今、この時点は全地球上で長い歴史なんか関係なくライブで見ている唯一の世界である。過去でもなく未来でもなく、現在そのものである。それに人間に生まれたこと自体奇跡であり、お釈迦様の「盲亀浮木(もうきふぼく)」の喩え話が頭に浮かぶ。
「盲亀浮木」とは、「人間としてこの世に生まれてくるのは、奇跡といってよいぐらいにまれなこと」とする喩である。大海原の底に目の見えない海亀が、百年に一度、海面に首を出す。その時、たまたま浮木がただよっている。その木には穴があいている。百年に一度、海面に首を出した目の見えない亀の首が、偶然にも浮木の穴から顔を出すことはありうるか、誰もがあり得ないと思うだろうが、人一人の誕生はそれぐらいの、奇跡であると教えられている。
いのちの奇跡については、竹内まりやの「いのちの歌」の歌詞も蘇ってくる。「この星の片隅で めぐり会えた奇跡」であり、「生まれてきたこと 育ててもらえたこと 出会ったこと 笑ったこと そのすべてにありがとう この命にありがとう」である。
上の教えではないが、人間に生まれてきたこと自体奇跡であるが、日本人として生まれたこと、長い地球の歴史の中の20世紀に生まれたこと、男として生まれたこと、どんな人と出会ったのか等を考えると運命のようなものを感じる。今ある自分も、様々な選択肢の中で選んできたものの積み重ねである。島倉千代子ではないが、まさに「人生いろいろ」で、数ある選択肢の奇跡的組み合わせといえる。
どの学校に行くか・どのクラスになるか・どんな人と出会うか・どの大学に合格し、どの大学・学部・クラスに行くか・どんな人と出会うか・どの会社に合格し、どの会社に入るか・どこの地域・部署で勤務するか・どんな仕事をするか・どんな人と出会うか・その後、どの地域・部門に異動するか・どんな人と出会うか・どんなスポーツをやるか・どんな趣味を持つか・誰と付き合うか・だれと結婚するか・どんな子供を持つか・どこにどんな家を持つか・定年後何をするか・どんな病気にかかるか・どんな孫を持つか 等々。
とにかく人生とは無数の選択肢の奇跡的積み重ねであり、その選択が正しかったかどうか後悔することもありうるが、「正しい道を選ぶのではなく、自分が選んだ道を正解にしていくこと」が大事であるという言葉を思い出す。即ち、自分が選んだ道を正解にすることで、その集大成が今ある自分なので、常に正しい道を歩んで来たことになる。相田みつをさんの「しあわせは、いつも自分のこころがきめる」とまさに符号する。自分の選んだ道を正解とするならば、自分のこころが決めるのだから、すべて「しあわせ」であったと回想できるはずである。
「いのちの歌」(竹内まりや): https://youtu.be/qLMexedUC4Y
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます