感じさせるナトリウム灯と、家々の明かりが規則正しく並んでいる。

二週間の航海で海洋生物になりかけていたクルーたちは、人里を恋焦がれる普通の人間に帰りつつある。
帆綱を操り、舵をさばき、ゴールに向けて艇を走らせることに集中しながらも、クルーたちの心は海から離れている。今はもう、人の住む世界、今夜の場合はとりわけ、人で溢れる酒場に、一刻でも早く身を置きたいと考えている。

ゴールラインをくぐり抜けて、ハワイ・ヨットクラブに舫いを取る。
二週間ぶりの一杯でもある祝杯に、何を選ぶか。それを何処で飲むか。
桟橋からそのままヨットクラブの階段を駆け上がり、二階のバーのカウンターで「ビールを!」と叫ぶか。
それともホテルで熱いシャワーを浴びたあと、ワイキキビーチのパブ『デューク』で、よく冷えたマルガリータから始めるか。

バーやパブのさんざめきに溶け込んでそれらの酒のグラスを重ねる夜が明けると、それがまるで何かの儀式だったかのように、原始の海を渡ったセーラーは、航海の記憶さえおぼろになって、現代を生きるビジネスマンの顔で目を覚ますのだ。





Jan.6 2006 黄色いコート

2006年01月06日 | 風の旅人日乗
1月6日 金曜日

数日前に、冬の相模湾で死んでしまった若者のことを考え続けている。
そのせいか、今まで死んでいった海の友人たちのことをしきにり思い出すようになっている。
中でも、雄雄しく海に生きたのに、夢半ばにして、酒におぼれて死んだ人間のことが、殊更思い出される。浅草にある墓にも行ってあげなきゃな。
何年か前に彼のことを書いたエッセイを、読み返した。

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ある日のルイヴィトン・カップ。

デニス・コナーの《スターズ&ストライプス》とイタリアの、《マスカルゾーネ・ラティーノ》のレースを、アメリゴ・ブスプッチという名前の大きな帆船に乗って観戦した。

《アメリゴ・ブスプッチ》はイタリア海軍に所属する、世界でも有数の大型帆船である。長く突き出たバウスプリットを含めると全長は100メートルを越す。総トン数は4000トン以上で、総帆面積は2800平方メートルにおよぶ。

この3本マスト・フルリグド・シップ型の練習船は、イタリア海軍の練習船として、1931年にナポリで建造された。つまり、船齢は70年以上にもなる。同型船が同時にもう1隻建造され、そちらには、アメリゴ・ベスプッチと共にイタリアを代表する船乗りであるクリストファー・コロンブスの名前が付けられた。

僚船の《クリストファー・コロンブス》は、第2次世界大戦終結後、当時のソビエト連邦に徴集され、その後沈没したが、《アメリゴ・ベスプッチ》のほうは、今も現役として長期航海を頻繁に続けている。

コロンブスはアメリカ大陸を発見したとされているが、当のコロンブス本人は、そこをインドだと思い込んでいた。
そのコロンブスの後、その大陸がインドではないことを明らかにしたのがアメリゴ・ベスプッチである。

航海者であるとともに優秀な地図製作技術者でもあったアメリゴは、その大陸を詳細に調査し、その、南北に連なる広大な大陸が、それまでの西洋社会に知られていない、ニューワールドであることを発表した。その大陸は彼のファースト・ネームに因んで、アメリカ大陸と名付けられ、そこに西洋人が建国した国にも、同じ名前が使われた。

大西洋を渡り、新大陸を探検したイタリア人アメリゴ・ベスプッチ。そして彼に因んで名付けられたアメリカ合衆国。
その国を代表し、国の名前に因んで名付けられたヨット、アメリカ号。そして、そのアメリカ号の名に因んで付けられたアメリカズカップ。
そのアメリカズカップ争奪戦の予選を、アメリゴ・ベスプッチという名前の帆船に乗って観戦する。なんとも言えない、不思議な歴史の巡り合わせである。

アメリカの語源になったイタリア人アメリゴ・ベスプッチの名が冠せられた帆船がレース海面の風下側を悠然と走る。

その風上側で、イタリアからの挑戦艇と、かのアメリカ号をワイト島まで派遣したニューヨークヨットクラブの最新艇、《スターズ&ストライプス》がレースをしている。
その日、ニュージーランドのオークランド沖のハウラキ湾には、数百年前から現代に至る西洋の海の歴史が濃密に凝縮された、圧倒的な空間が広がっていた。

