ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

日曜学校

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 実家の隣の隣は教会になっている。いつごろからあるのか覚えていないが、私が子供の頃は無かった。高校の頃も、大学に通っていた頃も無かったと記憶しているので、まあ、せいぜい25年から30年前にできたものと思われる。
  実家の私の部屋からその教会が見える。屋上へ上がると、大きな十字架が目の前に見える。時々、教会から歌が聞こえてくる。歌といっても讃美歌では無く、ロックとかポップスの類、バンド演奏している。コンサートのようであり、練習のようでもある。
 そういえば、その教会から讃美歌が聞こえたことは無い。たまたま私が実家へ行く日が讃美歌の日では無く、ロックやポップスの日となっているのかもしれない。

 そういえば、教会で讃美歌を聞いたという記憶があまり無い。従妹の結婚式は教会で行われたが、そこで讃美歌を聞いたかもしれないが、もう40年近くも昔の話、記憶は定かでない。それから、私はミッション系(というとカッコ良いが、米軍施政下にあった頃なので、そういう系は多くあった)の幼稚園に通っていた。教会のある幼稚園で、先生はシスターで、園長は牧師だった。そこではおそらく何度も讃美歌を聞かされ、おそらく何度も歌わされたかもしれないが、もう50年近くも昔の話、ほとんど記憶にない。
 そんな幼稚園を出ているが、私はキリスト教信者では無い。ついでに言うと、仏教徒でもイスラム教徒でもヒンズー教徒でも無い。ただ、無宗教であるともはっきり言えない。親から教え伝えられた神事、仏事はやっているのだ。それもしかし、神や仏の存在を信じてやっているわけでは無く、もしも霊というものがいて、親がそれで存在していたら、このくらいはやっておかないと嫌な思いをするだろうなと思ってのこと。

 小学生の頃、隣の隣に教会は無かったが、歩いて2分ていどの場所に教会があった。キリスト教徒では無い私だったが、日曜日になるとその教会へ通った。教会へ行って説教を聞いた覚えは無い。日曜日、教会へ行くとお菓子が貰えた。それが目当て。
 日曜日の教会へは私だけでなく、近所の子供たちが何人も集まった。それは日曜学校と呼ばれていて、「日曜学校に行きなさい」と親は言い、「日曜学校に行こうぜ」と子供達は言っていた。日曜学校、アメリカ施政下にあった沖縄独特のものかと今の今まで思っていたのだが、広辞苑に記載があり、沖縄だけのものでは無いと判った。
 日曜学校、「キリスト教会で、宗教教育を目的として子供を集めて日曜日に開く学校。教会学校。」とのこと。沖縄だけでなく、日本国だけでなく、世界的なものらしい。
     

  今日(23日)、実家へ行った(鉢物への水遣りなどの用で)ついでに、隣の隣の教会へ行き、そこの牧師さんに話を聞いた。日曜学校は、その教会では『教会学校』という名前で今でもあるとのこと。お菓子をあげる場合もあるとのこと。でも、この飽食の時代、お菓子に釣られる子供はおらず、参加者はとても少ないとのこと。
 その時ついでに、時々聞こえてくるロック音楽の演奏についても聞いた。音楽を楽しむ若者たちを応援して、コンサート会場として利用させているとのこと。その日たまたま、若者達のコンサートがあって、そのチラシを頂いた。ちょうどその時、1組のバンドがリハーサル中であった。若い女性だけのバンドだった。「若い女性」に惹かれたが、煩い音楽が苦手な私は、参加についてはご遠慮申し上げた。午後からは畑仕事があったし。
     

 記:ガジ丸 2010.12.23 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


旧盆

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 盆の時期になると沖縄のテレビでは「旧盆特別番組・・・」なんて番組が放送される。概ね民謡大会とか舞踊とか芝居とかで、民謡大会は、暮の紅白民謡大会と同じくらい盛大だったと思う。「だった」と過去形なのは、私がここ十年くらい観ていないから。新聞も取っていないので、盆の民謡大会に紅白が付いたかどうかも定かでない。 
 テレビ番組がどうであっても、旧盆が沖縄にとって重要な行事であることには変わりない。既にガジ丸HPでは『シチグヮチソーグヮチ』というタイトルで旧盆のことを紹介しているが、今回は解りやすく『旧盆』と題し、その補足とする。

 で、ちょっとおさらい。私は『シチグヮチソーグヮチ』を「七月の正月」と勘違いしていたが、正しくは「七月と正月」である。つまり、「七月に行われる正月のような行事」では無く、「七月と正月は共に大きな行事」ということ。「七月」とは盆の行われる月ということで、盆のことを指している。和語で言えば、「盆と正月」となる。

 盆とは、「盂蘭盆(うらぼん)の略。盂蘭盆の前後数日の称。」(広辞苑)で、盂蘭盆については広辞苑の説明文が長いので、要約すると、「祖霊を死後の苦しみの世界から救済するための仏事。陰暦7月13日~15日を中心に行われ、種々の供物を祖先の霊・新仏・無縁仏(餓鬼仏)に供えて冥福を祈る。」とのこと。
 タイトルを旧盆としているが、旧盆も広辞苑にあり、「旧暦により営む盂蘭盆」とのこと。しかし、元々、「陰暦7月13日~15日を中心に行われ」る行事だったので、旧盆が本家なのだ。新暦の7月や8月に行われる盆を新盆と呼ぶべきだ、と私一人が異議を唱えてもどうにもなる訳ないので、一般に準じて、私も旧盆と呼んでいる。

  さて、沖縄の盆、通称旧盆は旧暦7月7日に先ず、墓参りをする。ちなみに、7月7日は七夕だが、これも旧暦の方が七夕らしいと思う。半月の夜は、天の川も美しい。墓参りは墓掃除が主な仕事で、墓の内外に蔓延った雑草を刈り、落ち葉やゴミを掃き、きれいにした後、花を活け、お茶を入れ、お菓子を供え、線香を立てる。線香を立てて、私は手を合わせるだけだが、本来は「ウンケー(お迎え:お盆の初日)の日にはどうぞ家まで足を運んでください」などと唱えるらしい。ご先祖様たちは、あの世から先ず、あの世とこの世の出入口である墓にやってきて、それから家に向かうらしいのであ る。
 ウンケーは夕方に始まる。仏壇に果物やだんごを供え、お茶や酒や花を供え、そして、ウンケージューシーなる特別な料理を供える。ウンケージューシーとは、和語にするとお迎え雑炊となるが、雑炊とはヤハラ(柔らかい)ジューシーで、ウンケージューシーの場合はクファ(硬い)ジューシーとなる。つまり、雑炊と言うより炊き込みご飯に近い。
 線香を立てて、ここでも何やら「よくいらっしゃいました。どうぞご馳走など食べて、ゆっくりしていってください」など唱えるのだが、私は手を合わせる だけ。これで、お盆のウンケーの儀式は終わる。後は、供えたジューシーを下げて、食べるだけ。
     

 中日は特に儀式は無く、ただ、朝昼晩の三食(普通に家族が食べるもの、今回は私一人なので、サンドイッチ、冷やしソーメン、芋となった)を仏壇に供え、線香を立てる。

 ウークイ(御送り:最終日)の日は、朝昼は中日と一緒だが、夕方にはウサンミ(御三味;海、山、里のご馳走)を仏壇に供え、最後のご馳走とする。本来なら日付が変わる時間帯(できるだけ家にいて欲しいという気持ちを表す)に行うが、翌日仕事の私はそこまで待てない(最近は多くの家庭でも同様)ので、8時半頃から儀式を始める。
 供えたものを下げて、ウチカビ(お金に見立てた紙)を燃やし、玄関に供え物の一部と燃やしたウチカビなどを持っていき、ドアを開けて、先祖を見送る。先祖がゆっくりと出て行けるように、玄関はしばらくそのままの状態にしておく。そして、本来なら日付が変わってからになるが、玄関に供えたものを下げて、ウークイの儀式は終わる。

 なお、お盆の三日の間に、仏壇に供え物を納めるために親戚がやってくる。この供え物がお中元となる。お中元とは元々「中元の時期にする贈物」(広辞苑)で、中元とは「7月15日の佳節。半年生存の無事を祝い、盂蘭盆の行事をし、亡霊に供養する。」(同)とのこと。なので、仏壇に供えるという沖縄の慣習が由緒正しいのである。
     
