ダンポポの種

備忘録です

暑いときには、やっぱり…

2008年06月25日 23時49分48秒 | 日記・雑記

蒸し暑いですね。
出歩くと、ノドも乾きます。

昼間、缶コーヒーを買おうと思って、私は、自動販売機の前に立ちました。
商品見本(ディスプレイ)の中から、自分がいつも飲む「微糖」の缶を見つけ、
ボタンを押しました。そうしたら…、

ガシャン!と、取出口に出てきたのは「ホット」の缶でした。

しゃがんで、取出口に手をつっこんで、缶を握ったときに、初めて気付きました。

このときの心境、いま風に言えば、
「ガビーン!」でしょうか。(←いつの時代やねん!)


取出口に手をつっこんだままの、しゃがんだ姿勢で、さっき自分が押したボタンを見上げました。

『ありゃ…。〝あたたかい〟って書いてあるやん…』

冷たいやつは、もう一段上に並んでいるボタンでした。



雨のなか、くみ山にて

2008年06月22日 21時39分32秒 | Yクラブ

昨夜(6月21日)、くみ山にてYクラブ集会でした。
広島出張のtoel氏が週末に帰省されたことを受けての集会開催でした。

1名欠席でしたが、21時から2時半ぐらいまで雑談専念。
最初は満席だった店内が、帰るときにはガラガラに…。
いつものように、長時間居座ってしまいました。

また二週間後に、みんな顔を合わせる予定です。



また一休さんと遭遇

2008年06月20日 14時15分51秒 | うちの近所



(モブログ投稿)
一休さんの銅像です。JR京田辺駅前ではなく、別の場所です。


◎補足◎

 きょう一休さんと出会ったこの場所は、京田辺市の中央公民館の前です。
 以前、冬に、このブログで紹介しましたが、帽子をかぶった一休さんと出会った場所は、JR京田辺駅前でした。
 ちなみに、近鉄新田辺駅前でも、必ず一休さんに出会えます。
 さらに、ほかにも、一休さんと出会える場所があるらしいぞ。


「…ということは、一休さんは、京田辺に何人いるのですか?」


「ひとりです」


(↑これを言いたかったんかいな…)



お家芸、封印?

2008年06月19日 19時58分56秒 | 鉄 道

京都も、梅雨らしい天気になってきました。
湿度も上昇しています。
激しい雨降りには至っていませんが(京都)、週間予報もしばらくはずうっと雨。

◇      ◇      ◇

さて、話は変わりまして、きょうも鉄ネタ1本。

きょうは、京都版の新聞・ニュースで、
JR京都線の西大路~向日町間に造られる新駅の話題が取り上げられていました。

新駅は、今年の10月に開業するそうで、駅名は「桂川駅」に決まったらしいです。

かつらがわ…、ときましたか。
JR西日本のことだから「JR桂駅」にするのだと思っていましたが。

並行私鉄の駅名と同じ名前を用いて「JR○○」で処理する戦法(お家芸?)を、
最近はあまり使わなくなりましたかな…?
(↑いや、春に開業した「おおさか東線」には「JR○○駅」がある!)

近鉄と並行している区間では、この戦法が炸裂しまくりの気がする…。
もしかして、阪急と並行している区間では〝自粛〟している?

…と、深読みしすぎであります。

桂川駅の場所は阪急桂駅からは離れているし、
〝同名〟にしたら逆に混乱を招くかもしれませんね。
いっそ、もみじ桂川駅、とかにしたら。(さくら夙川を意識) (←しすぎ)

JR九州とJR北海道にも「桂川駅」というのが存在するので、この点も話題になりそう。
場所は、『時刻表』の地図で探してみてください。

※九州の桂川駅は「けいせん駅」という難しい読み方をします。



紙屋町付近

2008年06月17日 23時31分42秒 | 日記・雑記


これも、昨年3月の広島旅行にて撮影。

平和公園から繁華街のほうへ歩いて移動するときに写したものです。
原爆ドーム前あたりから紙屋町交差点のほうを向いて撮影。
そごうが目印ですね。

私が広島にいたときも、紙屋町の電停は2箇所ありました。
交差点の〝こっち〟と〝あっち〟に2つあって、②系統と⑥系統は両方の電停に止まるのですね。
現在は「紙屋町西」と「紙屋町東」という電停名で2つが区別されていますが、当時はどちらも「紙屋町」という電停名でした。

当時の車内のアナウンスは、
『次は、続いて、紙屋町です』
と言っていたように記憶しています。

なお、上の画像、よーく見ると、もと京都市電の車両が写っています。



関西とは比較にならぬ…!

2008年06月16日 23時52分58秒 | 鉄 道
先日開通した東京地下鉄「副都心線」で、ダイヤの混乱が続いているらしい。
開通後初めての平日となった今日も、朝から大幅な乱れがあったそうで。
きょう夜9時のNHKニュースでも報じていました。

東京地下鉄・西武電車・東武電車の3社が関係する相互乗り入れ運行のようなので、
みんなの〝呼吸〟が揃うまで、ちょっと時間が要るのかな。

西武・東武の両線は、以前から地下鉄有楽町線とも相互乗り入れをしていますね。
今回は、そこに、もう一つの乗り入れ先として「副都心線」が加わった格好。
どんどん複雑になっていく東京の鉄道網…です。

ダイヤの混乱が続いているようですが、
レベルの高い相互直通運転が実践されていると、私は思います。
(それに比べると、京都の地下鉄の相互乗り入れは可愛らしいものや…)

副都心線、はやく落ち着きを取り戻してほしいですね。



サニーカー (昭和52年)

2008年06月15日 16時28分41秒 | 近鉄特急
『サニーカー』

車両系式:12400系
登場初年:昭和52年(1977年)
製造両数:12両(4連×3本)
※昭和53年「ブルーリボン賞」受賞車両(近鉄第4号)

 昭和44年に登場した12200系(新スナックカー)は、その後も毎年、車両の増備が続けられました。先述したように、実際のところ「スナック・コーナー」を装備していたのは初期に登場した編成に限られ、途中からは〝スナック無し〟の編成がひたすら増備されたのでありますが、最終的に12200系は166両を数える大所帯に成長し、近鉄特急のスタンダードとしての地位を築いたのでした。
 昭和50年代に入っても12200系の増備は続けられていたのですが、この時期になると、かつて一世を風靡した10100系(新ビスタカー。昭和34年登場)が「そろそろ引退か?」と噂されるようになり、その後を受け継ぐ〝新型ビスタカー〟の設計準備など新たな取り組みも必要になってきました。

 こうした流れの中で、昭和52年(1977年)に新系列の12400系「サニーカー」が登場しました。また、これを機に、長らく続いた12200系の増備には終止符が打たれました。
 12400系「サニーカー」は、4両編成×3編成(計12両)が造られました。車両性能については12200系と同等でしたが、〝新型ビスタカー〟の設計をにらんで外装・内装に新しいデザインが採り入れられた車両です。
 実際、その翌年(昭和53年)に登場した〝新型ビスタカー〟こと30000系(ビスタカーⅢ世。次回紹介予定)は、12400系編成に二階建て車両を組み込んだような印象に仕上がり、先頭車両の顔つきや雰囲気はそっくりでした。

 この12400系「サニーカー」の設計から、客室内の座席カラー(座席の表布の色)がオレンジ色に変わりました(12200系以前の座席カラーは濃い赤色でした。ちょうど、近鉄の通勤型車両の座席カラーと似ていたように思います。もしかしたら、同じだったのかも)。
 近鉄特急の座席には必ず付いている「シートカバー」(ヘッドレスト部に掛けられた白布のカバー)の〝白さ〟を際立たせるという点では、赤色の座席のほうが見映えが良かったように感じますが(好みでもありますが)、その後、12200系以前の車両についても〝オレンジ〟への座席交換(表布張替え)が進められて、以後、アーバンライナーが登場するまでこの配色が近鉄特急の標準になりました。
 ふりそそぐ太陽の光に包まれた暖かな空間、というイメージでしょうか。オレンジの座席を中心に〝サニー・ムード〟ですっきりまとめられた客室内にちなみ、12400系には「サニーカー」という愛称が付きました。

◇          ◇          ◇

 12400系は、れっきとした新系列なのですが、
 「12200系(新スナックカー)の増備車両のようでもあり…」
 「30000系(ビスタカーⅢ世)の試作車両のようでもあり…」
という、独特のポジションに立っている車両です。
「最初は12200系を増備するつもりだったのだけれど、せっかくなので30000系の試作要素を盛り込んで造ってみたら…、こんなん出ましたけど」みたいな車両です。

 デザインが一新されたという以外、決して画期的な新機軸を盛り込んだというわけではない12400系ですが、そのスマートな姿が評価を得たのか、デビュー翌年(昭和53年)に「ブルーリボン賞」を受けることになりました。近鉄電車では4度目の受賞でありました。


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ほかにもあります「サニーカー」

車両系式:12410系
登場初年:昭和55年(1980年)
製造両数:20両(4連×5本)

