横浜は今日、朝からすっきりと晴れ・・・寒かったです
七草粥も終え
もうすっかりお正月気分も抜け・・・・・
二階ではのりこちゃんのお友達が集まって
新年会
よって 僕は朝からお店で・・・・・
何をしていたんだ?
とにかく 今日の話題は
土曜日だし 七草も終わったから
と、昨日から決めていたのに
パソコンの電源を今入れた
といっても、何時だかわかりませんよね
もうすぐ 午後6時・・・・
今年 j自分用の年賀状を 3種類作りました
その一種類に誤りがありましたので
明るい訂正♪
まずい・・・・・お客様に呼び出されたので・・・・・・・
2011,JAN,10
行って戻ってからも忙しく・・・・・
日にちが。変わってしまいました
今日も 横浜はとても良い天気ですが
風が強く
江ノ島に行っても 船は出せないだろう・・・・・と
休日ですがお店を開いています
さて、明るい訂正
の続き・・・・
年賀はがきに下の写真を入れたのを数枚作りました
これは秋に旅行に行った 三代目 にっぽん丸 のマージャン室で写したのですが
その後ろに船の模型
これこそが
初代 にっぽん丸 で
35年前に僕が乗った物♪
と、書かせていただき 手にしているのは
行き先を示している 北 の牌
と、書かせていただいたのですが
どうも 違ったようです
違った理由は・・・・・
色々調べてみると
1977年に 初代にっぽん丸から 二代目のにっぽん丸にバトンタッチされ
僕が乗ったのが・・・・
1976年の3月
ですから そのハザマの年で・・・・・
上の模型を 仔細に見ても
記憶が朧で・・・・・
僕が小学生だった頃
学校の先生が
船にはいろいろな種類があり・・・・
貨物船 タンカー船 客船
その当時 コンテナ船なんて無かったと思う
全部バラ積みで積み下ろしが時間がかかったと思うのだが
いまや 工場 & or とにかく送り主さんがコンテナに入れ込み
船主さんは それを積み込み
所定の港に下ろし
受け取り人 か 荷主さんが トレーラーを用意して
最終目的地に着きます
便利になりましたね
でなぜか小学校の低学年の僕たちにその先生は
安く海外に行くなら
貨客船だ
と、教えてくれました
それから 10年
いつか 貨客船に乗ってみたい
と思っておりました
上の模型は まさに貨客船で
その名は
あるぜんちな丸
商船三井の船は すべて ひらがな表記です
1958年 竣工。 三菱重工神戸造船所 で建造
1972年 豪華客船に改装され にっぽん丸に改名
1977年 引退
僕が乗ったのは
1976年
となれば 今にして思えば
僕が乗ったのは・・・・・
と思っていたのです
が、このお正月
娘が僕の昔の写真を引っ張り出し
弟と笑いながら見ていて
新事実が解明されたのです
その写真の一部を・・・・・
といっても 総数でも数枚しかないのですが・・・・
理由?
この頃僕は
写真を写すという行為に時間を掛けるより
自分の心にその情景を残すことのほうが重要
と、考えていたので
ファインダーをのぞくことを 由としなかった・・・・
この出航の写真を見て
神戸の E ちゃん
愛知の T ちゃん
静岡の Y ちゃん
静岡の H ちゃん
そのほかにもその後仲良くなった人が・・・・
エッ 船乗り遅れて
タラップで乗ったんだろ
という方
あなたは僕のこのページをよく読んでくださっている♪
実は この写真は 1977年の3月
コーラルプリンセス
という船で グアム・サイパン に行った時の写真で
当然のように乗り遅れた
前年の写真は残念ながらありません
写真が 飛びますが
こちらは
商船三井の 社旗 が上がっています
これも 写真の仕上がり具合から見て
商船三井の船に乗った時の写真です
写真の出来が悪いのは
当時110カメラというのが出て
小さくて・・・・中字のマジックくらいの大きさで
ひゃくとおばん
じゃなく
ワンテン カメラ
普通のカメラフィルムは35mm
このカメラは 10mmもしかしたら
11mm??
スパイ映画に出そうなカメラで・・・・
焼き増しをすれば当然荒くなる・・・・
仕上がりも普通の焼付けより小さいので見るとわかるのです
ランドフォール♪
陸地を一週間近くたって
久しぶりに見る陸地です
たぶん・・・・パラオ
右側に写っているものに 丸い玉がふたつ写っていますが
右に緑
左は 赤球ポート
ですから
この写真は船の一番前
ということが判ります
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たぶん・・・・
パラオの港の風景
こちらは たぶん セブ島の無人島サンタロサ?に行くところ
その船で写真を取られ
不機嫌そうな僕・・・・?