     

  お盆の行事としては、沖縄ではエイサーが有名だが、エイサーは沖縄島中部が本場で、私が子供の頃の那覇では盆踊り大会が多かった。しかし、最近では那覇でもエイサーが盛んに行われている。確かに、子供の頃の盆踊り大会は倭国風で、何か馴染めなかった。エイサーはいかにも沖縄風。お盆になくてはならないものと感じる。
 実は、エイサーも盆踊の一つである。盆踊は、広辞苑に「精霊を迎え慰めるために音頭または歌謡に合わせてする踊り。原始舞踊に発し、仏教渡来後は盆の儀式として行われたが、室町末期から民衆娯楽として発達、その形式は円舞式と行進式との2種がある。」とあった。エイサーは踊りながら街中を巡る、行進式ということになる。
     

 最後に、「ガジ丸HPで沖縄の旧盆を紹介する」こととは全く関係ないが、ウンケージューシーは従姉Hが準備し、ウンケーの儀式を手伝ってくれた。ウークイの料理は従姉Mが準備し、ウークイの儀式を手伝ってくれた。二人とも、ありがとう。男一人ではなかなかできないことなのだ。結婚しとくんだったなぁと、この時は思った。

 記:ガジ丸 2010.8.25 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


ナンクルナイサ

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 ナンクルはウチナーグチ(沖縄口)で、「自然に」とか「勝手に」といった意味。静岡のマリコさんの畑はナンクルミー畑という名前だが、ミーはウチナーグチで「芽生える」ということ。おそらく、植物(概ね雑草の類いだと思われる)が勝手に生えてくることからそのような名前を付けたのであろう。マリコさんは静岡人である。静岡人が何故ウチナーグチを使うのかというと、彼女のご亭主が沖縄人とのことである。

 「なるようになる」というと、『ケ・セラ・セラ』という古い歌を思い出す。ケ・セラ・セラは確かスペイン語で、そのような意味であった。歌詞の内容はうろ覚えだが、「私が小さい(少女)頃、お母さんに○○○と尋ねたら、お母さんはこう答えた。ケ・セラ・セラ、なるようになるさ。」であった。日本人歌手の誰かが日本語で歌っていた。
 私が記憶しているのは、日本人歌手の誰かが日本語で歌っていたものだが、原曲はアメリカの映画音楽で、ケ・セラ・セラ(que sera sera)以外は英語の歌とのこと。
 もう一曲、『ケ・サラ』という題の歌がある。これについては、メロディーはしっかり覚えているが、歌詞やどこの誰の歌かについてはほとんど記憶していなかった。10年ほども前の話だが、スペイン語を勉強している時にアルベルト城間が歌っているのを聴き、ケ・サラもまた、「なるようになる」といった意味であることを知った。

 「なるようになる」を、ウチナーグチ(沖縄口)ではナンクルナイサと言う。ナンクルはたぶん、ナン(成る)クル(如く)ということで、前述の「自然に」とか「勝手に」といった意味はそこから派生しているものと思われる。ナイサは「なるさ」という意味。ナンクルナイサはよく耳にしてきた言葉で、いかにもウチナーンチュらしいと思った。ラテン系の人々と同じような気質をウチナーンチュも持っているのである。
 小さな島は薩摩に叩かれ、アメリカに半殺しにされながら何とか生き延びてきた。庶民はまた、島が平和な時期であっても台風に叩かれ、干ばつに殴られ、明日をも知れない生活を余儀なくされてきた。ナンクルナイサはそんな生活から生まれた諦めの気分を表しているのかもしれない。宮崎県知事の言う「どげんかせんといかん」という積極的な気分を表す慣用句は、沖縄には無いと思う。・・・たぶん。

  ただ、ウチナーンチュ(ラテン系の人々も含めて)を擁護すれば、ナンクルナイサは、単に他人任せという意味では無い。芋を植えたらいつか芋ができる、といったような、努力すればその成果も自然と付いてくるという意味も含まれていると思う。ナンクルナイサはだから、「やるべきことはやったんだから、後は天に任せよう。」といった自然や神に対する謙虚さの現れでもある、・・・ということにしておきたい。
 もちろん、努力は必ずしも報われるわけでは無く、芋が大干ばつ、大洪水などで収穫できないという可能性もある。が、でも、その時はその時さ、なのである。明日は明日の風が吹くのである。そういった気分もまた、ナンクルナイサである。
     