《アメリゴ・ベスプッチ》には、海ではなく酒におぼれて死んだ男の形見を着て乗り込んだ。パタゴニアの地味なシャツと、GAPの黄色いコートだ。

その男は自分で造ったヨットに乗ってハワイに行き、その地でビジネスに成功し、そして失敗した。

数年前に日本に戻り、
「誰にも知らせないで」
という言葉を残して、昨年の夏一人で死んだ。
酒に浸っているのは知っていたが、死病を患うまで身体を痛めつけていたことは知らなかった。

何気なく黄色いコートのポケットを探ると、福生駅前の消費者金融会社のチラシが入ったティッシュが入っていた。このコートを着て、彼がどんな気持ちで福生の町を歩いていたのか、少し気にかかった。

黄色いコートは、今どきのセーリングウエアに比べると、とても古びたデザインと素材で、着る物に気を使っていた彼の嗜好からすると、少し意外な選択だと思う。

作業服に身を包んだ見習セーラーたちが小気味よく働き、《アメリゴ・ベスプッチ》がオークランド港のプリンセス桟橋を離れる。

死んだ男は、自分で作ったヨットでハワイに渡る前、練習帆船・日本丸に甲板員として乗船していた。
時期は異なるが、ぼくも商船大学航海科の実習生として、その船で半年間を過ごした。今は横浜の桜木町駅前に固定係留されている、あの日本丸だ。

その船での航海の思い出話は、ホノルルのアラワイ・ヨットハーバーに係留していた彼の艇の上で飲むビールの、いい肴だった。

《アメリゴ・ベスプッチ》の実習生たちが機敏な動きで出港準備をしているのを見ているうちに、帆船日本丸での日々が鮮明に蘇ってきた。

それらの記憶を辿っているうちに、練習船で支給されていた防風雨具が、今ぼくが着ているコートにとてもよく似ていたことを思い出し、そして、はっと胸を衝かれた。

ホノルルか日本か、どこかのGAPの店内でこのコートを目にした彼の脳裏に、ぼくが思い出しているのと同じシーンが現われたのではないか・・・・。

《アメリゴ・ベスプッチ》の風上側では、酒におぼれて死んだ男が
「一度でいいから観てみたいもんだなぁ」
と言っていたアメリカズカップの予選レースが始まろうとしていた。

久し振りに《スターズ&ストライプス》の舵を持ったデニス・コナーが、彼の才能を端的に示す、相変わらずの素晴らしいスタートを披露していた。今年60歳になったとは思えない、小気味良く切れのいい舵さばきだ。

1983年に、アメリカ人として初めてアメリカズカップを失ったデニスが、カップ奪還を決意してハワイの秘密基地にこもってオーストラリアへの挑戦準備をしているとき、ホノルルまでデニスに会いに行った。

そのときに、デニス・コナーと接触して苦心してアポを取ってくれたのも、そう言えば、この黄色いコートの元の持ち主だった。

ハウラキ湾の冷たい風に顔をさらされて滲んできた涙を、黄色いコートのポケットにあったティッシュ・ペーパーで拭った。


Jan.5 2006 極寒のヨーロッパへ

2006年01月05日 | 風の旅人日乗
1月5日 木曜日

旅行代理店の正月休みがやっと明けたので、本日、来週のヨーロッパ行きのチケットの手配をお願いする。

今回は、1月9日から13日までの、慌ただしいヨーロッパ行きだ。
向こうも、日本と同じくかなり寒いらしい。スケジュールの関係で長く滞在できないので、滞在中の2日間に、目一杯セーリングのスケジュールを詰め込んだ。

セーリングするのはわずか2日間だとは言え、外気温5度でのセーリングだ。持っていくセーリング・ウエアとブーツは、重くて大きな荷物になりそうだ。
そんなことはあまり気に掛からない。
というのも、新しいコンセプトの44フィートのワンデザインクラスの艇に、日本人として初めて乗りにいくのだ。

今回のセーリングはとても楽しいものになるぞ。

Jan.4 2006 若者が死んだ

2006年01月04日 | 風の旅人日乗
1月4日 水曜日

有望な、海の若者が、正月の寒い海で死んだ。
将来を期待されていたプロサーファーだった。
2月に予定している、次の沖縄・座間味サバニ合宿にも参加することになっていた。それをとても楽しみにしていた。