この横に小さく 76 と入っています
これが たぶん友達になった人から貰ったのですが
セブかパラオ
という理由は・・・・
当時 石立鉄夫さんに憧れ
いつか 一度でいいからあんな頭にしてみたい
と、
どうせ 誰も知り合いいないんだし・・・・
と、春休みに
こんな頭にしてみたんです
下の写真はコーラルプリンセスで行った時に
自転車でグアム島を回った時の唯一の写真です
そして 船の中
この時 流行っていたのが・・・・?
流行らしていたのが
テーブルの上にいろいろな物並べて
これが 1
これが 2
じゃこれは?
というのを毎日やっていた気がします
懐かしいな~
知らない人に皆でからかうようにクイズを出して
最後に 20 をやって種明かし♪
この写真 夕食の後かな
僕は一人ラフな格好をしていますね
もしかしたら夕飯前かもしれない
ディナーは 正装でしたから
といっても、僕は一着のブレザーとワイシャツとネクタイと靴で
毎晩同じ格好でしたから
着替えはあっという間に終わるのです
誰から貰った写真でしょう??
僕は当時のバイト先の Tシャツです
そして こちらが その時の・・・・
赤い煙突ですから
商船三井の船です
裏に クルーズ船
セブンシーズ
そう 僕が乗った時は まだ タックスヘイブンの
パナマ船籍で
船名も違っていた
こんなはがき 良くあった物です
我が子らよ
どこで見つけた??
そうそう 上の写真の後ろのほうにあるプールでよく泳いだ
横浜港を出たのが
3月末
一週間真南に向かって航行
二日目くらいから 暑くなり
三日目くらいから 僕らは仲良くなった友達と
その上の デッキから
下のプールめがけて飛び込んで遊んだ
でも、僕は ある理由があって
一日安静にしなければならなかった
それはその当時
イエローカード
というのがあって
国によって違うのですが予防注射を打たなければならなかった
フィリピンには・・・・コレラの予防注射が必要だった
当然僕だってそれくらいの知識はあり
指定された・・・・イエローカードを発行してくれる病院にいき
種痘 と コレラの注射を打った
イエローカードを パスポートにホッチキスで止め
完了
と、誰だって思うでしょ・・・・
ところが 乗船後パスポートについているイエローカードの話で
上の写真のごとく盛り上がり話をしていると
コレラの注射は 二回打つ
という
エッ 僕は一回でしたよ
皆さん大変でしたね
というと、
そうじゃない!!
お前 二回打たなきゃいけないんだよ
エーーーーーーー
で急いで 船医さんのところへ
フィリピン人のお医者さんで
片言の英語で僕のコレラの注射の説明をした
やはり 二回打つようだ
急いで 日本人スタッフのところへ行き
確認
一緒に船医さんに話をし
二回目の注射を打ってから
一週間以上経っていないとフィリピンには入国できない
という結論
ガガーーーーーン
でも、幸い 船は出航して二日目だったかな
パラオに行ってから フィリピンのセブ島に行くので
ぎりぎり間に合うことになった
二日目は元気に遊んで
三日目 注射を打って
プールサイドで日光浴
他の友人は元気溌剌泳いだり 飛び跳ねたり・・・・
仕方ない・・・・・
一日 安静
熱でも出したら大変なので
船医さんの言いつけをよく守った
この話を 写真を出してから子供たちにすると
そんな話初めて聞いた
と、のりこちゃんまで言い出した
まったく 言ってないところに どんなドジ話が・・・・・まだまだありそう
と、馬鹿にされた
おかげで 僕たちは目的地に着く前に皆真っ黒
飛行機で来た日本人と知り合い
僕たちは昨日着いたが
あなたたちはいつ着いたの?
