歩くたんぽぽ

たんぽぽは根っこの太いたくましい花なんです。

自意識過剰なハッピーディ

2014年07月31日 | 日記
「自分っていったい何なのだろう」

「自分はなんで生まれてきたのだろう」



断言するけれど、この長い歴史の中でその答えを導きだした人は一人もいない。

なぜ断言出来るのか?

それは、ずるいけれど、70億人いるこの世界で皆が納得する答えなんて最初からないからだ。

こんな私の理論(って程のものでもないけれど)にだって何人が納得することか。



皆自分だけの答えが欲しくて悩む。

考えれば考えるほど答えが遠のいて、光のない暗闇に入り込んでしまうなんてこともある。



一方で、そんなことは初めからどうでもいいと言わんばかりに淡々と日々を過ごしている人たちもいる。

ある意味で彼らの方が、一歩前を進んでいるようにも思える。

生きる意味、自分である意味、こんなものが一旦人の背中に乗ってしまうと、

どのようにしても簡単には下ろすことが出来なくなってしまう。

哲学を学んだ多くの人たちが心を痛めてしまったという話もよく聞く。



最近考えているのが、何にも意味なんてないんじゃないかってこと。

意味がないと生きれないだけのこと。

生まれたから生きるだけ、それを体現しているのが前述した淡々と日々を過ごす人々。

シンプルなことが一番難しかったりする。



いろんな人に出会い笑い怒り悲しみ傷つくこと。

私の場合、ここにたどり着くまでに時間がかかりすぎた様な気もする。

そうやって守るべき自分というものがどんどん小さくなり、人と付き合うのが本当に楽になったのだ。

少しずつ言葉から解放されてきたのかもしれない。



私の中で、「自分」っていう存在は差異を表す無数の文字列で作られた言葉の集合体の様なものだった。

例えば、国籍、性別、年齢、出身地、血液型、生年月日といった根本的なものから、

絵を描くのが好き、映画を見るのが好き、音楽を聞くのが好きといった好みに至るまで全て言葉で表し、

それが蓄積されて出来た言葉の山が「自分」になるのだ。

その言葉を取り払うと何も残らなくなってしまう。

だから「私はこういう人間だ」と言わんばかりに言葉をかき集め理論武装するのだ。



悪い言い方をすれば、言葉は自分を自分足らしめるための慰めのようなもの。

そんな人間が言葉を脱ぎ捨てたら、自分が自分でなくなるかもしれないけれど、

体が軽くなってどこへでも行けるような気になるのだ。



私は人からよく「個性的」だと言われるけれど、

最近特に「個性」とか「アイデンティティ」という言葉に違和感を感じてしょうがない。

アイデンティティは日本語に訳すと「自己同一性」という何やら変な言葉になる。

Wikipediaの引用になってしまうが、

「「これこそが本当の自分だ」といった実感のことを自我同一性(自己同一性と同義)と呼ぶ。」らしい。

これが違和感の正体か。

言葉を攻めても意味はないのだけど、「アイデンティティを尊重する」などの文になるといよいよ怪しい。

押し付けがましいというか、嘘くさいというか。



なんだか私が頭でっかちの冷徹人間であるかのような文になってるけれど、

私にとってこれはすごく開放的で新鮮かつ壮快な話なのだ。

今は考え方を工夫して無理に前向きにいたいとは思わない。

そのままを受け入れて、いろんな感情の中で感覚的な部分を大切にしたい。



こんなこと言っておいて、私は言葉が大好きでだからこそいつも悩める人間で、

自意識過剰で被害妄想もあってナルシストであることには間違いがなく、

それでもなんだかからっぽの体に気持ちのいい風が吹いているんだな。

いろんなことが楽しくてしょうがない。



最後に言っておきたいのは、言葉は悪者ではない。

いつも言葉に悩まされるけれど助けてくれるのもやっぱり言葉だ。




「ミナイデヨ」
コメント (2)
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