◎三江線探訪の、続きです。
列車は、三次を目指して、浜原からさらに先へと進んで行きます。
↑浜原→沢谷間。
↑沢谷→潮間。(列車の後方を写した画像です)
浜原から口羽までの区間は、三江線全線のなかでも一番最後に開通した区間です。(同区間は昭和50年8月末に開通)
一番最後に開通しているぶん、それだけ線路敷設の技術進歩も反映されているのか、この区間の線路は造りがしっかりしているようでした。
コンクリート枕木やし、レールそのものも〝太め〟に見えますね。
実際、浜原を発車すると、列車のスピードが上がりました。
それまで、くすぶるように30km/h程度で走っていたのが、70~80km/hで快走するようになりました。
↑潮→石見松原間。
↑石見松原→石見都賀間。
「江の川に寄り添って走る」という基本スタイルは変わらないものの、浜原から先の区間ではトンネルを通過する回数が増えました。
川に沿いつつも、〝ショート・カット〟できる箇所はトンネルで短絡していこう-、という設計なのかな。
さきほど書いたように、この区間では線路の造りが頑丈なので、トンネル内もそれなりのスピードを維持して駆け抜けるのが印象的でした。
トンネル内に〝コォーッ!〟という走行音を反響させながら、キハ120形は快調に走っていきます。
◎話は逸れますが…
『時刻表』でみる、三江線が全通するまで…
昔の『時刻表』を紐解いて、三江線の歴史をちょこっとだけ振り返ってみましょう。
(※以下の画像は、以前にJTBからシリーズで発行された復刻版時刻表のページを写したもの)
昭和5年
↑昭和5年10月号『汽車時間表』(時刻表)の、巻頭索引地図より。
画面ほぼ中央に、石見江津(現在の江津)から2駅ぶんだけチョロンと伸びている線がありますね。これが三江線のはじまり
石見江津~川戸間の開通から、三江線の歴史はスタートしたのです。
↑昭和5年10月号『汽車時間表』(時刻表)より、石見江津~川戸間の時刻表。(下段)
昭和9年
↑昭和9年12月号『汽車時間表』(時刻表)の、巻頭索引地図より。
三江線は、石見川本まで伸びていますね
南の、三次のほうからは、まだ路線が伸びてきていません。
ちなみに、画像中の〝備後十日市〟というのが、現在の三次です。画像にある三次は、現在の西三次に当たるのだそう。
↑昭和9年12月号『汽車時間表』(時刻表)より、石見江津~石見川本間の時刻表。(中段あたり)
運行は1日に8往復、設定されていたんやね。(現在よりも多い)
江津から、ちょっとずつ伸びてきた線路は、昭和12年までに浜原へ通じたそうです。
江津~浜原間については、いわゆる〝戦前〟に、すでに開通していたわけやね。
昭和36年
↑昭和36年9月号『時刻表』の、巻頭索引地図より。
戦後も昭和30年代に入ってから、三江線の〝南側〟の区間が開通しました。
三次~式敷(しきしき)間が開通して、「三江南線」となりました。
これに合わせて、既存の石見江津~浜原間は「三江北線」と呼ばれることになったそうです。
この索引地図を見ると、国鉄バスの路線もかなり多かったんですねぇ…
↑昭和36年9月号『時刻表』より。
三江北線の時刻表。1日8往復で、半数は浜田へ直通していたことが分かります。
↑昭和36年9月号『時刻表』より。
三江南線の時刻表。(中段)
それよりも、関門連絡船の存在のほうが興味深い…
昭和50年(春)
↑昭和50年3月号『時刻表』より。(山陽新幹線が〝博多開業〟したときです)
この時点ですでに、三江南線は口羽まで伸びており、三江線の未開通区間は浜原~口羽間のみとなっていました。
最後まで残っていた浜原~口羽間が〝つながった〟のは、この年(昭和50年)の8月末のことだったそう。ついに、三江線全通!
昭和51年
↑昭和51年4月号『時刻表』より。
江津~三次間で全通した三江線の時刻表。
でも…、浜原~口羽間の運転本数は、この当時から1日4往復しか設定されていなかったんやね。
昭和53年
↑昭和53年10月号『時刻表』より。
江津~三次間が、乗り換えなしで直通運転されるようになっています。
もっとも、全線を直通する(乗り通す)ぶんには、利用可能な列車本数(乗車チャンス)は現在とあまり変わらなさそうやな。
そして現在(平成25年)
↑平成25年4月号『JR時刻表』より。
誌面の割り振り(記事のレイアウト)の仕方もあるんだけど、見るからに隙間だらけでスカスカな印象の時刻表やね~
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
えーっ、三江線の旅…、車窓風景の画像に戻ります
そんなわけで、いま、私を乗せた列車は、浜原から口羽へかけての、三江線のなかで一番最後に開通した区間を走っているわけです。
↑石見松原→石見都賀間。
相変わらず…、と言ったら元も子もないけれど、車窓には江の川が見えています。
江津からずうっと川沿いをさかのぼってきているけれど、あんまり〝表情〟が変わらないですね、この川は…。
石見都賀の駅で、ご年配の女性1人が下車されました。
これで、車内に残った客は、江津でアクアライナーから乗り継いできた男性2人組と私だけに。いよいよ寂しい車内になってきた。
↑石見都賀→宇都井間。
前方へ、大きく蛇行する川に沿って、道路も鉄道も〝ぐい~ん〟とカーブしている様子が見てとれます。
高架になっているのが、三江線です。
一番最後に開通した区間だけに、近代的な土木技術で造られているというか…。
起伏のある地形も高架橋でレベルを保ちながら突き進み、山が張り出していたら迷わずトンネルでぶち抜く、みたいな。
こんなに立派な線路なのに、1日4往復しか列車が走らない(しかも1両編成のワンマン車!)っていうのが、本当に切ないです
↑宇都井にて。(駅に停車中に撮影)
地上からけっこうな高さがある高架駅。鉄道ファンの間でも有名な駅ですね。
私もここで降りてみたかったけどなー
でも、きょうは途中下車厳禁だ (しかし、またこの場所へ来ることがあるだろうか…)
ちなみに、この宇都井から3人乗車がありました。(うわっ!乗ってくる人がいるんだと、正直、びっくりしました)
ご年配の男性1人と、そのお孫さんと思しき坊ちゃんが2人。
ちなみに、車内の客は、ほかに何人乗っているか、ちゃんと覚えて読んでくださっていますか…?
宇都井から乗ってきたこの3人と、江津のアクアライナーからの男性2人連れと、私です。客は全部で6人。(男ばっかりやんけ)
↑伊賀和志(いかわし)にて。
↑伊賀和志→口羽間。
こいのぼりが見えたので撮ってみた。でも、ちょっと写りが小さかったな…。
↑17時40分頃、口羽に着きました。
ここで10分ぐらい停留(また小休憩)して、対向列車(浜原ゆき)と行き違いもしました。
宇都井で乗ってきた、おじいさん&お孫たちの3人は、ここで降りていきました。
(口羽から先の区間の画像は、また後日に! つづくー)
列車は、三次を目指して、浜原からさらに先へと進んで行きます。
↑浜原→沢谷間。
↑沢谷→潮間。(列車の後方を写した画像です)
浜原から口羽までの区間は、三江線全線のなかでも一番最後に開通した区間です。(同区間は昭和50年8月末に開通)
一番最後に開通しているぶん、それだけ線路敷設の技術進歩も反映されているのか、この区間の線路は造りがしっかりしているようでした。
コンクリート枕木やし、レールそのものも〝太め〟に見えますね。
実際、浜原を発車すると、列車のスピードが上がりました。
それまで、くすぶるように30km/h程度で走っていたのが、70~80km/hで快走するようになりました。
↑潮→石見松原間。
↑石見松原→石見都賀間。
「江の川に寄り添って走る」という基本スタイルは変わらないものの、浜原から先の区間ではトンネルを通過する回数が増えました。
川に沿いつつも、〝ショート・カット〟できる箇所はトンネルで短絡していこう-、という設計なのかな。
さきほど書いたように、この区間では線路の造りが頑丈なので、トンネル内もそれなりのスピードを維持して駆け抜けるのが印象的でした。
トンネル内に〝コォーッ!〟という走行音を反響させながら、キハ120形は快調に走っていきます。
◎話は逸れますが…
『時刻表』でみる、三江線が全通するまで…
昔の『時刻表』を紐解いて、三江線の歴史をちょこっとだけ振り返ってみましょう。
(※以下の画像は、以前にJTBからシリーズで発行された復刻版時刻表のページを写したもの)
昭和5年
↑昭和5年10月号『汽車時間表』(時刻表)の、巻頭索引地図より。
画面ほぼ中央に、石見江津(現在の江津)から2駅ぶんだけチョロンと伸びている線がありますね。これが三江線のはじまり
石見江津~川戸間の開通から、三江線の歴史はスタートしたのです。