車両系式:12600系
登場初年:昭和57年(1982年)
製造両数:8両(4連×2本)


 12400系「サニーカー」は4両編成×3編成(計12両)が製造されるに止まりましたが、その後、系式番号を変えながらも、サニーカーの〝続編〟が造られました。
 12410系(昭和55年登場)と12600系(昭和57年登場)の2系式がそれです。

 12410系と12600系は、いずれも12400系と同じ仕様で造られていて、「12400系の増備編成」と呼んでも差し支えない内容です。編成中における接客設備(特に便所)の〝位置〟が違うなどの相違点があるそうですが、私は、そこまで見分けられないもので…、どれも同じに見えてしまいます。(←情けないテツ?)
 一応、12410系は「名阪ノンストップ特急」用途に、そして12600系は「京都線向け」用途にと、それぞれ当時の事情に応じた役割を与えられてデビューしたようですが、現在は車両運用が大きく変わっているため、この限りではありません。
 デビュー当時の12410系は3両編成を1単位としていたようなので、これならば私でもパッと見で判別できたのでしょうが、その後ご丁寧に中間車両が組み込まれて4両編成化されたもので、もはや、私には〝為す術が無い〟というのが実情です。

 車両愛称名としては、12400系と同じく、12410系・12600系も「サニーカー」と呼ぶのが一般的です。私が知る範囲では、サニーカーの場合だけ、「旧サニーカー」とか「新サニーカー」という呼び方の区別がありません。全部まとめて「サニーカー」です。
 ただし、ブルーリボン賞を受けたのは12400系だけです。



↑これが「サニーカー」です。
 ビスタカーと同じ顔をしているけれど、二階建て車両が無い編成、です。
 12400系・12410系・12600系は、いずれもこのスタイルで共通しており、かつ、現在では4両編成を1単位としている点も同じです。
 この3系式をパッと見で明確に見分ける方法を私は理解していないので、とりあえず、『あっ、サニーカーが来たぞ』と、心の中で叫ぶことにしています。
 この画像に写っているのは、たぶん…、12410系だと思う。(当たってる?)
 先日、うちの近所の、狛D~新H園間で写しました。(逆光…)


◎画像追加

↑1989年秋の撮影だと記憶しています。あやふやですが。
 京都線の木津川鉄橋付近(鉄橋の新田辺寄り)にて。



↑平成21年(2009年)6月、新田辺~興戸間にて撮影。



↑平成21年(2009年)11月、京都駅にて。


近鉄京都線を行く、サニーカー

↑平成22年(2010年)1月14日(木)、新田辺~興戸間にて。




↑平成22年(2010年)3月14日(日)、新田辺~興戸間にて。奈良ゆき。



↑平成22年(2010年)4月25日(日)、大和西大寺駅にて。奈良発→京都ゆき。



↑平成23年(2011年)2月11日(金曜祝日)、大和西大寺駅にて。京都発→橿原神宮前ゆき。
 正面の行き先表示は電光式で二行書き。「橿原神宮前」「吉野連絡」と表示されている。



↑平成24年(2012年)1月9日(月曜祝日)、大和西大寺駅にて。
 奈良駅から回送されてきたサニーカー。



↑平成24年(2012年)1月9日(月曜祝日)、大和西大寺駅にて。
 上の画像と同一列車で、これは後打ち画像です。
 奈良駅から回送されてきて、4番線のりばに進入してきたところ。
 4番線に一旦停車した後、スイッチバックして、車庫へ戻って行きます。



↑平成24年(2012年)1月14日(土)。奈良駅にて。
 奈良発→京都ゆきの運用。
 この車両は、正面の行き先表示が電光式ではなく、赤地に白文字の字幕式。(→何故か、表示は漢字のみで、英字表記はない)



↑平成24年(2012年)1月14日(土)。京都駅にて。
 上の画像の奈良発→京都ゆきに私も実際に乗車して、京都駅までやって来ました。
 画像は、京都駅に到着した直後の同列車。
 折り返し運用は橿原神宮前ゆき。行き先表示には「吉野連絡」の文字も添えられています。(画像にはちゃんと写っていないけど…)



↑平成24年(2012年)1月14日(土)に撮影。
 上の画像と同一列車にて、乗車中に、車内の「洗面所」を写してみた。
 スペース的に、やや窮屈な印象の洗面所ではあります。
 壁面に取り付けられたボックスには、袋入りの「紙おしぼり」が入っていて、自由に使えます。