新年会でみんなに食べてもらうための石鯛を突くために、彼は葉山・真名瀬の沖に伸びる菜島の根に潜り、意識を失った。北風の吹く、寒い日だった。
遺体はその翌日、菜島からずっと南にある荒崎の磯で発見された。

かつて、多くのセーリング仲間を海で亡くし、そのたびに強いショックを受けてきた。
最近、その辛さを忘れかけていた。

海での事故で人をなくすことは、本当に辛い。

Jan.3 2006 六分儀

2006年01月03日 | 風の旅人日乗
1月3日 火曜日

東京の下町にある須崎神社と富岡八幡宮に、家族で初詣。おみくじは『吉』と出た。何事も控えめがよろしい。
寒い上に、風が強く、海に出られない。こんな日は本でも読んで過ごすのが一番。

ところで。
六分儀、って知ってますか?
陸地の見えない海で、太陽や星の高さを測り、それをもとにチョイチョイと計算をして自分の位置を割り出すときに使う器械。今のようにGPSが発達する前までは、海を渡る船乗りは、必ずこの器械が使えなければならなかった。

考えてみれば、不思議な器械だ。だって、宇宙と船を繋いでしまうのだ。
この六分儀について3年前に雑誌に書いた、自分のエッセイを見つけたので、今日はそれを読み返してみようかな。

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東京・銀座3丁目。上品な服を着た山手の東京人たちが、さんざめきながら歩いている。六分儀が入った木箱を下げて船から降りたばかりのセイラーは、なんとなく肩身が狭い思い。

銀座通りを挟んで松屋の正面。玉屋ビル。
高級婦人服店(当時。現在はアップル・ストア)である正面玄関は、セイラーには縁のない入口だ。
そのビルの裏に回り、古びた小さなエレベーターに乗って上の階に上がる。
玉屋計測器事業部。
慣れない銀座にやってきたセイラーは、その部屋に入って初めてくつろいだ気分になり、持参の六分儀の機差修正について、熟練の担当者と相談を始める。

―― 今はもう別の場所に移転してしまったが、銀座の真中に、そんな、セイラーの居場所があった。

商船大学航海科の学生として練習船に乗っているときから、「六分儀は玉屋に限るぞ」と大学の先輩でもある教官から念を押されていた。
玉屋。現在の名称はタマヤ計測システム株式会社。江戸時代の1675年、眼鏡を製造販売する玉屋商店として創業。レンズを使った計測機器の専門メーカーだ。

動力練習船での南半球への練習航海、帆船・日本丸での太平洋横断。毎日毎日天測をし、六分儀に触れない日はなかった。
太陽や星をレンズの中で水平線に降ろし、その角度を測る。

正確な位置を出すにはちょっとコツがあって、「太陽は水平線からほんわり湯気が立つ程度に浅く降ろし、星はもう少し沈めて海からジュッと音がするくらい深めに降ろす」と教えられた。

琴座のヴェガ、サソリ座のアンタレス、獅子座のレグルス、スピカ、アンタレス、北極星。いろんな星に地球での自分の位置を教えてもらった。

六分儀は自分の手に馴染んだものを使うべし、とも教えられた。この六分儀と一緒に、沖縄、小笠原、香港~マニラ、シドニー~ホバート、ロス~ホノルル、いろんな長距離外洋ヨットレースを走った。

いつかぼくが海を引退したら、そうしたらこいつは部屋の片隅に陣取って、昔の航海の思い出をあれこれ語ってくれることになるのだろう。こちらが老いぼれてしまっても、こいつの機能美あふれるデザインは、いつまでも輝いているに違いない。


Jan.2 2006 抱負に代えて

2006年01月02日 | 風の旅人日乗
1月2日 月曜日

正月休みに、今まで書き溜めた原稿をのんびりと整理している。
その時代その時代の自分が、それらの文章の中にいて、面白い。
意外と健気に、普遍的な夢を持ち続けていることに気が付き、少し自分を励ましたくなった。

その中から今日は、2001年にある雑誌に書いたエッセイを読み返し、子供の頃からの夢を再確認して、この1年の抱負にしようと思う。

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ぼくは、幼年期から少年時代を玄界灘に面した福岡県の小さな町で過ごした。冬になると強い北西の季節風が吹き続け、当時の玄界灘では毎年のように海難事故が発生していた。

育った町には海上保安庁の支部があった。小学校5年生の冬、保安庁のすぐ横の浜で野球をして遊んでいるとき、海難に遭った船員の遺族の人たちが、花束をその海に手向けに行くために、泣きはらした目で保安庁の船に乗り込む光景を見た。今でも鮮明にその遺族の痛々しい表情を思い出すことができる強烈な記憶だ。

そしてその場で、どういった思考経路からなのか、今になってはまったく不可解なのだが、「俺も船で海に出る仕事をしよう」と強く決心してしまったのだ。
それ以前から、「大きくなったら飛行機のパイロットか船乗りのどっちかだなぁ」と思ってはいたが、その瞬間に海のほうに決まった。

国際航路の船長になるつもりで東京商船大学の航海科に入り、そこにヨット部があってセーリングを知ることになった。
入学直後に行われた葉山・森戸での合宿で、スナイプ・クラスの艇に乗った。南風を左舷に受けて走り始めた船の、船首すぐ後ろのチャインから出てくる波の形と音の美しさに悩殺された。

この合宿ではしかし、ヨットレースという競技に心底幻滅した。我々の大学の木製スナイプは6人か7人がかりで持たなければならないほど重いのに、隣ではFRP製の新しいスナイプを3,4人で軽々と運んでいるのだ。
出艇前、我々の薄汚れたセールはナヨナヨと力なく風にそよいでいたが、すぐ横の有力校の真っ白いセールはパリパリと、まったく違う音ではためいていた。はじめっから有利不利のある道具で勝ち負けを競う競技など、スポーツとは言えない、と思った。

そのうえ当時の学連体育会ヨット部のレースのスタートでは、スターボード艇と風下艇はひたすら周りの船に対して自分の権利を大声で怒鳴り続け、時にはウイスカーポールを振り回したり、なぜだか怒って相手艇に乗り移ろうとしている場面さえ見受けられた。まっとうなスポーツではなかった。

夏の合宿の練習は面白かったが、秋の合宿には、ウエットスーツを買うお金が勿体なかったこともあって参加しなかった。勝てる可能性のないヨットレースには、どうしても興味が持てなかった。1年生の2月に、先輩から23フィートの外洋ヨットを買い、それを機に正式にヨット部を辞めた。

この、当時船齢13年で半分沈みかけていた23フィート艇のデッキを、何人かの仲間と一緒に張替え、木製マストを補強し、エンジンを分解・修理し、内装を整え、セールを繕って、東京のキャンパス内にあるポンドから、大学の研修施設がある房総半島・富浦まで合宿に出かけたりしていた。

「ヨットのような優雅な乗り物で勝ち負けを競うことに違和感があるから」、という理由でヨット部を辞めさせてもらったくせに、合宿中のヨット部が打った練習用のブイを回ったりして一緒に遊ばせてもらっていた。半自作のような自分たちのヨットを自在に操ることに恍惚感を覚えたのだ。
4年生の夏には、『無法松』と名づけたこのヨットで、3週間をかけて、郷里の北九州、小倉まで帰った。

大学卒業前の遠洋航海実習での9ヶ月間、南半球に行ったり、帆船でハワイに行ったりしながら、子供のときに決めた自分の生き方をどのように実現するかを考えた。
セーリングから離れたくない、という気持ちが思ったより強くなっていた。
会社に管理される大型本船乗りではなく、本来の意味でのセーラーになろうと思った。
帆船時代のセーラーは船乗りそのものを意味したが、現代ではその言葉はヨット乗りを指す。

職業としてセーラーになるのなら世界1周レースに出られるぐらいの能力を持った腕っこきのセーラーにならなければなぁ、と考え、当面これを目標にすることにした。これが、当面ではなく今に至るまで自分の人生の真ん中を貫く1本の遠い道になってしまい、まだ目標にたどり着けずにいる。

自分が目標とするセーラーになるためには、選り好みせずあらゆるヨットレースに出て腕を磨くのが近道だろう、と思ってその道に精進した。
28歳のときにはスキッパーとして小笠原~東京レースに優勝したりもしたが、もっと近道は外国で修行を積むことだと考え、自費で海外レースに乗せてもらったり、ニュージーランドに修行に出かけたりした。