と聞かれ
今朝
というと信じてもらえなかった
そりゃそうだ
海の上で 1週間 丸々素肌をさらして来たんだもの
まだ春浅い日本から飛行機で
3時間で来た人とは違うのは当然だ
この 船旅・・・・・・・・・
この 二回の船旅・・・・
で僕の考え方も随分と変わり
知り合った人たちに随分感化もされ
その後の人生が大きく変わる多感な一時期を過ごせた
趣味も
物事に対する見方も
24時間一緒
それが 二週間
豪華客船といっても
狭い閉じられた空間に
たった一人
自分からドアをたたかなければ
誰とも話もしない
最初に知り合った
K さんは
ヨーロッパ オーストラリア をテントと寝袋で回った
と おっしゃっていた
オーストラリアの砂漠で 寝ていると
明るくなったテントの中・・・・
シュラフの上をさそりがこっち・・・・目のほうに向かって歩いてきているところだった
急いで払いのけテントの外に逃げ出した
という話を
面白おかしく聞かされた
当時の日本人はこんな冒険を目指す人間がワンサカいたように思う
この K さんに
上温湯隆さんの本を読め
と薦められ
帰国後本屋さんに駆け込んだ
豊川の ステーキやさんに
醤油の素晴らしさを説かれた
現地で食事の時に
現地の料理人に醤油を紹介していた・・・チョット チャールスブロンソンに似た風貌の人だった
他にも沢山のことを写真を見ながら思い出した
面白いのは・・・・・
この船の僕の船室は
スチューデントデッキ
という 学生の部屋
二段ベッドがふたつ
四人部屋
部屋に廊下に出るドアと
トイレ シャワー のドアが二枚
トイレに入るとすぐ目の前にドアがある
そのドアを開けると隣の四人部屋に通じる
そう、このトイレとシャワーは
8人で使う
僕らの部屋はバルクヘッドに仕切られて
隣の部屋に行くには一回上の階に行って
隣の階段を下りなければいけない
そう、万が一船底に穴が開いたら
階段上の扉は閉められる
だから鉄製の頑丈な扉がそこにあった
僕らの部屋は
エンジンの前船首のほう
K さんは
エンジンのかなり後ろ
停泊中は静か
僕の部屋は
波の音はするは
エンジンの音はするは
停泊中もエンジンは掛けて発電しているので
ずっとうるさかった
僕の部屋なんて
エンジンの音だけじゃなく
波の音までするんですよ
というと
そんなところを客室にするわけが無い
乗組員の部屋のはずだ
というので 僕らの部屋に招待したら
本当だ
と、びっくりしていたのは
横浜港を出港して神戸に着く前の話
神戸までの24時間で僕はもう下船しよう
と思うほどの船酔いに悩まされた
でも、K さんは毎朝梅干を食べると船酔いしない
と聞いたので
神戸についてすぐに三宮商店街を
梅干を求めてうろうろした
無事に買って早めに乗船
神戸から 先ほどの関西 中部地方の友人になる人たちが乗船してきた
僕らのブロックには神戸からの乗船組みはいなかった
K さんは 僕より10才くらい年上
でも、話して面白かったので
船室にいるとき意外は同室の人たちとあまり遊ばなかったな
男とはこうあるべきだ
とか
冒険には余裕が必要なんだ
とか
色々話をうかがったっけ
僕はこの次の港で下船する
と、リュックひとつで岸壁から僕らを見送った友人もいた
ミクロネシアの島々を回って
いつか 又日本に帰る
帰ったら逢えると良いね
と、手を振った
皆 元気なのだろうか?
アレから 35年 どうしているのかな
当時未成年だった僕も 今年中には 55歳
皆に逢いたいな~
その後 影響を受けて
こんな人生を送ってきたよ
と、又 2週間缶詰になり語り明かしたいな~
この歳で逢えないと
もう二度と会えない気がしてくる
中年男の悲哀・・・・
ミクロネシアを回った人に
偶然その後会った
それは
二代目にっぽん丸が横浜からどこかに出港する
そのクルーズに友人が乗る
というので見送りに行き
船内見学
エレベーターが付いた立派な
にっぽん丸 二世
僕が乗ったのと別物
ということで
僕が乗ったのは
先の あるぜんちな丸
と、思っていたのだが
僕が乗った時はセブンシーズ
セブンシーズを更に豪華客船に
エレベーターをつけた豪華客船に
改装し
それを船内見学したのだ
だから勘違いしていた
僕が乗ったのは 二代目 にっぽん丸が改装する前の
セブンシーズ
と、訂正させていただきます
突然 午後から川崎大師にお参りに行こう
と、のりこちゃんが言い出し
今帰って更新をしたのが・・・・・・午後10時だ!!!!
明日は朝一で更新するぞ~
と、気持ちだけ・・・・・