↑紙おしぼり。(サニーカーに限らず、近鉄特急の車内洗面所に用意されています)
 昔のやつに比べると…、紙おしぼり、ちょっと小さくなった気がする。
 コスト面のこととか、いろいろあるんでしょうけれどな。



総谷トンネル事故〔青山トンネル事故〕 (昭和46年)

2008年06月14日 15時32分42秒 | 近鉄特急
 「ビスタカー」・「エースカー」・「スナックカー」など、華やかな車両たちによって綴られてきた近鉄特急の歴史ですが、昭和46年(1971年)の秋、大阪線内の単線区間において、その特急列車同士が正面衝突するという悲しい出来事がありました。
 昭和46年(1971年)10月25日、当時は単線だった東青山~榊原温泉口間の「総谷トンネル」で、対向する特急列車同士が正面衝突するという、あってはならない事故でした。

 本稿では事故詳細についての記述は省略しますが、ネットで検索をすればこの事故についての関連記事は多く見つかりますので、知りたい方はそちらを参考にしてください。ウィキペディアならば、「近鉄大阪線列車衝突事故」の項目で出ています。

 多数の死者と負傷者を出したこの事故をきっかけにして、近鉄は、大阪線の複線化完成に全力を注ぐことになりました。そして、事故から4年が経過した昭和50年(1975年)11月、新青山トンネル(全長5,652m。当時は私鉄界最長のトンネルだった)の開通をもって大阪線の全線複線化が完了したのです。

◇          ◇          ◇

 事故現場となった総谷トンネルや東青山駅をはさむ、西青山~榊原温泉口間の線路は、青山峠越えと呼ばれる険しい山岳地帯に踏み込んだルートになっていて、古くから大阪線の難所でした。しかも、昭和初期に開通した歴史をもつ大阪線(開通当時は参宮急行電鉄という名前だった)には、青山峠区間のほかにも「単線」の箇所が多かったそうです。(近鉄ホームページの資料によると、大阪線のうち名張~伊勢中川間はもともと単線で開通したらしい)
 近鉄では、昭和30年代半ばから大阪線の完全複線化に向けた工事に取り組み、輸送改善を進めていたようですが、地形的にも難工事が必至となる青山峠区間については最後まで複線化が遅れていたのです。悲惨な衝突事故は、そこで起こりました。

 事故後、完全複線化を急ぐに当たって、この区間(西青山~榊原温泉口間)では路線ルートそのものが抜本的に見直され、長大なトンネルによって山岳地帯を一気に貫く「複線の新線」が建設されました(新線の開通と引き換えに、単線時代の旧ルートは廃止された)。全長5,652mに及ぶ「新青山トンネル」の掘削はその象徴で、悲惨な事故に対する痛烈な思いが込められているようでもあります。

 こうして完成したのが、現在も使われている線路です。
 新青山トンネルをはさむ西青山~東青山間では、トンネル部分を含めて駅間がほぼ一直線で結ばれているなど、列車運行の保安面への配慮も行き届いた構造となっています。

◇          ◇          ◇

 今をときめく新型特急車両たちは、きょうも、この区間を高速で元気に駆け抜けてゆきます。新系列の特急車両の場合は、「新青山トンネル」内において最高時速の130km/hまでスピードを上げるそうですね。延々と一直線で続く複線トンネルの中ならば踏切障害の危険も無いし、ここではMaxまでスピードを引き上げても大丈夫-、というところでしょうか。
 かつてここが〝山越えの難所〟だったことを感じさせない、特急列車の快適な走りであります。
 でも、その裏に悲しい歴史があったことを、忘れずにいたいと思います。

 今回は、歴代特急車の紹介という内容からは外れましたが、「総谷トンネル事故」のことは近鉄特急の歴史を語る上で無視できない項目だと考え、扱いました。


◎画像追加↓


↑現在の東青山駅。平成20年(2008年)10月撮影。



↑東青山駅ホームより、伊勢中川方向を望む。
 見えているトンネルが、新線切り替えによってできた「新総谷トンネル」のようです。
 このトンネルの左側に、旧線時代の総谷トンネルがあったらしい。
 画面の左側に、線路に沿って木が並んでいるのが見えます。並んで立っているように見えるでしょう。
 これが、旧線の線路跡のようです。

 ↑私の研究はまだまだ不十分なので、あやふやです。



快晴でした

2008年06月13日 21時34分01秒 | 日記・雑記





久しぶりに、はれマークを並べてみました。

きょうの京都は、一日中、良い天気でした。
文句なしの快晴で、京都の日中の気温は今年最高を記録したそう。
私は外出中、何度も空を見上げましたが、きょうは雲を見なかったです。
どこまでも続く、青い空!