現在の自分のセーリング技術やレースへの心構えなどのほとんどは、それらの外国で何人かのアメリカ人セーラーと多くのニュージーランド人セーラーたちから教わった。
セールを正しく理解するためにセール・デザインを学びそれを職業とした時期もある。

今までの人生の中で幾つかの大切な分かれ道に出会ったが、自分がそのどちらの道を選ぶかの基準はいつも“海へ出ることができる、セーリングができる”ほうの道だった。それが今までの自分の生きかたを肯定し、アイデンティティーを支える唯一の方法だったし、それに自分はまだ、夢の途中だからだ。

何年か前、ぼくはノンストップ世界一周最短記録に挑戦しようというフランス艇〈タグホイヤー〉のクルーに日本人として選ばれたことがある。
そのカーボン製の全長150フィートのモノハル艇がテストセーリング中に壊滅的なダメージを負ってしまったことでそのプロジェクトは中止になってしまったが、それが、ぼくが今までの人生で自分の夢に最も近づいた瞬間だった。

現役として身体が動くうちに自分の夢、というか目標は達成できるのか!? 自分のことながら手に汗を握る思いではあるが、いつかはそのゴールに行き着くさ、と信じているし、その頑張りの過程で同じ夢を持つ若者に出会える楽しみだってある。

実は最近になって、自分が以前よりも増してセーリングが大好きになっているということに気が付いた。地球に広がる青い海をセーリングで自在に走るときの喜びは他の何物にも換えがたいのだ。


Jan.1 2006 寒い冬、暖かい心

2006年01月01日 | 風の旅人日乗
1月1日 日曜日

この冬は、本当に寒い冬だなあ。
関東でも、冷蔵庫の中にいるような日が続いている。元日の朝は曇っていて、外に出るのをためらうほどだ。
しかし、個人的には、なんとなく暖かい気持ちで過ごす年末年始だ。

ここ10年近く、なんとなくさすらい人のように暮らしてきた。
1998年から2003年までは、連続してニュージーランドで、真夏の正月を迎えた。
今思い返せば、クリスマスや正月の、日本国内や自分の周囲の華やかな雰囲気を嫌って、わざと日本を離れていたようにも思う。

2001年の、21世紀最初の初日の出は、ニュージーランド北島東海岸のタイルアという町で見た。
1月1日午前0時、町の主催で大花火大会が始まった。
若者たちはパブに集まって大騒ぎをしていたが、日本のように、海か山に出かけてその年最初の日の出を見ようとする習慣は、ニュージーランドにはない。
夜明け前のタイルアの町には、まだ酔いつぶれてない生き残りが何人かフラフラと歩いていた。
町の前にある、『Paku』という名前が付けられた小さな島の、小高い丘に登った。

近くの家から、チョコレート色のレトリーバーがニコニコしながらしっぽを振って出てきてぼくの横に座った。徐々に赤みが差してくる東の方向の水平線を、その犬と一緒に眺めた。夜半から強く吹いていた風が急速に衰え、家々は寝静まって、その丘の上には静かな時間が流れている。

風が凪いでしばらくすると、空と海の隙間から眩しい光が溢れ出てきた。
ニュージーランドの東の海岸に姿を現した21世紀最初の太陽は、オレンジ色、というよりも、ぼんやりと暖かい温州みかんの色をしていて、とても和風な趣きで水平線に浮かぶ雲をかき分けるようにしてゆっくりと上ってきた。
その場所の経度は日付変更線のすぐ近くの、東経約176度だったから、ほとんど世界で一番早い21世紀の夜明けだった。

日本から持ってきたフリーズドライのお雑煮を、車のボンネットの上で作っているうちに、その朝日に照らされた海全体がみかん色になってゆき、なんだかまるで安っぽい正月写真の中に入ったようになって、そのお雑煮をすすった。

2003年の初日の出は、ニュージーランドの最東端の町、ギズボーンで、サーファーに混じって泳ぎながら見た。今日の日記の写真がそのときの日の出だ。

これらの時間は、それはそれで、人生の中では貴重な時間だったし、自分自身と向き合ったり、自分自身の夢を確認するために必要な時間だったのだが、そうは言っても、なんとなく無機質な時間だった、と思う。幸せだったかといえば、そうでもなかった、と思う。
ここしばらくは、ああいうスタイルで、外国で正月を迎えることはないように思う。

2006年が、自分にとっても、世の中にとっても、いい年になりますように。