goo blog サービス終了のお知らせ 

ダンポポの種

備忘録です

ジャガイモと、サツマイモ

2008年03月01日 14時15分00秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

塾通いをした話-。
4年生の9月(2学期)から、私は塾へ通わせてもらうようになった。


初めて塾へ通った日のこと。

その日は、理科の授業が行われる日だった。
小さな教室の中には、30人ほどの生徒(児童)がいた。
「入塾は随時受付していますよ」という塾だったが、やはり一般的には春(4月)から入塾する生徒が多いようだ。私は9月からだったので、中途入塾した格好で、この教室でも〝転校生〟みたいな心境に陥った。
四面楚歌というか、教室内には私の知らない顔ばかりが並んでいた。

きょうは新入りが加わったということで、授業の冒頭、早速、担当の先生(理科)が私を指名した。

「まず、檀上に質問をします。ジャガイモは、何科の植物ですか?」

この質問は、今も忘れられない。

じゃがいも、何科…?
そんなことは、聞いたことも考えたこともなかった。その場で考えたって分からない。

ほかの生徒は、私が何と答えるかジッと聞いている。

わかりません…
静まり返った教室で、私は、蚊の鳴くような声でそう答えるのが精一杯だった。

「ハイ。それでは…、ほかに分かる人はいますかぁ?」

と、先生が教室じゅうに声を向けた瞬間、ほかの全員が、サッ!と手を挙げた。(怖かったわ

ジャガイモはナス科の植物だと、このときに知った。
『じゃがいもは、なすびの仲間だったのか』と、私は驚きながら覚えた。
 

先生の質問がさらに続く。

「それでは、続いて、檀上に質問をします。サツマイモは、何科の植物ですか?」

だから…、ふつう知らないって、そんなこと

サツマイモはヒルガオ科の植物だと、このときに知った。
ヒルガオ科の植物には、ほかに、アサガオとヨルガオがあるそうだ。
『さつまいもは、アサガオ(朝顔)の仲間だったのか…』と私は覚えようとしたが、アサガオを印象付けてしまうと肝心の〝ヒルガオ科〟という名前を忘れる恐れがある。すると、先生が覚え方を教えてくれた。

「朝・昼・夜に、サツマイモを食べる!」

と、覚えなさいと。


じゃがいもはナス、そして、朝昼夜にさつまいも。
(さらに、ユウガオはウリ科なので注意せよ!というオマケ知識も記憶に くっ付いている)
 
大人になって、こうした知識とは縁が薄い道へ進んでしまった現在の私だが、今も忘れずに覚えていることを思うと、このとき私が受けた衝撃は相当強烈だったようである。



小テストの時間

2008年02月24日 12時35分39秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年5組の教室では、T先生(担任)の方針だったのか、授業中にしばしば「小テスト」が行われた。

例えば、算数の時間では、ひとつの単元が終わると必ず小テストがあった。
半ペラの白紙が一枚ずつ配られ(これが解答用紙)、そこへ、教科書に載っている練習問題の解答を書いて提出するだけという、簡単な仕様のテストだった。(→教科書と筆記具以外は机の中に片付けた状態で行う。当たり前だが、教科書のページに答えを書き記しておくカンペ作戦は御法度である)

児童全員に半ペラ白紙が行き届いたのを確認すると、T先生は、
「それでは、教科書の○ページを開いてください。そこに、練習問題が五つ書いてありますね。今から、それを全部解いてみてください」
とおっしゃって、小テストが始まるのだった。
要するに、今までの授業中に先生が説明してくださった問題ばかりである。
けれども、私は内容をすっかり忘れてしまっていて、なかなか解けない。「復習」の習慣が身に付いていなかった頃で、私のテスト結果は危うい低空飛行を続けた。
 
T先生は、恐い先生だったけれど、小テストの点数が悪いことについては怒ることはなかった。
しかし、ほどなく、うちの母がこのテストの存在を知るところとなり、こっちに叱られた。

「教科書の練習問題をそのまま解いて、答えを書くんやろ? それは先生が授業で説明された問題やろ? だったら、百点満点が取れて当たり前と違うの? 復習をして行きなさい!」

私の辞書に「復習」という文字が書き足された瞬間だった。
以後、私は、小テストの前日にはその単元の問題をひと通り解いてみて、本番に備えることにした。
効果は絶大で、ほどなく低空域から上昇し、満点を取れるようになった。嬉しかった。

「おおっ! おまえ、がんばるのぉ~」

採点後の解答用紙を返却しながら、先生はおどけた口調でおっしゃった。そして笑った。
恐いはずのT先生が、笑った。



うちのクラスだけ…

2008年02月23日 22時07分34秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

T小学校に転校して、一年が経過した。
めでたく、私は4年生に進級した。
前年度の3年5組メンバーがそのまま4年5組に進級する形となり、クラスメートには変動がなかった。

4月始業式の日、4年5組の教室には、前年度から慣れ親しんだ〝いつもの顔ぶれ〟がそろっていた。

ただし、担任の先生だけが、交替されることになった。

ほかのクラス(4年1組~4年4組)は、前年度(3年生の時)の担任がそのまま持ち上がったのに、どういうわけか、4年5組だけ担任が交替になった。
クラスメート(児童)の構成は変わらないのに、担任の先生だけが交替される、というのは珍しいことのように思う。先生が産休に入られる場合などは有り得ることだろうが、このときはそういう事情はなく、どうして4年5組だけ先生が交替するのか不可解だった。


とにかく、私のクラスだけ、担任の先生が交替された。
4年5組の新学期(4月)は、クラス全員で新しい先生を迎える、ことから始まった。

『新しい先生は、恐いのかな? 優しいのかな?』

まだ見ぬ先生を想像して、4年5組の児童たちは不安と緊張に包まれていた。
この緊張感を「クラス全員で共有しなければならない」のが、このケースの特徴だろう。
児童も先生もシャッフルされる〝クラス替え〟の場合とはまた異なる、独特な緊張感だった。

