姉の友人が関わっている演劇が近く(3月末)上演される。作品名を『クテーラン人びと』といい、そのあらすじは、宣伝チラシにあるのをそっくり引用すると、
「ヤマトの要らんモノは沖縄も要らん」。日本一根気がないといわれるウチナーンチュが、オカミ相手に根気勝負。負けたり負けたりたまに勝ったり。カチャーシーとチルダイ繰り返しても、ナイビランムノーナイビラン・・・後略。
略した後半はおふざけの言葉遊びのようなのが続くので、作品は喜劇仕立てなのかもしれない。喜劇仕立てで「ウチナーンチュは負けないぞ」を語るのかもしれない。
クテーランは沖縄語でクテーユンという動詞の否定形。クテーユンは沖縄語辞典によると2義あり、第一義は「答える」という意、第二義は「応える」で「彼女に振られたことが精神的にとても応えるんだ」などという時に使う「応える」。クテーランはその否定形なので、「どんな苦難であっても応えないぞ(負けないぞ)」というような意。
劇『クテーラン人びと』は舞台が辺野古新基地のようなので、国から嫌なものを押し付けられて、それに抵抗し、権力によってその抵抗が押し潰されそうになっても「クテーランぞ」ということだと思われる。負けずに挫けずに抵抗を続けていくということ。
辺野古のことを考えた時、私はクテーランという言葉がちっとも思いつかなかった。この劇のチラシを見て、「そうか、そうなんだよな、現場で反対運動をしている人たちはそういった根性で毎日声を上げているんだよな」と改めて気付かされた。
私は、現場を見に行って反対運動をしている人たちの話を伺い、エールを送ったことはあるが、実際にそこに立って彼らと一緒に反対の声を上げたことは無い、基地のフェンスに反対を意思表示するリボンを結んだこともない。私は日和見人である。
日和見人は、基地建設に反対は反対なんだが、フェンスの向こうのアメリカ兵を嫌ってはいない。基地の存在も否定はしていない。兵士も同じ人間、中には「人の嫌がる軍隊に召されていく身」に嫌々なってしまった人も多くいるであろう。沖縄の人と仲良くしたいと思っている人も多くいるであろう。そんな彼らと罵り合いはしたくない。
戦わない日和見人はだから、クテーランは日常よく耳にする言葉なんだが、辺野古からクテーランという言葉を連想しなかった。辺野古を考えた時私が連想するのはフシガランという言葉。これも沖縄の日常でよく耳にする言葉。ラジオからの国会中継を聴いているとそう感じる。「県民投票の結果については真摯に受け止める」と言いながら「工事は粛々と進める」という安倍総理のすっとぼけた答えに対しフシガランと感じる。
フシガランは沖縄語辞典に記載がない。で、素人の私が勝手な解釈をする。
ランはクテーランのランと同じく、動詞の語尾について否定の意、特に不可(~できない)を表す。で、フシガランの基本形はフシグンとなるだろうと思ったが、フシグンも辞書になく、フシから始まる動詞はないかと探したらフシジュンというのがあった。フシジュンは「防ぐ」という意。とすると、フシガランは「防ぐことができない」となるが、私が使ったり聞いたりしているフシガランは「耐えられない」とか「飽き飽きする」とかいう意である。夏の夜、叩いても叩いても蚊がやってきて不快な思いをしている時などに、「クヌ(この)ガジャン(蚊)よ、フシガランさぁ」とフシガランは使える。
ちなみに、沖縄語辞典によると、耐えられないはシジララン 飽きるはニリユン。
追記:2019.3.17
昨日(16日)夕方、知人とユンタク(おしゃべり)している内にふと、フシガランを思い出し、彼に訊くと、「うんざりする、じゃないの」と教えてもらった。確かに、フシガランの意味としては「うんざりする」がピッタシくる。
記:2019.3.15 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行