よく考えたら、昨日の午後あたりから、ずうっとこんな天気ですね。
明日も、おおむね晴れるらしいです。

画像は、市内からの帰りに写してきたものです。
きょうなんかは、ビアガーデンに行ってたら最高でしょうね。



昔、私が歩いた道

2008年06月12日 20時33分23秒 | 日記・雑記


昨年3月に家族と広島へ行ったときに写した一枚です。
(↑そうそう、昨年は広島へ行ったんだったな)

これは、JR西広島駅の近くで写したものです。(あくまでも西広島重視!)
プラットホームが見えますか?

ホームから岩国方向へ進んで最初の踏切がある地点で、写しました。
肝心の踏切が写っていませんが、画面の右端に「踏切一旦停止」のハタが見えますね。
画面の枠外になりますが、ハタのさらに右側に、踏切があるのです。

◇          ◇          ◇

私が広島に住んでいた頃、ここの踏切は、まだ「手動式」でした。
踏切のそばに小屋みたいな詰め所があって、踏切担当の職員さんが常駐されていました。
この職員さんが、遮断機の上げ下げをするのです。

踏切を渡っていると、不意にどこからか、
〝プープープープープー〟
という、ブザーの音が聞こえてくるのです。
この音が聞こえたら、
「もうすぐ踏切が閉まりますよ」の合図でした。
現在の自動式踏切では、こういう〝予告〟はないですよね。

ブザー音に急きたてられるように、踏切内の歩行者は足を速めるのでした。
すると、おもむろに警報機が〝カンカンカン…〟と鳴り始めて、
頭上から遮断機が下りてくるのです。

そう、遮断機は、頭上から垂直に下りてくるものでした。
現在の自動式踏切に見られる開閉の仕方とは、仕掛けが違っていました。
棒高跳びの「バー」が上からぴゅーっと下がってくる…っていう感じかな。

いよいよ遮断機が下りてきているのに、まだ踏切内に〝残存歩行者〟がいる場合は、
人間の背丈ぐらいの高さで遮断機が〝待ってくれる〟というオマケ付きでした。
で、全員が渡り終えたのを確認して、遮断機は定位置まで下がるのです。

遮断機を完全に下ろしたら、踏切係の職員さんは白旗を大きく振って、
接近する列車の運転士に、踏切の安全を知らせていました。


…と、長々と書いてしまいました。
(↑画面に踏切が写ってない、と言いながら、踏切の話をしてどうするねん。)



面白いですね

2008年06月10日 23時51分25秒 | 日記・雑記
U治O倉にある「かっぱ寿司」に行ったら、話題の〝特急レーン〟ができていました。
京都ヘッドに行くとき、この店に時々立ち寄ることがあって、昼飯を済ませたりしているのですが、前回に立ち寄ったときには特急レーンは無かったはず…。
やはり、この方式は人気なんだなあ。

タッチパネルで注文した商品(寿司)は、通常レーンで回る皿たちを追い抜きながら、注文主のテーブルまで〝特急輸送〟されてきます。


かっぱ寿司 特急レーン



↑新幹線に似せたトレイに載せられて、寿司は運ばれてきます。
 寿司を受け取ってボタンを押したら、トレイは元の方向に帰っていきます。
 この動画のやつは「700系」っぽいですね。
 ちなみに、U治O倉の店のやつは「N700系」っぽいです。
 こだわりの寿司、という感じです。(そこにこだわるか)



ミニ・スナックカー (昭和44年)

2008年06月07日 23時46分24秒 | 近鉄特急
『ミニ・スナックカー』

車両系式:18400系
登場初年:昭和44年(1969年)
特急引退年:平成12年(2000年)
製造両数:20両(2連×10本)
※現在、2連×1本(2両)のみが団体専用「あおぞらⅡ」に転用されているほかは、すでに全車両が廃車となっている。


 12000系(旧スナックカー。昭和42年)と12200系(新スナックカー。昭和44年)の登場によって、この時期、近鉄の特急輸送は一層にレベルアップが図られました。
 こうした新しい流れを、車両限界が異なっていた京都線・橿原線の特急にも展開しようという狙いで造られたのが、18400系「ミニ・スナックカー」です。

 18400系は、12200系と同じく昭和44年 (1969年)の登場です。当時、車両限界と架線電圧に制約があった京都線・橿原線への乗り入れが可能な仕様となり、〝その道〟の先輩である18200系(先述)とともに京都~伊勢間の直通特急に活躍しました。

