7月27日(水)さつま町からの帰り道、薩摩川内市東郷町に立ち寄りました。
小路(こうじ)磨崖仏、島津氏供養塔など 以下の画像は7月27日に撮影
グーグルマップを拡大して小路磨崖仏などを見ていると、田海(たうみ)川沿いに島津氏の供養塔があることが判りました。
さらに近くの道路脇には経塚があり、不動明王石像が残っているようです。ハス池など巡り元気が残っていたので足を延ばしました。
小路磨崖仏
地元の人しか通らないような狭い道のすぐ横にあります。500年ほど前に彫られたものとは思えないほどしっかりと残っています。
田海川右岸から 上流部を望む
民家の先50mほどのところを左上に進むと経塚の案内板がありました。島津氏供養塔は川沿いを上流へ700mの位置です。
経塚の案内板(左) 坂の上から川の方を見る
グーグルマップのストリートビューでこの看板に気づきました。
看板には・・・ここは昔、妖怪が出没して通行人を悩ませていた。その妖怪を鎮めるために、経塚を建てたという言い伝えがある・・・と、書かれています。
不動明王石像は川の方から見ると道路の右上(画像ではカーブミラーの右上)にあります。
道路右側の細い道を上がったところから見た経塚 右側中ほど奥
上原の人々が資金を出し合い宝永三年(1706)に建てられたもので、昔この辺りにお寺があったようです。
道路の崖上に残る経塚と不動明王石像
かなり傷んでいた
足元の悪い竹藪を50mほど上がったところに残っています。石像のすぐ前は5m以上もありそうな崖で大変危険な場所です。
道路反対側には狭い通路があり上がれます。説明板からは少し遠いですが経塚の様子が見えます。崖の上の危険な経塚には近寄らない方が無難です。
島津歳久及び殉死者の供養塔
経塚から田海川横に戻り、上流部へ700m歩きました。グーグルのストリートビューは途中で途切れていますが、道路は農耕車が通行できる広さでした。
車は供養塔の手前100mほどの場所に止めることができます。農繁期以外は車の通行量はごくわずかと思われます。
島津氏の墓地ではなく供養塔で、殉死者名を刻んだ石がありました。寺跡の広い場所で現在も一部は一般墓地として使われているようです。
石の仏様か
30センチほどの石に目が留まりました。よく見ると古い石の仏様のようでもありました。寺跡入口の仁王(金剛力士)像はひどく破壊されており、明治初期の廃仏毀釈の愚かさを物語っています。
国道267号交差点近く 記念碑のようなものがあった
案内板などはなく、危険と表示され道路側はロープで囲われていました。刻まれた文字を読むと、「大脇祐智先生記念碑」でした。
陸軍大将上原勇作書とありました。大脇先生の生誕地かもしれませんが、ネット検索した範囲では大脇祐智先生の情報は見つかりませんでした。
上原勇作氏は都城出身の軍人で、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 1933年(昭和8年)11月8日)、幕末から昭和にかけての陸軍武官とあります。
大脇先生の功績でしょうか、細かな漢字でぎっしり側面に刻まれています。この記念碑が昭和8年以前のものとすれば、建てられて90年ほどにもなるようです。
暑い中、あちこち巡りましたが午後は雷が鳴りだして天気が急変。帰りは樋脇から入来付近にかけて強い雨に降られ、車のライトを点灯しました。入来峠を越えると雨は降っていませんでした。
ワクチン接種4回目の副反応が消え、車であちこち巡り、様々な出会いを経験できました。健康と家族に、感謝、感謝です。
小路(こうじ)磨崖仏、島津氏供養塔など 以下の画像は7月27日に撮影
グーグルマップを拡大して小路磨崖仏などを見ていると、田海(たうみ)川沿いに島津氏の供養塔があることが判りました。
さらに近くの道路脇には経塚があり、不動明王石像が残っているようです。ハス池など巡り元気が残っていたので足を延ばしました。
小路磨崖仏
地元の人しか通らないような狭い道のすぐ横にあります。500年ほど前に彫られたものとは思えないほどしっかりと残っています。
田海川右岸から 上流部を望む
民家の先50mほどのところを左上に進むと経塚の案内板がありました。島津氏供養塔は川沿いを上流へ700mの位置です。
経塚の案内板(左) 坂の上から川の方を見る
グーグルマップのストリートビューでこの看板に気づきました。
看板には・・・ここは昔、妖怪が出没して通行人を悩ませていた。その妖怪を鎮めるために、経塚を建てたという言い伝えがある・・・と、書かれています。
不動明王石像は川の方から見ると道路の右上(画像ではカーブミラーの右上)にあります。
道路右側の細い道を上がったところから見た経塚 右側中ほど奥
上原の人々が資金を出し合い宝永三年(1706)に建てられたもので、昔この辺りにお寺があったようです。
道路の崖上に残る経塚と不動明王石像
かなり傷んでいた
足元の悪い竹藪を50mほど上がったところに残っています。石像のすぐ前は5m以上もありそうな崖で大変危険な場所です。
道路反対側には狭い通路があり上がれます。説明板からは少し遠いですが経塚の様子が見えます。崖の上の危険な経塚には近寄らない方が無難です。
島津歳久及び殉死者の供養塔
経塚から田海川横に戻り、上流部へ700m歩きました。グーグルのストリートビューは途中で途切れていますが、道路は農耕車が通行できる広さでした。
車は供養塔の手前100mほどの場所に止めることができます。農繁期以外は車の通行量はごくわずかと思われます。
島津氏の墓地ではなく供養塔で、殉死者名を刻んだ石がありました。寺跡の広い場所で現在も一部は一般墓地として使われているようです。
石の仏様か
30センチほどの石に目が留まりました。よく見ると古い石の仏様のようでもありました。寺跡入口の仁王(金剛力士)像はひどく破壊されており、明治初期の廃仏毀釈の愚かさを物語っています。
国道267号交差点近く 記念碑のようなものがあった
案内板などはなく、危険と表示され道路側はロープで囲われていました。刻まれた文字を読むと、「大脇祐智先生記念碑」でした。
陸軍大将上原勇作書とありました。大脇先生の生誕地かもしれませんが、ネット検索した範囲では大脇祐智先生の情報は見つかりませんでした。
上原勇作氏は都城出身の軍人で、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 1933年(昭和8年)11月8日)、幕末から昭和にかけての陸軍武官とあります。
大脇先生の功績でしょうか、細かな漢字でぎっしり側面に刻まれています。この記念碑が昭和8年以前のものとすれば、建てられて90年ほどにもなるようです。
暑い中、あちこち巡りましたが午後は雷が鳴りだして天気が急変。帰りは樋脇から入来付近にかけて強い雨に降られ、車のライトを点灯しました。入来峠を越えると雨は降っていませんでした。
ワクチン接種4回目の副反応が消え、車であちこち巡り、様々な出会いを経験できました。健康と家族に、感謝、感謝です。
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