新しい先生は、T先生という男の先生だった。

私の場合は、広島時代を含めた小学校6年間で、担任が男の先生だったのはこの年だけである。

この先生は、厳しかった。
児童の感覚で表現するところの〝恐い先生〟に属することは間違いない。

「おまえは、なにをやっとるんだぁ…、バカタレェ!」

が、先生が怒ったときの口癖で、約束を守らなかったり宿題を忘れたりすると確実に注意を受けた。

「なにをやっとるんだぁ…」のあとに一瞬の〝間〟があり、「バカタレェ!」で頭を叩かれる(=落雷)システムだった。この雷は、男女かまわず落とされた。相当な迫力があって、泣き出す子もいた。
当人に非があって、怒られても仕方ない場面だと、児童本人あるいは周囲も納得できていたが、とにかく、叩かれる直前のあの〝間〟は…、恐ろしかった。



あの川の名前は…

2008年02月17日 15時39分40秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

 ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

3年生の三学期に、遠足で西宮神社と香枦園へ行くことになった。
三学期に行われる遠足は、ほかの学期のそれに比べると格段にスケールが小さくて、学校から歩いて行けるぐらいの近場へ出かけるのが常だった。

「こんどの遠足は、学校からみんなで歩いて行きます。西宮商店街(阪神西宮駅の周辺)を見学してから、西宮神社へ行きます。そのあと香枦園まで行って、そこで弁当を食べます…」

ある日の〝終わりの会〟で、担任の先生が、遠足の概略を説明してくださった。
T小学校から西宮神社あたりまでならば、子供の足でも十分に歩いて往復できる距離だ。

「ところで、みんな、香枦園って知っていますか? そこには川が流れています。その川の名前が、分かる人?」

遠足の説明だけかと思っていたら、いきなり社会科の問題が出された格好だ。

     ◇      ◇      ◇

香枦園がどんな所かを私は知らなかったが、阪神電車にその名前の駅があることは知っていた。
でも、そこを流れている川の名前までは分からないなぁ。

クラスメートたちも考え込んでいる様子で、教室内が急に静かになった。

阪神電車の香枦園駅は、西宮市の地図の中では〝西の端っこ〟に位置する。
私は、頭の中に地図を思い浮かべて、阪神電車と並行している阪急神戸線の路線図をダブらせてみたりした。
「阪急神戸線の〝西の端っこ〟って、どのあたり(駅)だったかな」
と、思いを巡らせたとき、パッ!とひらめいた。

次の瞬間、私は手を挙げていた。

クラスの中で、自分ひとりだけ手を挙げるという暴挙(?)であった。
ひらめきだけの〝見切り発車〟みたいな挙手ではあったけれど、これも小学3年生だからこその芸当だろう。

けれど、私の挙手に気付いた先生は、途端に気の毒そうな表情をして、おっしゃった。

「なんで、広島から転校してきた子が分かって、昔から西宮で暮らしている子たちが分からないんや…」

この場面は、相当照れくさかった。
今でもよく覚えている。
クラスのみんなを敵に回してしまった気がした。

手を挙げるんじゃなかった…とは思わなかったけれど、
逆に、先生からこう言われてしまうと、もはや私も間違った答えを言うわけにいかない-。

「それじゃあ…、答えてください」

困ったような表情のまま、先生は、私に発言を促した。

私は、もう一度地図を思い浮かべながら、言った。

「夙川です」

夙川沿いが桜の名所だという肝心な知識は、当時の私には備わっていなかったけれど、その名前だけは知っていた。鉄道ファンの駅名暗唱も、こういうときは役に立つ。



ハンバーガーを食べ過ぎて

2008年02月15日 20時35分41秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇

3年生のとき、ある日曜日に、家族と神戸へ出かけた。
昼に「○クドナルド」でハンバーガーを食べた。
おいしかったので、持ち帰り用も何個か買ってもらい、その晩も、家でハンバーガーを食べた。
たくさん食べて、お腹いっぱいになった。

翌朝、月曜日--。
いつものように目覚めて、
「さあ、学校へ行かなくては…」
と思ってみるものの、気分が非常に悪かった。胸がムカムカする。
原因は、ハンバーガーの食べ過ぎ!? と思われた。

気分が悪いけれど、体温を計ってみると、熱があるわけではなかった。
なので、普段通りに登校した。

昼になって、給食の時間。
その場で初めて気がついた。
この日の献立は、ハンバーグだった。

「えええっ…、もう、ハンバーグいらんわ」

それでも、『給食は残さずに食べましょう』という日頃の〝教え〟を守り、私は食べきった。

食後の昼休みは、普段のように走り回る気分になれず、教室で静かに過ごした。

そして午後の授業(5時間目)が始まった。
授業中、私は終始、吐き気との戦いだった。かなり危ない状態だった。
「早く授業が終わらないか…」
そればかりを考えていた。

と…、そのとき、ひとりの女子が、ダッ!と席を立って、教室に隣接したベランダ(テラス)に走り出て、手洗い場のところでうずくまった。
『授業の最中に突然何事か…!?』
クラスメートたちはざわついた。
先生も驚いたような表情で視線を送っておられたが、様子は見に行かない。

ほどなく、その子は教室内に戻ってきて、言った。

「先生すみません。〝もどし〟ました」

「気分が悪かったの? 保健室に行かなくて大丈夫?」

「もう大丈夫です」

「でもね…、シンドイなぁと思ったら、早めに先生に言いなさいよ! 何してるのっ!」

誰でも、その日の体調により、急に気分が悪くなることだって、無いとは言えない。それは仕方がないのだから、そうなったときは切羽詰まってしまう前に早く先生に言いなさいと、この状況下で、なおも〝指導〟が行われたのである。
その子にしてみれば、我慢しきれずに吐いたあげく怒られたわけだから「泣きっ面に蜂」だけど、授業の真っ最中に手洗い場へダッシュで駆け込むのも確かに考えものだ。大事にいたるまでに早く意思表示をせよ、ということを先生は教えたかったのだと思う。

もちろん、その日の私は、そんなところまで考えは及ばない。ただひたすら、吐き気をこらえるのみだった。

それこそ、
「授業中だけど、我慢できなくなったら便所へ走るか…」
とも考えていたのだが、思わぬ形で先手を打たれ、その切り札を流されてしまった状況だ。

早めに意思表示せよと、先生がおっしゃったばかりだけれど、
「ぼく〝も〟、気分が悪いです…」
とは今さら名乗り出がたい空気に、教室は包まれてしまっている。
もはや吐くわけにいかない、絶体絶命のピンチである。

結局、私は最後まで頑張って、苦難のひとときを耐え抜いた。

ハンバーガーに限らず、何事も欲張ってはいけないことを学んだ一件、という位置づけで、今でも記憶に残っている。



相合傘の落書き

2008年02月06日 22時01分01秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出については、
「鉄道」との絡みがないエピソードも、いくつかある。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

昭和56年(1981年)3月末、わが家は、広島県から兵庫県西宮市へ引越しした。
ちょうど私が小学3年生に進級する春のことだった。

せっかくの春休みは、引越しの片付けに追われるうちに慌しく過ぎ去り、4月の新学期を迎えると、私は地元のT小学校へ通うことになった。
T小学校は、各学年とも1組から5組まであって、私は3年5組に入ることになった。担任は、学年主任を務める女の先生だった。恐い先生という印象ではなかったけれど、締めるところはきっちり締める、しっかりした先生だった。


T小に通い始めた私が、まず閉口させられたものがあった。

それは、「相合傘の落書き」の流行だった。

3年5組の教室にも、新学期最初からこの習慣は入り込んでいて、いつも冷やかし合いが絶えなかった。休み時間に男子と女子が〝一対一〟でちょっとお喋りしただけで、間違いなくそのふたりはターゲットにされた。

『あのふたりは、アツイ…

と、周囲は言い、黒板に相合傘の落書きをして冷やかすのだった。

何と言うか…、研ぎ澄まされた敏感さだった。

ひょっとすると、これは、西宮に限らず関西の小学校では当たり前の習慣なのかもしれないが、2年生まで在籍した広島の小学校ではそういう空気は全く無かったので、最初、私は大いに戸惑った。

転校生ということで、新学期当初の私は〝お客さん扱い〟によってターゲットからそもそも外されていたようだが、日が経って、お互いの気心が知れるにつれて、容赦なく落書き合戦に組み込まれるようになった。見方を変えれば、クラスの一員として受け入れてもらえた証しでもあっただろう。
その後、学年が上がるにつれて、この習慣は自然消滅していった。そういう〝遊び〟をしなくなった。「オトナになった」とでも言えば良いのだろうか。3年生~4年生の時期に遭遇した習慣だった。

転校生の立場からすると面食らう習慣だったけれども、クラスメートの名前と性格を覚えるのには役立った気がする。



西宮を知る授業

2007年08月29日 15時16分47秒 | 備忘録
 西宮で過ごした小学生時代-。

 3年生のとき、社会科の授業で、地元・西宮のことをいろいろと学んだ。
 恐らく、年間を通じた学習テーマとして、「自分たちが住んでいる地域のことを学ぼう!」とかいう方針が立てられていたのだろうと思う。その一年間、社会科の授業内容は「西宮のこと」ばかりだった。そのため、出版社発行の『教科書』では内容的に使い物にならなかったと見えて、代わりに、西宮市当局(たぶん、教育委員会)によって独自に編集された冊子を教科書代わりに使っていた。

 そういう学習テーマが反映されたものだったのか、3年生の二学期に行われた遠足(秋の遠足)の行き先は、『バスで西宮市内を一周する』というものだった。
 市内にある酒造工場の見学(=社会見学)を核にして、海岸寄り(市南部)から山間部(市北部)までの市内全域を貸切バスでぐる~っと一周してくる遠足だった。遠足というよりもドライブの感覚に近かったような、西宮三昧の一日だった。乗り物酔いをする子にとっては、つらい遠足だったのではないかと思う。

◇            ◇            ◇
 
 遠足が済んだ後の、ある日の社会科の授業-。

 授業の冒頭に、先生は児童全員にプリントを配りはじめた。
 それには西宮市の白地図が刷られていて、なぜか、市内を通る鉄道と国道のラインだけが太線でくっきりと描きこまれていた。
 とりあえず、鉄道ファンの私には『なんだか楽しそうなプリント♪』に見えた。

「それでは…、そのプリントに描かれた、鉄道と道路の〝名前〟を書いてみなさい」
と、先生はおっしった。
 小学3年生がやることなので、定期試験と呼ばねばならぬような重大深刻なものではなく、理解度を測る〝小テスト〟の一種…、といったところだっただろうか。

 鉄道ファンの立場からすると、このテストは面白かった。私はカリカリと鉛筆を動かした。
 とにかく、まず、鉄道(路線)の名前を書いてしまおう!
  ・阪神本線
  ・国鉄東海道本線
  ・阪急神戸線
  ・東海道山陽新幹線
   以上、西宮市内を東西方向に横切る鉄道路線。(福知山線も入っていたっけな?)

  ・阪神武庫川線
  ・阪急今津線
  ・阪急甲陽線
   以上、西宮市内を南北方向に走る鉄道路線。

 白地図に描きこまれた鉄道線のそれぞれに括弧が付されていて、そこに路線名を書き入れていく方式だった。「阪神」や「国鉄」や「阪急」という大雑把な答え方はダメで、きちんと路線名の「○○線」まで書かなくてはならなかった。
 鉄道ファンにとっては〝日ごろの成果〟を問われているようなテストだったが、かく言う私も、阪急甲陽線の箇所では『阪急甲陽園線だったかな…?』と一瞬迷ったりして、思い直して正しく記入し、事なきを得たようなことである。
 小学3年生なので、厳密にはまだ習っていない漢字が含まれたかもしれないが、鉄道路線名については、私は全部漢字で書いた気がする。


 次に、国道(主要道路)の名前を書き入れていく。
 白地図には、市内を通る高速道路と一般国道のラインが描かれていて、同様に、括弧が付けられていた。
  ・国道43号線
  ・国道2号線
  ・国道171号線
  ・名神高速道路
  ・阪神高速道路(神戸線のこと)
というぐあいに、ここでも私の鉛筆は滑らかに動き続けた。

 よく見ると、白地図には、市域北部にもラインが描かれていた。
『え? 北部を通っている道路…? ああっ、中国自動車道のことか!』
 すぐにひらめいた私だったが、さらに、中国自動車道と絡み合うように〝もう一本〟のラインが描かれている。

『なんだ、この道路は? そういえば、国道が通っていたような気も…』

 「中国じゅうかん自動車道」と書いたのか「中国じゅうかん自どう車道」と書いたのか、記憶は定かでないけれど、そこだけ平仮名混じりで書いた〝中国自動車道〟の記述を最後に、私の鉛筆は動きが止まった。中国自動車道と絡み合っている〝もう一本の道路〟の名前が分からなかった。一般国道なのだが、何号線だったっけ。

 試験終了の号令のタイミングを見計らうためか、教室内をゆっくりと一回りされた先生は、みんなの答案の出来具合を覗いて歩きながら、ポツリとおっしゃった。

「北部の道路名を、正しく書けていない人が多いですねえ…」

 呼応するかのように、何人かの児童が大袈裟に溜め息をついてみせた。そして次の瞬間、教室内に笑いが起きた。小学3年生の教室である。
 先生は、黒板のそばにある自分の席(教壇)に戻りながら、困ったようにおっしゃった。

「(その道路は) 遠足のときに、通ったやんか…」

 私の頭の中には、緑の山々に囲まれた北部の風景がぐるぐると思い返されるのみであった。



(終わり)



服部緑地への遠足

2007年06月30日 23時23分51秒 | 備忘録
西宮で過ごした小学生時代の思い出。

  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

4年生のとき、遠足で「服部緑地公園」(大阪府豊中市)へ行くことになった。

『いつもの遠足と同じで、きっと、貸切バスで行くんだろうな…』

と、私は勝手に予想してみたけれど、意外にも担任の先生は、

「今回は、電車に乗って行きます」

とおっしゃった。

私は、なんだか嬉しかった。


先生の説明によると、学校の最寄り「今津駅」から、服部緑地の最寄り「曽根駅」(阪急宝塚線)まで、全行程を阪急電車で移動する計画だった。ただし、行きも帰りも〝宝塚経由〟の乗車ルートが示され、私は「ずいぶん遠回りして行くのだな…」と内心驚いたことを覚えている。
今津~曽根間を宝塚経由で移動するのは、あまり一般的ではないだろう。西宮北口で神戸線に乗り換えて、十三から宝塚線に入るほうが、断然早い。

…とは言うものの、自分が普段乗る機会がない阪急宝塚線にたくさん(=長い距離)乗れるのは楽しそうに思えたし、遠回りして目的地へ向かうのも面白そうだと思った。要は電車に乗れるのが嬉しかったのであって、私は遠足を心待ちにした。

けれども、遠足当日は文句なしの「雨」となり、服部緑地行きは中止という結末であった。

   ◆          ◆          ◆


学年が上がって、5年生1学期の遠足では、行き先が再び「服部緑地公園」になった。
或いは、先生方も、新たな行き先を考えるのが面倒臭かったのかもしれない。

再び発表された計画は、今津から曽根までを阪急電車で移動するのは前回と同じだったが、今度は、行きが十三経由、帰りは宝塚経由、という内容になっていた。
これまた興味深い。
すなわち、今津→西宮北口→十三→曽根→宝塚→今津という行程になる。そのとおりに路線図をたどってみれば分かるが、阪急の路線図の中で〝環状〟をなしている部分をぐるりと一周してくる格好になる。

興味深いと同時に疑問に思った私は、なぜ往復とも十三経由にしないのか、担任の先生に尋ねてみた。

先生の返事は、こうだった。
「西宮北口や十三は、駅の規模が大きいから、大勢(団体)での乗り換えが大変であること」
「神戸線の特急電車は混雑するので、団体での乗車が難しいと予想されること」
などの理由から、そもそも十三経由には消極的だという、舞台裏の事情を教えてくださった。

5年生の児童およそ200人が参加する遠足行事なので、担任の先生方も引率上の作戦をよくよく練ったうえでルート決定されたのだろう。


「5年生になって、君たちも体が大きくなったし、片道ぐらい神戸線に乗っても大丈夫だろう!?」(=神戸線の特急電車内の混雑に耐えられるだろう、の意)
…と、先生方はおっしゃって、片道だけ十三経由で移動することになったが、それが「行き(往路)」であった理由は、十三駅での乗り換えの便にあったようだ。
つまり、西宮北口から十三経由で曽根へ向かう場合、十三駅での乗り換えは同一ホームの平面移動で済ませることができる。けれど反対に、曽根から十三経由で西宮北口へ向かおうとすると、十三駅では階段通路を通って別ホームまで移動しなければならない。
帰り(復路)が宝塚経由だった理由は、そこにあったのだろうと思う。

さて、遠足当日は、今度こそ青空となって、予定通りに服部緑地へ出かけることができた。
行程表の通り、往路は十三経由、復路は宝塚経由で、阪急電車の〝環状ルート〟をぐるりと辿った。

心配の種だった往路の神戸線では、児童200名、特急電車に乗り込むことができて、十三までのひとときを頑張って耐えたものである。梅田ゆき特急にとっては単なる途中停車駅にすぎないので、西宮北口では速やかな乗車が、そして十三では速やかな下車が、求められた。引率の先生方には、気が抜けないひとときだっただろうと思う。

服部緑地公園で何をして過ごしたか…という肝心な記憶が残っていないが、往復の電車のことだけはちゃんと覚えている。


(終わり)



自転車で、電車ごっこ

2007年06月16日 23時03分35秒 | 備忘録
 まずは、宮脇俊三氏の著書からの引用…。

『自分だけの密かな楽しみ、しかも親しい友達にも知られるのを憚るような秘めごとがあって、内心忸怩としていると、思いがけず同好の士に接し、ほっとすることがある。
 先日、「鉄道ジャーナル」誌の編集長の竹島紀元さんと酒を酌んでいるうちに、ふと「自転車ダイヤ」の話が出て、私だけではなかったのかと安堵した。竹島さんも子供のころ、それをやっていたというのである。
「自転車ダイヤ」という用語はないけれど、要するに自転車を列車に擬し、時刻表を作成して、それに従って走らせるという遊びで、時刻表を読み耽っているうちに、とうとうそんなことを始めたのであった。
 起点と終点は自宅の門前、途中駅は電信柱やポストや公衆電話のボックスなどである。
 列車の種類は、普通、準急、急行、特急の四種類で、時間の単位は秒であった。
 たとえば普通列車の場合、「自宅発15時38分00秒、K氏邸前電柱着48秒、同発39分03秒……」というふうにやる。時刻表の紙片を左手に持ち、父親の古い腕時計をハンドルにはめ、寸秒たがわず着発することを旨とした。
 電信柱で停車していると、通りがかった近所の人が変な顔で見るので恥しかったし、ローカル線に見立てた路地の奥で折り返しの発着時刻を待つのも、空巣狙いのようで気がひけたが、とにかく、そういう時刻表ごっこをして遊んだ。』

(以下省略)

【宮脇俊三著『汽車との散歩』の中から「自転車の時刻表」より引用】



 西宮で過ごした小学生時代、私も、自転車を電車に見立てて遊ぶ〝電車ごっこ〟をしたことがある。だから、宮脇俊三氏の著書の中でこの記述に出合ったとき、私も〝ほっとした〟のを覚えている。ひょっとすると、多くの鉄道ファンが経験している遊びなのかもしれない。

「自分だけの密かな楽しみ」として遊べるのはもちろんだが、私の場合、同じように鉄道ファンだった同級生のコニタン(ニックネーム)と一緒に、ふたりで遊んだことも思い出である。
 ふたりでこの遊びをやると、再現できる〝運行シーン〟のバリエーションが増えるので面白かった。私たちは、「特急」と「各停」に役割分担して〝途中駅での特急待避シーン〟を再現して遊んだ。
 いつも遊んでいた公園の前を〝始発駅〟という設定にして、まず「各停」役がそこを出発し、あらかじめ示し合わせておいたルートをたどり、道沿いの電柱や電話ボックスなどを目印にした〝途中駅〟に丹念に停車しながら走る。一方、「特急」役は2分ほど遅れて始発駅(公園前)を出発し、同じルートをたどりつつも途中駅は全て通過し、前を行く各停役を追うのである。

 始発駅から〝5駅〟ぐらい進んだ地点の自動販売機の前が〝待避駅〟の設定で、各停役はここに着いたら路肩ぎりぎりに自転車を止めて、『待避線に入った』ことを表現した。
 すでにその頃には、追い上げてきた特急役が後方間近にまで迫っているのだが、各停役が待避線に入り終わるまで特急役は追い抜いてはならず、もし手前で追い付きそうになった場合は、特急役は〝減速・徐行〟して各停役と一定の距離を保たなければならない、というルールだった。現実の列車運行においても、前を行く各停電車との距離が詰まってしまった特急・急行電車がのろのろと走っている場面がしばしば見られる。
 各停役が待避線に入ったことを確認したら、特急役は加速に転じ、一生懸命ペダルをこいでスピードを上げて〝待避駅〟に突入する。各停役のそばを高速で通過するのが特急役の醍醐味となるのだが、その際、各停役は自転車を降りて待機し、接近する特急役に向かって手を挙げて合図を交わすことになっていた。特急の進路となる通過線の安全を確認する「ホーム監視」の場面を再現していたと言える。これも、実際の鉄道現場ではよく見られる光景だ。

 さらに、コニタンがいつも言っていたのは、
「阪神電車の運転士は、終点に到着するときに〝立ち上がって〟運転している」
ということだった。
 正直、当時の私にはよく分からない作法だったが、この技法も再現メニューに組み込んで私たちは実践した。ルートを走り終えて公園前の始発駅に戻ってきた際には、自転車のサドルから腰を浮かした〝立ち乗り〟の姿勢をとって、最後の停止位置を合わせるように努めていた。
 
 のちに私が知ったところでは、阪神電車では、信号機が「注意現示(黄色信号)」以下の場合に運転士はその場(運転席)で一旦立ち上がることになっているらしい。信号の見落としを防ぐための安全確認動作の一環とされているようで、これは他社では見られない阪神電車独特の流儀である。コニタンが言っていたのは、恐らくこの動作のことであろう。
 実際の阪神電車では、走行中であっても前方の信号機に注意現示が出たら運転士はこの動作をやるようなので、必ずしも「終点駅に到着するときだけ」に限定される動作ではないが、終点駅に着くときは場内信号が注意現示以下の場合が多いから、そう解釈したコニタンの観察力もなかなかのものと言わなければならない。
 もっとも、阪神電車の運転士は、一旦立ち上がったあとすぐに着席して運転を続けるようなので、この点、最終局面で完全に停車するまでずっと〝立ち乗り〟の姿勢をとっていた私たちの解釈はやや滑稽であったと言える。
 
 静々と終点駅に接近し、スピードを失ってふらつく自転車をいさめるように立ち乗りして、微妙なブレーキ操作で停止位置にピタリと合わせたら、乗務完了である。
 そんじょそこらの〝電車ごっこ〟とは一線を画していたものと自負するが、さて、いかがなものか。


(終わり)



電車の中は、運動場じゃない

2007年02月10日 22時00分37秒 | 備忘録


西宮で過ごした小学生時代に、塾へ通わせてもらったことは、私にとって大きな思い出である。

自宅から塾までは歩いて行ける距離ではなかったので、電車で通った。阪神国道駅から阪急今津線で甲東園駅まで、一丁前に定期券を買ってもらって、週3回ほどちょこちょこ通った。
今や、塾で学んだ事柄の多くは忘却の彼方へ消え去った気がするけれど、西宮北口駅の平面交差の通過音だけは耳底に残っており、これは電車通塾の賜物だと思っている。

   ◆          ◆          ◆

塾で知りあった同級生のT君とは、しばしば帰り道をともにした。
私は甲東園から3駅目の阪神国道で降りればすぐに家へ帰れたが、T君は終点の今津まで乗ってさらに阪神電車に乗り換えて帰る〝遠距離通塾〟の子だった。確か甲子園か鳴尾あたりから通ってきていたはずだ。

ある日、いつものように、私はT君とふたりで帰り道についた。
塾が終わった後だから午後9時すぎだったと思うけれど、甲東園駅のホームに滑り込んできた今津行き電車はとても空いていて、私たちが乗り込んだ車両(6両編成の後ろから2両目。5号車と呼ぶことにする)には他の乗客がいなかった。さらに、車両連結部の窓越しに後方の車両の様子を窺ってみると、最後尾の車両(6号車)にも乗客の姿は見えなかった。

『きょうは、ずいぶん空いているな…』

午後9時台に宝塚から西宮方向へ走る6両編成なので、ふだんから混雑することはなかったけれど、乗り込んだ車両に他の乗客が「全くいなかった」というのは珍しい。

ガラ空きの電車内に、つい、気が緩んでしまったのか…、その日の私たちは電車が走り出すと吊り革にぶら下がったり、飛び跳ねたり、車内で好き勝手に遊んでしまった。他の乗客がいなかったので羽目をはずしたと言うほかない。挙句の果てには、通路で助走をつけて、勢いよく飛び込むように座席にすわってみたり。

と…、そのとき、

「電車の中は運動場じゃない! 静かにしなさいっ!」

と大声で怒鳴られた。

私たちは、今度こそ本当に飛び上がった。

男の人の声だった。
叱るのにはもってこいの、太い、迫力ある声だった。
 
私たちは自分らの行動に照らして、叱られても仕方がない場面であることはすぐに理解できた。
しかし、この車両には他の乗客はいないはず…。今の声は、いったい誰なのか。

私はT君と顔を見合わせて、声が聞こえてきた方向に目線をやった。

ふたりの目線は、上のほうへ…。

どう考えても、それは〝頭上〟から聞こえてきた。天井から…?

「いまの…、車内放送?!」

私たちは、窓越しに見える最後尾の車両(6号車)へ視線を振った。
一番うしろの乗務員室に車掌がいるのは見えた。
距離があるので、その表情までは読み取れなかった。
ただ、ジッとこちらを睨んでいるような雰囲気にも思えた。

ふと、私は思い出したように振り返って、前方の車両(4号車)の様子も窺ってみた。
4号車にはもともと5~6人の乗客がいたが、みんな何事も無かったように静かに座っているだけだった。私は、少しだけホッとした。前寄りの車両では先ほどの車内放送は聞こえなかったのだろうか。

「いまの車内放送は、この車両(=5号車)だけに流れたのかな?」
と、私は言った。

「知らん」
と、T君はつまらなさそうに返事をした。

私たちは黙り込んだ。
つまらない気分であることに違いなかったが、学校で先生に叱られたのとはまた違う心境だった。

おとなしく座席にすわりなおし、車窓を流れる町の灯かりをぼんやりと眺めた。

電車は、まだ阪神国道に着かない。


(終わり)

画像は阪神国道駅にて撮影したものです。
昭和59年3月24日。ぴんぼけ…。



阪急6300系

2007年01月28日 21時52分07秒 | 備忘録



阪急京都線の6300系車両は、西宮で小学生時代を過ごした私が、その当時一番乗ってみたいと思っていた車両である。

阪急のほかの車両とは一線を画す外観もさることながら、何と言っても、車内の転換クロスシートこそが、当時の私にとって強い憧れだった。同じ阪急電車なのに、西宮を走る今津線や神戸線はロングシート車ばかりだったのが、私にはつまらなかった。

休日に家族と大阪へ出かけた際の帰り道、神戸線の特急電車の車内(ロングシート車)から、梅田を同時発車した京都線特急6300系を幾度となく見送った。
夕日を浴びながら新淀川橋梁を渡ってゆく6300系は、キラキラと輝いているように、美しく見えた。

何がなんでも6300系に乗ろうとするならば、梅田→十三間だけ京都線特急(6300系)に乗り、十三で神戸線に乗り換えて西宮へ帰る-、という方法もあったが、親は一笑に付すのみでこれは実現しなかった。

◆               ◆               ◆

念願が叶って6300系への初乗車を果たしたのは、小学5年生の秋(11月23日)のことだった。

その日は、母に連れられて四条大宮の親戚宅を訪ねることになり、日帰りだけど、西宮~京都を電車で往復するチャンスが到来した。
行き先は四条大宮なので、西宮からであれば阪急電車で往復するのが最善だろう。もとより私もそれを望んだ。けれど、当日はほかにも立ち寄るべき場所があったので、往路は大阪から京阪電車(急行)で京都へ向かうルートをたどった。「とにかく6300系に乗りたくて仕方がない」という私からすると、なんだか片道分は損をしたような気分ではあった。