 18400系は、2両編成を1単位とする軽快な姿で、昭和47年までに2両編成×10編成(合計20両)が造られました。複電圧対応の設備と車体寸法を除けば、同時期に造られた12200系(新スナックカー)とほぼ共通した造りになっていました。座席はリクライニングシートで、スナックコーナー(軽食コーナー)も設置されるなど、内容面では12200系と同等でした。
 車両限界に合わせるために車体幅のみ12200系よりも狭く設計され、実際、視覚的にも12200系より小さく見える車両だったことから、18400系は「ミニ・スナックカー」と呼ばれました。

 伊勢から奈良大和路を経て京都へ結ぶ〝周遊ルート〟に磨きをかけるためにも、当時、この区間でのサービス向上(車両のレベルアップ)は不可欠だったようです。12200系と比べて車体寸法ぐらいしか違わない18400系を〝わざわざ〟造ったところに、近鉄の意気込みが感じられるようです。


◎まとめ

・12000系が「旧スナックカー」、
・12200系が「新スナックカー」、
・18400系が「ミニ・スナックカー」。

 スナックカーという名が付いたのは、この3系式です。(スナックカー三部作?)

◇          ◇          ◇

 御多分にもれず、18400系のスナックコーナーも後年には営業休止となり、スナックコーナー自体が撤去されるという運命をたどりました。12000系や12200系の場合もあわせて、列車内における供食サービスの難しさを物語っているようでもあります。
 私は、この18400系に何度か乗ったことがありますが(昭和60年以降の時期)、その頃にはすでにスナックコーナーは撤去されており、〝跡地〟には客席(リクライニングシート)が増設されていました。跡地に増設された客席にも座ったことがありますが、なんだか〝飛び地〟みたいで落ち着きづらかった記憶があります。
 車両限界・架線電圧の問題が解決した後も、18400系は京都線に乗り入れる列車に使われることが多かったように思います。30000系ビスタカーにお供して(連結されて)、京都発賢島行きに使われている場面とか、私もよく目撃しました。

 18400系は、平成12年(2000年)までに特急運用から外れ、2連×1本が団体専用「あおぞらⅡ」に転用されたほかは、全ての車両が廃車となりました。


↑私が写したミニスナックカーは、この一枚だけです。(例によって高校生のとき)
 「どこを狙って写したのか…」という感じの構図です。
 たまたまミニスナックカーが写った、という印象。
 でも、ちゃんと〝顔〟は見えますね。

 車体寸法が絞られているので、車体側面が垂直に切り立った感じになっているのがミニスナックカーの特徴です。正面(顔)が細長く見えるのです。
 12200系の投稿記事(画像)と見比べてもらうと良いですが、12200系は車体寸法にゆとりがあり、正面(顔)はふっくらとまるい感じに見えます。



動画拝借。



新スナックカー (昭和44年)

2008年06月05日 21時08分23秒 | 近鉄特急
『新スナックカー』

車両系式:12200系
登場初年:昭和44年(1969年)
製造両数:166両(2連×29本、4連×24本、6連×2本)


 12000系(旧スナックカー)の登場から2年が過ぎた昭和44年(1969年)に、その量産車として12200系が登場しました。外装・内装とも12000系に準じたスタイルとなり、パッと見た感じは同じです。平成12年までに全車両が引退した12000系と異なり、12200系は現在も各方面への特急運用に活躍しています。

 12200系の特徴は、製造両数が非常に多かったことです。
 デビュー当初は、12000系と同様に「2両編成を1単位」とした姿だったようですが、その後、中間車(編成の中間に組み込む、運転席が付いていない車両)が追加されたりして、4両編成や6両編成の仕様も登場しました。最終的には、2両編成×29編成、4両編成×24編成、6両編成×2編成、の合計166両を数えるに至り、近鉄の特急系式では随一の勢力を誇る大所帯となりました。

 車両数の多い系式なので、製造時期には幅があります(一度に166両がポンと登場したのではない)。
 初期に登場した12200系には、12000系と同じく「スナックコーナー」(軽食コーナー)が設けられていましたが、のちに廃止となり、後期に登場した12200系には最初からスナックコーナーが付いていませんでした。…ではありますが、車両の愛称名としては、12000系(旧スナックカー)に対して12200系は「新スナックカー」と呼ぶのが一般的です。
 現在活躍している12200系にはスナックコーナー自体がありませんから、今となっては不思議に感じられる愛称名です。昔の名前で出ています、のよう。

