
平昌オリンピックも半ばを向かえ、やっと羽生結弦が金メダルを獲得した。2連覇ということで、まさに快挙であるが、やはり金を取るということはもの凄いことだと改めて認識した。夏、冬合わせて多数の日本人金メダリストがいると思うが、個人的に二人の金メダリストと知り合うチャンスがあった。
一人目は、フランクフルト駐在中に父の知り合いからの紹介で交流のあったロサンゼルスオリンピック(1984年)の体操の金メダリストである。彼は、金メダルを取ったご褒美として、1986年頃からドイツのチュービンゲンに留学していたのである。体操の本場というか、発祥の地はドイツなので、留学先としてドイツを選んだそうである。今は知らないが、当時はオリンピックで金メダルを取ると本人の希望で海外留学ができたとのことである。同時期には同じプログラムで柔道の山下泰裕さんがイギリスに留学されていた。
見知らぬ土地に留学されていたということもあって、我が家族との交流も若干の息抜きになっていたのかも知れないが、我が家に来たり、彼の家に遊びに行ったり、親しく交流させていただいた。知り合いになったことから、勝手なお願いで、フランクフルト在住の日本人向けに、講演会も開かせていただいた。演目は、「突破!突破!限界への挑戦」で、同タイトルで本も書かれている。彼は、アキレス腱の断裂や足首の骨折などの大ケガを克服して、金メダリストまで上り詰めた努力家であった。入院中に足は動かせないが、手は使えたので、怪我を逆手に腕の筋力を鍛えるチャンスと捉え、その後、腕力を使う種目が得意になったと言っていたことをよく覚えている。何事もピンチをチャンスと捉えるポジティブな姿勢が大事だと痛感している。
二人目は、アテネオリンピック(2004年)のハンマー投げの金メダリストである。彼とは、現役時代に仕事を通じて知り合うことになった。当時、国際競技連盟の選手役員の立候補にあたって、英文で彼の履歴書を作ったり、立候補PRの書類を作ったり、出張の手配をしたりのお手伝いをしていた。2000年のシドニーオリンピック以降、彼の使用していた日本製のハンマーに異論を唱えるある国が中心になって、ハンマーのハンドルの形状について、ルール改正の動きが出てきた。要するに、彼があまりに強いので、彼の不利になるようルールを改正しようとしたのである。
それに対抗して、彼と連携し、不利にならないように再提案をしたり、ルール改正の延期を働きかけたり、国際会議の場で、我々なりの努力も行った。そのかいもあってか、2004年の段階では、まだルール改正は完全には適用されなかったことやドーピング失格者が出たこともあって、見事、金メダルを獲得したのである。彼は、英語も上手だし、国際感覚も見につけているので、2020年の東京オリンピックでも要職を担っているが、将来的には、国際競技連盟の日本代表の役員として活躍してもらいたいと願っている。
「アジアの鉄人」と言われた彼のお父さんとも仕事を通じて交流させていただき、お二人から年賀状もいただいており大変恐縮している。お忙しい方達なので、お会いできるチャンスもなかなかないが、陰ながら活躍を応援している。
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