 記:ガジ丸 2010.3.7 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


ウフソーとソーヌガー

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 先週土曜日(2010年2月27日)の未明、沖縄では初めて、少なくとも私が記憶している限りでは初めて、と言っていいほどの大きな揺れに目が覚めた。午前五時過ぎのことであった。大きいと言っても、私が大学生の頃、東京に住んでいた頃には何度か経験している程度の揺れ、縦揺れは無く横揺れだけのもの。この程度なら騒ぐには及ばないと、再び眠りに付こうとした。その時、携帯のメール着信音が鳴った。
 「こんな時間に誰だ」と考える。父親のSOSならメールでは無く電話で来る。また、「地震だ」と騒いでメールするような友人は周りにいない。なら誰だ?とさらに考えて、一人の才色兼備が思い浮かんだ。彼女は静岡に住んでいる。彼女だと思った。
 「この地震は沖縄では無く、東海が震源だ。東海大地震があったのだ。その余波が沖縄にも及んだのだ。才色兼備は家が崩れて、瓦礫に埋もれて、声も出せなくて、「もうだめかもしれません。サヨナラ。」なんてメールを送ったのだ、と想像した。半分眠りかけていたのだが、パッチリ目が覚めた。慌ててメールを開いた。
 彼女はその日、遠出の遊びに行くとのことで早起きし、それで、地震のニュース速報を見てメールをくれたようだ。「地震、大丈夫みたいですね。」というお伺いと、「私はこれから遊びに行きます。」という軽い挨拶メールであった。それでも私は、「俺のことを気にかけてくれたのだ。俺のことを愛しているのかもしれない。」と有頂天になってしまった。早速「今度会った時はハグさせてください。」といった内容の返信をする。翌日、ハグについては全く無視の「落ち着きなさい」メールが彼女からあった。

 その日の午後、友人Hの店に行った。夫婦ともに店にいた。で、ちょっとユンタク(おしゃべり)する。その中で地震の話題も当然出た。地震があってすぐ、女房は飛び起きて家の外に出、その後を追ってHも外に出た。しかし、息子は一人家の中に取り残されていた。揺れが収まってからやっと、夫婦は息子のことを思い出したとのこと。
 その後、浦添美術館へ行く。『ピカソと20世紀の巨匠たち』という催し物をやっていて、それを観に。そこで、従姉の息子家族と会った。夫婦に小学校2年と幼稚園の息子の4人連れ。そこでも地震の話題がでた。女房は神奈川出身の才色兼備、地震の時は飛び起きて、すぐにガスの元栓を閉め、子供たちを集めて、我が身を被せたとのこと。
 「我が身だけを考え、子供を見捨てる親ども」のHに比べ、この才色兼備はまさに母親の鏡と言える。子供に対する愛情の深さは性格だが、地震多発地帯の神奈川出身ということもあって、地震の際は何をすればいいのかが身に付いているのだろう。

  神奈川出身の才色兼備は冷静で、的確な判断と行動をした。彼女はきっと、大地震が起きても助かるグループであろう。ウチナーンチュのH夫婦は慌てて行動し、大地震の際は被害を被るグループになるに違いない。地震があっても「大丈夫だろう」と、眠り続けようとする私は落ち着いた性格だ。ただ、落ち着き過ぎて犠牲者となるグループだ。
 私は日頃から落ち着いている。良く言えばそうなんだが、正確に言うとボーっとしている。ボーとしているのは妄想癖が強いせいだと思われる。静岡の才色兼備から地震のお伺いメールが来て、それに「ハグさせて」なんて返信するのも妄想のせい。 「何をトンチンカンなことを」と彼女は思ったに違いない。私のような者をウチナーグチ(沖縄口)ではウフソーと言う。ソーは性のウチナー読みで、大雑把な性格ということ。
 沖縄語辞典によると、ウフソーとは、ウフソームンの略で、「そそっかしい者」という意味(ムンは者の沖縄語読み)とのこと。サザエさんみたいな人のことをいう。サザエさんみたいなことを私は時々やるので、私は確かにウフソーである。
 ちなみに、H夫妻のような慌て者のことはウチナーグチでソーヌガーと言う。ソーは同じく性で、性根、思慮といった意味。思慮がヌガー(抜けている者)ということ。
     
