こんにちはタッキーです。あいかわらずネタがないので、ちょっとした小話をしましょう。テーマは「好き」についてです。突然ですが、「好き」ってどういうことでしょうか。意味自体はよくわかりませんよね。ただ、そのヒントくらいは考えられるかもしれません。そういう話です。
さて、人々が、「あれが好きだ」、「これが好きだ」と述べるとき、まあその対象は物資であったり行為であったりするわけですが、その思いはどのようにして形成されたのでしょう。或る対象と関わる際、何かしらのきっかけとか契機とかはもちろんあるでしょうが、経験の繰り返しによって対象への思いは変化していくはずです。その過程も様々で、ある時からスイッチが入ったように加速的に意識が進んだり、自分で気づかないうちにゆっくりと意識が浸透して気づいたら「好き」ということになっていり、あるいは段々と無関心になったり、もしかしたら仮初めの感情を作り上げたりもするかもしれません。
対象への思いがいつはっきりと意識されるのか、厳密に断定するのは難しいでしょう。ただひとつ考えられるのは、「好き」というのは状態ではなく、運動ではないかということです。停滞しているのでなく、それは動的であり常に変化を続けうる。当然といえば当然なことですが、私は「好き」という感情を考える上で、意識が形成される一連の流れそのものを重視しています。一方で、きっかけとか契機とかはどうでもいい、というと過激な言い方かもしれませんが、とにかくさほど重要視していません。結局のところ、今現在の思いとしてどうなんだ、ということですかね。
何がどうしてどういうわけか「好き」になる運動の過程はたぶんブラックボックスのようなもので、中身を考えてみてもよくわからないかもしれません。しかし、過程がよくわからないということは、これからの変化もどうなるかわからないということであり、何かしらのポジティブな方向にもネガティブな方向にも向かう可能性ないし潜在性を秘めています。
ところで、きっかけや契機を重要視しないこと、そして「好き」になっていく運動、拡大していえば感情の運動がブラックボックスであること、この2点は世の中のあちこちで述べられているであろう「夢」とか「やりたいこと」とか、そういった事柄に関する話にも結びついてくると思います。どういうことかといいますと・・・って、今日はもう疲労でいっぱいなのでここまでにしておきます。
真面目な、というか抽象的な話になってすみません。それでは。