多くの人に知的好奇心なるものが備わっていると思う。知る喜び、理解できた喜びなども多くの人が持っている感情だと思う。だから、知的好奇心を満足させ、知る喜び、理解する喜びなどを与えてくれる学校は、多くの人にとって良い場所だと思う。
ところが私は、学校が、休み時間と給食時間と放課後を除いて、大嫌いだった。私に知的好奇心が無かったということは無い。友人たちとの遊びの中で必要な事は熱心に覚えたし、祖父や祖母から教わったこと(メジロの飼い方、釣り餌の採り方、作り方、オーハンブシーの作り方など)には興味を持って覚えて、今でも忘れないでいる。
私の両親は善人で、真面目で、働き者で、少なからず尊敬もできたのだが、教育の仕方は間違っていたのではないかと思う。知的好奇心を普通に供えていた少年は、「学んで知る」ということにきっと喜びを感じたはずだが、両親にとって勉強は、「学んで知る」というよりも「良い成績を取る」ことが目的となっていたようだ。テストの成績や通信簿の評価が大事なのであった。毎日毎日「何だこの成績は!もっと勉強しろ!」と怒鳴られ続けて、それでたぶん、私は勉強が大嫌いになり、学校も嫌いになった。
先週土曜日(1月8日)、友人KK子から興味深い話を聞いた。要約すると以下。
「戦争で義務教育を受けられなかったお年寄りがいっぱいいて、その中には今からでも勉強したいと思っている人達も多くいて、で、そんな人たちを支援しているNPO法人があって、学校作って、学ぶ機会を与えているんだけど、資金が足りない。それで、国に資金援助を申し入れているんだけど、これがなかなかOKが出ないのさ。」
国が起こした戦争で、教育を受けられなかったんだ、国が補償するのは当然ではないかと私は思い、「何で?」と訊いた。「文科省と厚生省とで管轄がどーのこーの」とKK子が答えたように思うが、酔っ払いが邪魔して、その辺ははっきり覚えていない。
ただ、国への陳情のための会合が行われると聞いて、それには参加したいと思った、当事者(学びたくても学べなかった人たち)の話を聞いてみたいと思った。国の責任がどーのよりも、「学ぶとは何か」に私は興味があった。で、翌日、出かけた。
会場に着いて、教室を覗く。教室には既にたくさんの人が集まっていた。ほぼお年寄りばかり。そして、教室の外には黒服のいかつい体をした男共が6、7名いた。「何者だ、こいつら」と思って、その中の一人に訊いた。「警備です」とのこと。
そこで思い出した。そういえば昨夜、KK子が「岡田幹事長もやってくる」と言っていた。そうだった、だから、厳重な警備なのだ。黒服はSPだったのだ。お年寄りばかりの教室へも入り辛かったし、岡田幹事長にはほとんど興味無かったし、「マスコミもやってくる」と言うし、何か煩そうだなと思って参加は中止。そのまま帰った。
岡田幹事長に興味は無いが、「学ぶとは何か」には興味がある。私の両親の考えのように「良い成績を取る」ことが「学ぶ」目的では無いはず、ジョギングの目的が「他人と競って勝つ」では無く、「己の健康のため」なのと同じことのはず、と私は思う。
学べなかったお年寄りたちが「学ぶ喜び」を語るはず。「やんどー」と私は得心するはず。「いやいや、良い成績を取り、良い会社に入るためだ」と思う人も多かろうが。
記:2011.1.14 島乃ガジ丸