↑昭和5年10月号『汽車時間表』(時刻表)より、石見江津~川戸間の時刻表。(下段)
昭和9年
↑昭和9年12月号『汽車時間表』(時刻表)の、巻頭索引地図より。
三江線は、石見川本まで伸びていますね
南の、三次のほうからは、まだ路線が伸びてきていません。
ちなみに、画像中の〝備後十日市〟というのが、現在の三次です。画像にある三次は、現在の西三次に当たるのだそう。
↑昭和9年12月号『汽車時間表』(時刻表)より、石見江津~石見川本間の時刻表。(中段あたり)
運行は1日に8往復、設定されていたんやね。(現在よりも多い)
江津から、ちょっとずつ伸びてきた線路は、昭和12年までに浜原へ通じたそうです。
江津~浜原間については、いわゆる〝戦前〟に、すでに開通していたわけやね。
昭和36年
↑昭和36年9月号『時刻表』の、巻頭索引地図より。
戦後も昭和30年代に入ってから、三江線の〝南側〟の区間が開通しました。
三次~式敷(しきしき)間が開通して、「三江南線」となりました。
これに合わせて、既存の石見江津~浜原間は「三江北線」と呼ばれることになったそうです。
この索引地図を見ると、国鉄バスの路線もかなり多かったんですねぇ…
↑昭和36年9月号『時刻表』より。
三江北線の時刻表。1日8往復で、半数は浜田へ直通していたことが分かります。
↑昭和36年9月号『時刻表』より。
三江南線の時刻表。(中段)
それよりも、関門連絡船の存在のほうが興味深い…
昭和50年(春)
↑昭和50年3月号『時刻表』より。(山陽新幹線が〝博多開業〟したときです)
この時点ですでに、三江南線は口羽まで伸びており、三江線の未開通区間は浜原~口羽間のみとなっていました。
最後まで残っていた浜原~口羽間が〝つながった〟のは、この年(昭和50年)の8月末のことだったそう。ついに、三江線全通!
昭和51年
↑昭和51年4月号『時刻表』より。
江津~三次間で全通した三江線の時刻表。
でも…、浜原~口羽間の運転本数は、この当時から1日4往復しか設定されていなかったんやね。
昭和53年
↑昭和53年10月号『時刻表』より。
江津~三次間が、乗り換えなしで直通運転されるようになっています。
もっとも、全線を直通する(乗り通す)ぶんには、利用可能な列車本数(乗車チャンス)は現在とあまり変わらなさそうやな。
そして現在(平成25年)
↑平成25年4月号『JR時刻表』より。
誌面の割り振り(記事のレイアウト)の仕方もあるんだけど、見るからに隙間だらけでスカスカな印象の時刻表やね~
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
えーっ、三江線の旅…、車窓風景の画像に戻ります
そんなわけで、いま、私を乗せた列車は、浜原から口羽へかけての、三江線のなかで一番最後に開通した区間を走っているわけです。
↑石見松原→石見都賀間。
相変わらず…、と言ったら元も子もないけれど、車窓には江の川が見えています。
江津からずうっと川沿いをさかのぼってきているけれど、あんまり〝表情〟が変わらないですね、この川は…。
石見都賀の駅で、ご年配の女性1人が下車されました。
これで、車内に残った客は、江津でアクアライナーから乗り継いできた男性2人組と私だけに。いよいよ寂しい車内になってきた。
↑石見都賀→宇都井間。
前方へ、大きく蛇行する川に沿って、道路も鉄道も〝ぐい~ん〟とカーブしている様子が見てとれます。
高架になっているのが、三江線です。
一番最後に開通した区間だけに、近代的な土木技術で造られているというか…。
起伏のある地形も高架橋でレベルを保ちながら突き進み、山が張り出していたら迷わずトンネルでぶち抜く、みたいな。
こんなに立派な線路なのに、1日4往復しか列車が走らない(しかも1両編成のワンマン車!)っていうのが、本当に切ないです
↑宇都井にて。(駅に停車中に撮影)
地上からけっこうな高さがある高架駅。鉄道ファンの間でも有名な駅ですね。
私もここで降りてみたかったけどなー
でも、きょうは途中下車厳禁だ (しかし、またこの場所へ来ることがあるだろうか…)
ちなみに、この宇都井から3人乗車がありました。(うわっ!乗ってくる人がいるんだと、正直、びっくりしました)
ご年配の男性1人と、そのお孫さんと思しき坊ちゃんが2人。
ちなみに、車内の客は、ほかに何人乗っているか、ちゃんと覚えて読んでくださっていますか…?
宇都井から乗ってきたこの3人と、江津のアクアライナーからの男性2人連れと、私です。客は全部で6人。(男ばっかりやんけ)
↑伊賀和志(いかわし)にて。
↑伊賀和志→口羽間。
こいのぼりが見えたので撮ってみた。でも、ちょっと写りが小さかったな…。
↑17時40分頃、口羽に着きました。
ここで10分ぐらい停留(また小休憩)して、対向列車(浜原ゆき)と行き違いもしました。
宇都井で乗ってきた、おじいさん&お孫たちの3人は、ここで降りていきました。
(口羽から先の区間の画像は、また後日に! つづくー)