     ◇          ◇          ◇

 以前にも述べたように、昭和40年代は、新幹線に客を奪われて「名阪特急(近鉄)」が低迷を続けていた時期です。その〝逆風〟のなかで近鉄が12200系の大量増備に踏み切った背景には、名阪が振るわないぶん伊勢方面への特急輸送を充実させることが不可欠、との考えがあったようです。

 これも、近鉄特急の歴史の中では語られる部分ですが、東京方面から新幹線でやってきた旅客を名古屋で受けて近鉄特急は伊勢へと走り、伊勢観光の後は奈良大和路へ旅客を誘い、奈良見物が済んだら最後は京都へ送り込んで、京都から新幹線で東京へ帰ってもらう-、という周遊ルートが作り上げられたそうです。

 名古屋→伊勢→奈良大和路→京都という近鉄特急ならではの周遊ルートは、東京方面から大量に旅客を運んでくる「新幹線」が無ければ成り立たないと言っても過言ではありません。大阪~名古屋間の直通輸送(スピード)では到底かなわない新幹線の存在を逆手に取った、見事な攻めです。

 話がそれましたが、12200系は、そうした伊勢方面重視の特急網を組み立てるうえで、大いに活躍しました。デビュー当時には、大阪での「万国博覧会」というビッグ・イベントも重なり、万博輸送(特需)にも活躍したそうです。

     ◇          ◇          ◇

 初期に登場した車両からは引退・廃車も出ているようですが、現在も12200系シリーズはたくさんの車両が稼動しています。
 京都線の特急にも、よく使われています。



↑私が高校生のときに写した12200系。(なぜ古い写真を貼るのか…。現在も走ってるって言うといて…)
 当時は、正面貫通扉に特急マークがあり、行き先表示(←手差し式…でしたよね)はグッと低い位置に付いていた。
 現在は、車体リニューアルによって、正面貫通扉に自動式行き先表示幕が付いている。



↑〝その一瞬〟をきっちり写し取れない私です。(スキャナが悪いのではなく、私の実力だ!)
 これも、高校生のときに写したものだと思う。
 行き先表示が読めません。(ひさん)
 でも、いっぱい字が書いてあるみたいだから「橿原神宮前」行きなのだろうと察しがつきます。なので、正面窓の下に付いている小さなプレート(白枠で囲まれた部分。紺地に赤い字で書かれているやつ)には「吉野連絡」と書かれているのです。(情けない鉄道写真やな)
 ちゃんと写せていたらなぁ。今となっては、もったいない!

※↑上の画像は2枚とも、京都線の木津川鉄橋(付近)で撮影。1989年~1990年ごろ。


◎画像追加↓


↑平成20年(2008年)10月に撮影した12200系。津駅にて。
 リニューアル後の姿、ということになります。



↑平成21年(2009年)2月、河内小阪駅にて撮影。
 土休日昼間の、奈良線特急に使用中のひとこま。



↑平成21年(2009年)6月、新田辺~興戸間にて撮影。



↑平成22年(2010年)2月、大和八木駅にて。大阪線特急の鳥羽ゆき。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)、松阪駅ホームより撮影。
 前日に発生したチリ大地震による津波警報の影響で、この日は鳥羽線の一部と志摩線が運休に…。
 鳥羽・賢島方面への特急列車も「五十鈴川ゆき」として運行された一日でした。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)、松阪駅ホームより撮影。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)、松阪駅にて。(上の画像と同じ列車)
 隣りの伊勢中川ゆき各停を待たせて、特急が先に発車していきます。



↑平成22年(2010年)2月28日(日)撮影。
 昔なつかしい「網棚」の編成に当たったので、車内でカシャっと撮影。



↑平成22年(2010年)8月28日(土)、八木西口にて。
 京都発→橿原神宮前ゆき(吉野ゆき連絡特急)。



↑12200系の客室内。平成22年11月13日(土)、奈良線特急車内にて撮影。



↑12200系の客室内。平成22年11月13日(土)、奈良線特急車内にて撮影。



↑12200系の客室内。平成22年11月13日(土)、奈良線特急車内にて撮影。



↑正面の行き先案内に「大阪難波」と表示できる車両。
 平成22年11月13日(土)、鶴橋にて。(後打ち)