親戚宅を訪ねて、用件も済んで、京都から西宮へ戻る「復路」の段。
いよいよ、6300系に乗りこむときを迎える-。

日帰りだと言いながら、親戚宅ではゆっくりと晩御飯までよばれてしまった。
すっかり長居をしてしまい、阪急大宮駅まで見送ってもらったときには、確か、夜10時近くになっていたような気がする。
今日中に帰り着けるか?という心配まではしなかったけれど、時間も時間だし、急いで西宮へ帰らなければならぬ状況にあることは私も察していた。
けれど、大宮駅に着いて、ホームへの階段を下りると、時はまさに、特急電車が発車した直後であった。
すぐさまホームの時刻表を確認してみると、夜間に入って運行本数も減っていくためか、次の特急が来るまではしばらく時間が空いていることも判明-。

しかし、なんとしても6300系特急に乗りたかった私は、きょうのチャンスを逃すまいと必死だった。
「早く帰ろうよ!」と言う母に無理に頼んで、その次にやってきた〝梅田まで先着〟の急行電車を見送って、あとの特急電車を待ったものである。

『十三、大阪梅田へも、この電車が先に到着いたしま~す』

と、車外スピーカーからのアナウンスが、念を押すようにホームに響き渡って、私の目の前で急行電車のドアは躊躇することなく閉まった。
乗るべき電車をわざわざ見送ってしまった…。子供心に、ちょっとした罪悪感を覚えたのも確かである。


そうした苦難を乗り越えて、次の特急電車(6300系)に乗ることができた。

初めての6300系。
大宮からなので、車内はすでに満席で、座れなかったけれど、それでも私は満足だった。
込み合う出入り口付近を避けて、通路の奥のほうまで進み、座席の背もたれに付いている握り手を掴んで、十三までずっと立っていた。
神戸線の特急とは違う、転換クロスシートの車内を見渡した。静かで、落ち着いた雰囲気だった。

夜なので、地上区間に出ても景色は見えなかったが、桂駅を通過して直線区間に入るとぐんぐんスピードが上がり、床下からのモーター音もどんどん高くなっていった。
そこだけは今でも印象に残っているが、それが美しい音色にさえ聞こえたのは、錯覚だっただろうか。

大宮からノンストップで走り続けて十三停車が近づくと、ざわざわと車内に動きが出始めて、私のそばの座席に腰掛けていた人も立った。
私も十三で神戸線に乗り換えるのだが、到着間際のこの局面で目の前に〝空席〟ができた現実を見過ごせなかった。
その空席をじっと見つめて…。どう考えても、座っておかねばならぬような気がした。

電車はすでに十三駅のホームにかかり、ブレーキの排気音を小刻みに鳴らしながら停止位置を合わせる段に入っていたが、私は、目の前の空席にひょいと腰掛けてみた。
下車のため、ドアに向かいかけていた母が驚いたように振り返って、

「あんた、降りるんやで!」と呼び止めた。

「分かってるよ!」
と言いながら私が立ち上がるまで1秒…、あっただろうか? 座ったとは言いがたい、一瞬の出来事だった。

座席にゆっくり腰掛ける楽しみは持ち越しとなったが、6300系への初乗車に十分満足した私は、一日の疲れも忘れ、足取り軽く十三駅のホームに降り立った。


(おわり)




阪神国道駅

2007年01月20日 14時05分22秒 | 備忘録



 私は、小学3年生から6年生までの4年間を、兵庫県西宮市で過ごした。

 西宮市は、大阪と神戸のほぼ中間に位置する町で、「阪神甲子園球場」の所在地としても知られている。実際、社宅の4階にあった私の家からは、南の方向に甲子園球場のナイター照明機を遠望することができた。夜、家族がタイガース戦のテレビ中継に見入っている傍らで、そっとベランダ越しに外を眺めたとき、遠く夜空に浮かび上がるように輝いていたその鮮やかな光の印象は、今でも記憶にはっきりと残っている。

◇          ◇          ◇

 阪急神戸線の特急停車駅-西宮北口で今津線に乗り換えて、ひとつ南下した地点にある阪神国道駅が、私の家の最寄り駅だった。阪急電車の駅なのに〝阪神〟という言葉が堂々と付くので、しばしば話題にあげられる駅だ。
 西宮北口駅が平面交差だった当時、今津線は今津-宝塚間で直通運転をしていたので、阪神国道駅に止まる電車もすべて6両編成だった。810系や1010系といった、神戸線では使えなくなった古い車両が主に活躍していたが、当時最新鋭だった7000系が運用されることもあって、支線ながら、車両バリエーションは豊富だった。阪神国道から西宮北口までの一駅区間を乗るだけなのに、7000系がホームに滑り込んできた日には、私は身に余る光栄というか、もったいない気がした。
 このほか、家の近所には、国鉄東海道本線(現JR神戸線)や阪神電車の線路も通っていて、〝鉄道ネタ〟には事欠かない環境だった。私が西宮で生活したのは4年間だけだったけれど、鉄道ファンの基礎を固める上では申し分のない場所だったと思う。

 私は、同じように鉄道ファンだった、同級生のコニタン(ニックネーム)という子と、学校の放課後によく電車を眺めに行った。
 阪急電車の駅から近かった私の家とは異なり、コニタンの家は阪神電車の線路沿いにあった。従って、日頃からそれを目にする機会が多いためか、コニタン自身はどちらかと言うと阪神派のファンで、阪神の車両形式や運行ダイヤの仕組みに詳しかった。
 当時、阪神には「8000形」という新形式の車両が登場したばかりで、私たちは、それを目当てに幾度となく線路際へ足を運んだ。
 阪神本線の久寿川-今津間が校区内に含まれていたこともあって、ここがお約束の観測場所であった。私たちは、線路際の児童公園で遊びながら、目の前の線路を8000形が通り掛かるのを待った。この駅間は直線区間だったので、接近してくる電車をいち早く確認でき、また、通過した電車をしばらく見送ることもできるという点で都合が良かった。
 もっとも、お目当ての8000形は、新型車両ゆえに1編成だけしか存在していなかったので、そう簡単に巡りあえるものではなかった。うまい具合に「梅田ゆき特急」の8000形に遭遇できた日には、必ず私たちは、それが梅田から折り返してくるのを待った。
「今度は須磨浦公園ゆき特急かなぁ…」
などと、行き先を予想しあうのも楽しみだった。