     

 記:ガジ丸 2010.3.2 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


ゥワーバグゥトゥ

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 過日、現場作業に出た。その日の私の仕事は下請け業者が作業をしている間、作業員、及び通行人などに事故が無いよう見張る役。見張り役といっても、腕を組んで睨みを効かす監督のような立場では無い。何しろ、作業そのものが私の務める会社ではできない難しい仕事なので、お願いしてやってもらっている立場。気を配る立場。
 そんな中、下請け業者のトラックがロープを引き摺りながら走りだした。私は気を利かせ、トラックに素早く走り寄り、そのロープをさっと外し、道路の端、邪魔にならない所に置いてあげた。ところが、トラックは数メートル走ったところで止まり、運転手が出てきた。運転手は無表情のまま、私が外したロープを拾い、再びトラックに引っかけて、走り去った。ロープを引き摺って走る何らかの理由があったみたいである。
 運転手は若い男で、オジサンの私には文句が言えなかったのだろうが、文句を言われてもしょうがないことを私はやったようである。そのような行為、「余計な事」とヤマトゥグチ(倭語)では言うが、ウチナーグチ(沖縄語)ではゥワーバグゥトゥと言う。

 良かれと思って行った行為が、結果的に迷惑なこととなる。ゥワーバグゥトゥとはそのような行為も言い、「ゥワーバグゥトゥサンケー」(サンケーは「するな」という意のウチナーグチ)と、子供の頃よく父に怒鳴られていたので、私にはよく身に染み付いている言葉である。身に染み付いているけれど大人になった今でもたまにやってしまう。
 私はけしてお節介な人間では無い。むしろ、他人は他人、自分は自分と冷めているタイプである。でも、前述のように気を使わなければいけない立場に立った時などにはゥワーバグゥトゥをやってしまう。ただ、そういう立場は滅多にない。で、「たまに」だ。

 自分のために良かれと思って行う行為が、結果的に裏目に出たような場合にもゥワーバグゥトゥは、たぶん使える。他人のために良かれと思って行う行為は「たまに」しかないが、自分のために良かれと思って行う行為は頻繁にある。頻繁の中には裏目に出るようなこともある。私は時々そのようなゥワーバグゥトゥをしている。
 その一例になるが、三週間前からとても面倒なゥワーバグゥトゥをして、おかげで、絵を描いたり、音楽作ったり、物語書いたりする時間を奪われている。そのゥワーバグゥトゥ、ここに書くほど面白い話では無いので詳しくは述べないが、HP記事のタイトルを訳があって一部変更した。一部が他にも影響を与えたので、全部変更する羽目になった。記事は1000ほどもある。その全てのタイトルを変更する。とても時間のかかる面倒な作業だ。しかも、どうしても必要な事では無かった。まさしくゥワーバグゥトゥ。

  もう一例、私の自給自足芋生活のために借りている畑にはトイレが無い。ただ、敷地の角の一か所が、枝の茂っているゲッキツに遮られて死角になっており、そこをトイレ(立ちションということだが)にしていた。ある日、そこで立ちションしていると、ゲッキツの枝が首元に当たった。「えーい、鬱陶しい!」と私はその辺りの枝を切り落とした。すると、ゲッキツの形が崩れた。で、本格的剪定作業をして樹形を整えた。
 ゲッキツはスッキリと良い形になった。が、隠れ枝が無くなって、立ちションのできる場所が無くなってしまった。お陰でトイレは、徒歩片道2分のコンビニか、徒歩片道5分のスーパーまで行かなければならなくなった。これもまさしくゥワーバグゥトゥ。
 「隠れ枝を切る」とは、「墓穴を掘る」とか「自分で自分の首を絞める」とかと同様の意味で将来使われることになるかもしれない。私の場合だけだが。
     

 記:ガジ丸 2010.2.23 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行