12日にZoomで親鸞聖人の文化講座を受講したが、今回は、親鸞の三大淨論の一つである「信行両座の淨論」についてであった。三大淨論とは、法然上人の弟子であった時に、法友たちと3回も淨いをされたことを言うが、「信行両座の淨論」とは①体失不体失往生の淨論 ②信心同異の淨論に次ぐもので、親鸞が34歳の時に、法然の許可を得て、法然門下の法友380余人と論争したものである。
「行不退の座」と「信不退の座」を設置し、不退(弥陀の救い)は、「行」(念仏)で助けるという誓いなのか、「信」(信心)」で救うという誓いなのか、どちらの座に入るかを380余人に問うたところ、 「信不退の座」に入ったのは3人だけで、他は皆「行不退の座」に入った。その後、親鸞は「信不退の座」に入り、最後に法然上人もそこに入ったのである。要するに、念仏だけ称えていればいいというものではなく、信心が大事であるという結論に、法友らは、驚きと師匠の前で恥をかかされ,後悔する形となった。要するに、誰もが救われる唯一の阿弥陀の本願(誓い)は、念仏で助けるという誓いなのか、信心で救うという誓いなのかということであるが、結論は信心ということである。
ちなみに、「体失不体失往生の淨論」とは、阿弥陀仏の本願の救い(往生)は、生きている時(不体失)と主張する親鸞と「死んだ後(体失)」だけと主張する善慧房との論争で、法然の裁定では、「弥陀の本願は生きているただ今、助けてくださる不体失往生である」ということで、親鸞が勝利したもの。また、「信心同異の淨論」とは、親鸞は「私の信心も、法然上人のご信心も、全く同一である」と述べ、聖信房ら3人の法友から猛反発を受けたが、法然は「私の信心は、阿弥陀の本願により賜った信心なので、同じものだ」といって親鸞を支持。師匠の法然上人の信心と同じになれないと主張する3人に対しては、各自の智慧や学問で築き上げた信心だから、同一にならず、自力の信心にすぎないとされたものである。
親鸞の教えというか仏教を真に理解するためには、この三大淨論は本質的な核心のようなので、十分理解しておきたいところである。それにしても、Zoomにょる講座や講演会は大変便利なものである。
絵の左側の信不退の座に座ったのは、「信空上人」「聖覚法印」「熊谷蓮生房」と「親鸞」と「法然」のみ。