「思ったこと全部口に出さなくていいから。」とよく言われる。
「言いたいことの10分の1も言っていない」と答える。
忍ぶ美学というものが欠けているのか、単に自己主張が強いのか。
反対に「君の意見を聞かせてよ」なんて言われたら、
案外言いたいことがなかったりなんかして。
みんな何を思って言葉を口にするのだろうか。
頭の中を巡る数多の思考、
そのほとんどは表に出ることなく消えていく。
まるで大河の濁流のようだ。
どこから生まれてどこに消えていくのか。
あるいは存在したと感じる微かな気配自体錯覚だったのか。
言葉とか思考とか音とか想念とか、なんだかこんがらがりそうなので、
最初にそれらをどうやって使うか決めておこう。
その際に本来の意味と食い違う部分があっても決めた使い方を優先する。
ここで軸になるのは頭の中にあるものなのか、
話すなり書くなりして表に出したものなのかということ。
思考や想念は頭の中にあるもの。とても抽象的で存在自体が曖昧。
言葉や文章は表に出したもの。他者(自分自身も含む)への発信でありより物理的。
人は何を思って頭の中にある思考を言葉にするのかふと不思議になることがある。
どんなことなら言葉にし、どんなことなら口にしないのか。
多くの場合無意識的にこの選択が行われていて、そこに人間らしさを感じる。
その点私は言葉を口にする際意識的に選択しているという強い自覚があるが、
実際にはちゃんとできないことに気づき自分に対する妄想が打ち砕かれた時、
とても晴れ晴れした気持ちになる。私も捨てたもんじゃないななんてね。
もしかしたら、思考を取捨選択する濾過器のような物が頭の中にあり、
それによって濾過された思考が言葉になるのかもしれない。
濾過器といってもかなりいい加減な装置である可能性は高い。
人に伝えると言うのは本当に難しいことだとつくづく思う。
そもそも頭の中に流れる思考がまとまっていない。
例えば感情を表す言葉はたくさんあるが、
それ以外にもっと複雑な感情がお腹の当たりでごろごろしていたりする。
それでも共有出来るものが感情をあらわす代表的な言葉しかないから、それを使う。
あまり正確に伝えたら、それはそれで苦しくなりそうだけど。
正確に伝えようと考えた人たちが、いろいろな表現方法をもって小説とか書くのかな。
内に秘めるのがいいことか悪いことかは置いておいて、
周りを見ていると男性は内に秘める力を持っており、女性はその力が弱いような気がする。
いつ何時も人の頭を支配する思考、
膨大な想念は誰に気づかれるまでもなく生まれては消え生まれては消えていく。
その全てを拾い上げることなど到底できない。
去っていく思考にもう少し待ってくれと手を伸ばしたところで振り向いてもくれない。
さてはて、うまく発信された思考は置いておいて、
発信されなかった思考たちはいったい何者なのか。
思考の大河は自分だけのものなのか、それともこの宇宙と何処かで繋がっているのか。
思考の流れがあまりにも膨大で、自分だけのものとは思い難い。
例えば人々の思考を司る亜空間が実際にあり、
そこには思考の大河が脈々と流れているというのはどうだろう。
私は自分の脳を通して思考の大河の一部分に触れているにすぎず、
そこから救い上げたいくつかを自分のものにしていくのだ。
そう思えば自分自身の考えにそこまで囚われることもなくなるかもしれない。
そして誰に気づかれることもなく消え去っていく思考の孤独な旅も、
そんなに寂しいものではなくなるだろう。
思考の大河のイメージ図。天の川みたいな感じ。
坂口安吾の『文字と速力と文学』という短い随筆がある。
この文章が本当に好きでもう何回も読んでいる。
その一部をここに紹介したい。
何が面白いかって坂口安吾の選んだ言葉と、想念への執着、書く速力に着目している点、
そしてランニング姿の彼が情けない顔で机に向かっている姿が想像出来るから。
思考は瑞々しいままでで取り出さなければすぐに生気を失う、
まるで生ものを扱うように言葉を大切にしているのが伝わってくる。
『文字と速力と文学』(坂口安吾)より
私の想念は電光の如く流れ走つてゐるのに、私の書く文字はたど/\しく遅い。
私が一字づゝ文字に突当つてゐるうちに、想念は停滞し、戸惑ひし、とみに生気を失つて、ある時は消え去うせたりする。
また、文字のために限定されて、その逞しい流動力を喪失したり、全然別な方向へ動いたりする。
かうして、私は想念の中で多彩な言葉や文章をもつてゐたにも拘らず、紙上ではその十分の一の幅しかない言葉や文章や、
もどかしいほど意味のかけ離れた文章を持つことになる。
「言いたいことの10分の1も言っていない」と答える。
忍ぶ美学というものが欠けているのか、単に自己主張が強いのか。
反対に「君の意見を聞かせてよ」なんて言われたら、
案外言いたいことがなかったりなんかして。
みんな何を思って言葉を口にするのだろうか。
頭の中を巡る数多の思考、
そのほとんどは表に出ることなく消えていく。
まるで大河の濁流のようだ。
どこから生まれてどこに消えていくのか。
あるいは存在したと感じる微かな気配自体錯覚だったのか。
言葉とか思考とか音とか想念とか、なんだかこんがらがりそうなので、
最初にそれらをどうやって使うか決めておこう。
その際に本来の意味と食い違う部分があっても決めた使い方を優先する。
ここで軸になるのは頭の中にあるものなのか、
話すなり書くなりして表に出したものなのかということ。
思考や想念は頭の中にあるもの。とても抽象的で存在自体が曖昧。
言葉や文章は表に出したもの。他者(自分自身も含む)への発信でありより物理的。
人は何を思って頭の中にある思考を言葉にするのかふと不思議になることがある。
どんなことなら言葉にし、どんなことなら口にしないのか。
多くの場合無意識的にこの選択が行われていて、そこに人間らしさを感じる。
その点私は言葉を口にする際意識的に選択しているという強い自覚があるが、
実際にはちゃんとできないことに気づき自分に対する妄想が打ち砕かれた時、
とても晴れ晴れした気持ちになる。私も捨てたもんじゃないななんてね。
もしかしたら、思考を取捨選択する濾過器のような物が頭の中にあり、
それによって濾過された思考が言葉になるのかもしれない。
濾過器といってもかなりいい加減な装置である可能性は高い。
人に伝えると言うのは本当に難しいことだとつくづく思う。
そもそも頭の中に流れる思考がまとまっていない。
例えば感情を表す言葉はたくさんあるが、
それ以外にもっと複雑な感情がお腹の当たりでごろごろしていたりする。
それでも共有出来るものが感情をあらわす代表的な言葉しかないから、それを使う。
あまり正確に伝えたら、それはそれで苦しくなりそうだけど。
正確に伝えようと考えた人たちが、いろいろな表現方法をもって小説とか書くのかな。
内に秘めるのがいいことか悪いことかは置いておいて、
周りを見ていると男性は内に秘める力を持っており、女性はその力が弱いような気がする。
いつ何時も人の頭を支配する思考、
膨大な想念は誰に気づかれるまでもなく生まれては消え生まれては消えていく。
その全てを拾い上げることなど到底できない。
去っていく思考にもう少し待ってくれと手を伸ばしたところで振り向いてもくれない。
さてはて、うまく発信された思考は置いておいて、
発信されなかった思考たちはいったい何者なのか。
思考の大河は自分だけのものなのか、それともこの宇宙と何処かで繋がっているのか。
思考の流れがあまりにも膨大で、自分だけのものとは思い難い。
例えば人々の思考を司る亜空間が実際にあり、
そこには思考の大河が脈々と流れているというのはどうだろう。
私は自分の脳を通して思考の大河の一部分に触れているにすぎず、
そこから救い上げたいくつかを自分のものにしていくのだ。
そう思えば自分自身の考えにそこまで囚われることもなくなるかもしれない。
そして誰に気づかれることもなく消え去っていく思考の孤独な旅も、
そんなに寂しいものではなくなるだろう。
思考の大河のイメージ図。天の川みたいな感じ。
坂口安吾の『文字と速力と文学』という短い随筆がある。
この文章が本当に好きでもう何回も読んでいる。
その一部をここに紹介したい。
何が面白いかって坂口安吾の選んだ言葉と、想念への執着、書く速力に着目している点、
そしてランニング姿の彼が情けない顔で机に向かっている姿が想像出来るから。
思考は瑞々しいままでで取り出さなければすぐに生気を失う、
まるで生ものを扱うように言葉を大切にしているのが伝わってくる。
『文字と速力と文学』(坂口安吾)より
私の想念は電光の如く流れ走つてゐるのに、私の書く文字はたど/\しく遅い。
私が一字づゝ文字に突当つてゐるうちに、想念は停滞し、戸惑ひし、とみに生気を失つて、ある時は消え去うせたりする。
また、文字のために限定されて、その逞しい流動力を喪失したり、全然別な方向へ動いたりする。
かうして、私は想念の中で多彩な言葉や文章をもつてゐたにも拘らず、紙上ではその十分の一の幅しかない言葉や文章や、
もどかしいほど意味のかけ離れた文章を持つことになる。