↑平成24年3月24日(土)、丹波橋にて。後打ち。
 橿原神宮前→京都ゆきに運用中。



↑平成24年3月29日(木)、富野荘にて。
 吉野連絡、橿原神宮前ゆき。



↑平成24年5月26日(土)、塩浜にて。(通過)
 12200系4両+22600系2両の6両編成。宇治山田発→名古屋ゆきの乙特急に運用中。



↑平成26年1月11日(土)、大和八木にて。
 名阪乙・大阪難波ゆき12200系と、阪伊乙・鳥羽ゆき伊勢志摩ライナーが出合う。



↑平成26年2月23日(日)、鳥羽線内を走行中に撮影。
 このときは、伊勢市から鳥羽まで12200系特急に乗りました。



↑同上。平成26年2月23日(日)、鳥羽線内を走行中に撮影。



↑平成28年1月8日(金)、五十鈴川にて。 2250系復刻塗装の5200系と並んだところ。
 名伊乙特急、賢島ゆきに運用中。



↑同上。
 五十鈴川を発車し、次の停車駅・鳥羽へと向かう。



↑平成29年3月22日(木)、京都線の木津川鉄橋にて。京都発→賢島ゆきに運用中。



↑平成31年2月13日(水)、京都にて。



↑同上。



↑平成31年2月13日(水)、京都発→橿原神宮前ゆきの車内にて。



↑同上。



↑同上。



↑平成31年2月13日(水)、橿原神宮前にて。



↑令和2年(2020年)2月11日(火・祝日)、大和八木→大和西大寺間にて乗車。



↑同上。令和2年(2020年)2月11日(火・祝日)、大和八木→大和西大寺間にて乗車。



↑同上。大和八木→大和西大寺の特急券。
 同年(令和2年)2月1日から、近鉄特急は客室内禁煙になりました。(喫煙室はのぞく)
 ただし、12200系には喫煙室の設置工事が行われませんでした。
 12200系単独運用の列車については、特急券に「この列車に喫煙室はありません」と記されています。 



↑令和2年(2020年)5月25日(月)、京都にて。



↑令和2年(2020年)9月4日(金)、富野荘~新田辺間にて。



↑令和2年(2020年)9月4日(金)、新田辺~富野荘間にて。



↑令和2年(2020年)9月4日(金)、新田辺~興戸間にて。



↑同上。



↑令和2年(2020年)9月7日(月)、京都にて。



↑同上。



↑令和2年(2020年)9月14日(月)、大和西大寺にて。
 橿原神宮前→京都ゆき運用で、ホームに停車中。



↑同上。



↑令和3年(2021年)2月8日(月)、狛田にて。
 橿原神宮前ゆきに運用中。



↑同上。



↑令和3年(2021年)2月9日(火)、新田辺にて。
 橿原神宮前ゆきに運用中。



↑同上。



懐かしい歌

2008年06月03日 23時57分33秒 | 動画・music,音
♪せんぷく、いっぱい、いかがです

という歌詞が、私の記憶には残っています。

広島で過ごした幼少時代、テレビのCMだと思うのですが、この歌詞が出てくる歌がよく流れていました。
男性ばかりのコーラスで歌われていて、どこか寂しげな雰囲気の歌でした。
聞いていた当時、私は子どもでしたが、妙に印象に残っている歌です。

「もう一度、聞いてみたいな。」

と思っていました。

   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

インターネットは便利です。
その曲を、見つけました!

『グラスをのぞくフラミンゴ』
という題名なのだそうです。(←私も今回初めて知った)


↓清酒「千福」を製造・販売している株式会社三宅本店様のホームページから、
 『グラスをのぞくフラミンゴ』です。
 (別枠でページが開きます。画面の中のON/OFFスイッチの絵をONにすると、曲が聞こえます)

http://www.sempuku.co.jp/odoroki/grass/glass.htm


ううっ…、このムード。懐かしすぎる…。



新企画誕生か

2008年06月02日 23時56分37秒 | 日記・雑記
 日頃からこの『ダンポポの種』にもコメントを寄せてくれている熱心な読者、toel氏が、このほど広島へ出張することになったそうで、今後しばらくの期間、広島で生活をなさるそうです。すでに昨日、toel氏は広島へ移動しておられます。
※ブックマーク欄から、toel氏のブログ『日記 A day in the life』へ行けます。行ってみぃ。

 toel氏の広島生活を応援するべく、氏の広島滞在中、わが『ダンポポの種』でも<広島フェア>を開催することが、今決まりました! 広島に関連した話題を見つけて、ときどき投稿できたらいいなと思います。

 西宮とならんで、私が子供時代をすごした〝もうひとつのふるさと〟が広島であります。
 覚えている事柄(記憶に残っている思い出)は西宮時代ほど多くはないですが、広島の空気に触れると、なんだか懐かしい気持ちになります。

 ぜひこの機会に、広島へ遊びに行きたい…。