 いつも阪神電車ばかり眺めていては、さすがに飽きるので、時には気分を変えて国鉄東海道本線を眺めに行くこともあった。甲子園口-西ノ宮間にある、阪急今津線が東海道線をまたぐ鉄橋の下が、これまたお約束の観測場所だった。
 私たちは、線路敷地との境界を示すフェンスに張り付くようにして、目の前の複々線を駆け抜ける電車を眺めた。117系・113系・103系と、それぞれの列車種別に応じて車両形式は決まっていたけれど、国鉄車両特有のモーター音はいつ聞いても新鮮だった。
 時に、快速電車の113系が連結部付近の床下から〝水〟を落としながら走ってくるのを見つけると、コニタンは「垂れ流しや!」と大声で叫び、その箇所を指先で追いながら私にも注意を促した。そして、目の前を列車が走り去ったあと、「いま、顔にかかったがな!」と冗談を言って、互いに大笑いしたものである。

◇          ◇          ◇

 当時にして、すでに都市化が進んでいた西宮だけれど、あれから25年近い時間が流れた現在、街はさらに変貌をとげている。その背景には、阪神大震災からの復興という要素も、もちろんある。
 コニタンとよく出かけた阪神本線の久寿川-今津間は、今では高架構造になっていて、あの頃のように線路際から電車を眺めることができなくなった。また、それと連動しているのか、阪急今津線の今津-阪神国道間もこれまた高架化が完了しており、現在、今津駅界隈では阪急電車も阪神電車も頭上を駆け抜けてゆく風景になっている。
 私が通った小学校は、現在も当時と同じ場所に建っているが、恐らく、今では校区内に踏切がひとつも無い-、ということになっているはずである。
 鉄道趣味に興味を抱く子供が減少しているとも言われるなか、線路際から電車を眺める楽しみが失われてゆくのは、なんだか残念な気がする。


(終わり)



↑最近の阪神今津駅(と言っても今から数年前)。写真奥に、阪急今津駅の建物も見えています。



西宮北口駅

2007年01月10日 13時31分50秒 | 備忘録

阪急西宮北口駅の平面交差が廃止されたのは、昭和59年(1984年)3月のことだった。

東西に走る神戸線のレールと、南北に走る今津線のレールが、西宮北口駅の構内で直角に平面交差していた様子は、別名を「ダイヤモンド・クロス」という洒落た愛称でも呼ばれ、阪急電車の名物風景のひとつだった。
すべての列車はここを最徐行で慎重に進み、車輪が平面交差を踏んだときの独特の通過音が、いつも駅構内に響いていた。

   ◇          ◇          ◇

当時、小学5年生だった私は、平面交差の最終日となった3月24日に、ひとりで西宮北口駅まで足を運んだ。
平面交差の様子を見納めしておこうという魂胆だった。

その日は生憎の天気だったけれど、しかし、西宮北口駅は異様な熱気に包まれて、普段とは全く様子が違っていた。
神戸線のホームにも今津線のホームにも、カメラを構えた人たちが見事に鈴なりになって、平面交差の最後の姿を記録しようと必死になっていた。なかには、電車が平面交差を通過するときの走行音を記録しようとテープ・レコーダーを持ち込んでいる人もいた。
何を隠そう、私も、父のカメラを借りて行き、ダイヤモンド・クロスを駆け抜けてゆく電車にレンズを向けた一人である。


今津線のホームで撮影をしていた最中に、私は、いま目の前に到着した電車から降りてきたばかりの、一般乗客の女子高生から不意に声を掛けられた。
どうして私に声が掛かったのかは分からないが、とにかく、声を掛けられた。

「キミを含めて、なぜ、これほど大勢の人が写真を撮っているのか? 何か、ここで催しでもあるのか?」

そういう意味のことを、女子高生は私に問うてきた。

年上の姉さんから質問されて、私は大いに緊張したし、気合いも入った。

「今日で平面交差が廃止されるから、記念撮影をしているのです」

「ヘイメン・コウサ…って、なに?」

「(私は平面交差を指差しながら)あそこの、神戸線と今津線とが交わっている部分のことです」

「ヘイメン・コウサが廃止されたら、どうなるの?」

「今津線の電車は、あそこ(平面交差)を通らなくなります」

「エッ! 今津線は走らなくなるの!」

「いや、電車は走ります」

「でも…!(姉さんは平面交差を指差しながら)あそこのレールはなくなるのでしょう?」

「はい」

「だったら、どこを走るの?」

「今津線は、今津方面と宝塚方面の2つに分かれて走ることになっていて…」

「ええっ! ふたつに分かれる? どこで分かれるの?」

「だから、この駅で2つに分かれて…」


姉さんとのやりとりを一字一句記憶しているわけではないけれど、なんだか、そんなふうな展開の会話になってしまった。最終的に、姉さんに納得してもらえるところまで話が続かなかったことは、覚えている。
もちろん、姉さんは意地悪で質問を繰り返したのではなかったし、私だって国語力をフル稼働させて説明を試みたのだけれど、結局、あまり伝わらなかったようだ。残念無念である。

去り際に、姉さんは独り言みたいに呟いた。

「これから、どうやって学校へ行ったらええんやろ…」

今津線が廃止されるなんて言っていないのに、と私は思ったけれど。


(終わり)



↑最近の西宮北口駅前です。最近といっても、今から3~4年前になりますか。
真ん中に見えている建物がもともとの駅正面でした。現在もこれを正面と呼んでいるのでしょうか。
今津線の線路をはさんでこの西側に、広い駅前広場が完成していますね。



↓撮影はしてみたものの、見事なまでにピンボケ・手ブレのオンパレード!