ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

季節の鳥(冬)

2011年01月07日 | 沖縄01自然風景季節

 11月下旬から12月にかけて、家の近辺、職場、散歩道、新都心の公園などでウグイスを多くみかけた。ウグイスは春の鳥だとばかり思っていたので意外に思った。
  今年の1月は寒い日が多かったのだが、地鳴きのチョッチョッチョッはずっと聞こえていて、異常な暖かさとなった2月になると、再び活発に飛び回るのが見えた。
 参考文献にもウグイスは留鳥とあるので、春以外の季節に飛び回ったって別に不思議では無いのだが、この冬はいつもより数が多いように感じた。あるいは、じつは、そう感じたのは錯覚で、冬は元々、ウグイスが活発に動き回る季節なのかもしれない。やがてやってくる恋の季節を待ちわびて、ワクワクしている季節なのかもしれない。
     

 冬の鳥としてはサシバが有名。サシバが勇壮に飛んでいるのを見ると、「あー、冬がくるんだなぁ。」と思う。サシバは本土で夏を過ごし、秋、南へ渡る。沖縄はその中継地となっている。中には、「もう疲れたぜ」と中継地で越冬する根性無しのサシバもいる。根性無しは少なくない。毎年、職場の近辺、末吉公園などで何羽も見かける。
 ところが今年は、サシバの姿が一向に見えない。今年は1度も目にしなかった。昨年の12月、明けて1月にはとても寒い日があった。「何だ、沖縄は寒いじゃねーか、もっと南へ行かなくちゃ。」とサシバたちは思って、沖縄には立ち寄らず、通り越していったのかもしれない。2月の異常な暖かさを、サシバたちは予想できなかったようだ。

  前回の冬、一昨年の12月頃に初めて知った鳥がいる。それまで食えない鳥には興味が無く、よほど身近なメジロ、スズメ、ハト、ヒヨドリなどの他、名前を認識できる鳥はほとんどいなかったのだが、HPを始めてからは、私もいろいろと覚えた。
 その時の鳥はシロハラ。シロハラは全くの冬鳥である。冬になるとやってきて、春になると去っていく。文献によると、沖縄へいるのは11月から3月にかけてとのこと。
 で、この冬もシロハラはきちんとやってきた。しかも今年は家の近辺、職場、散歩道、末吉公園などでとても多く見かけた。いつもより数が多い、と感じ たのはしかし、実際に数が多いのでは無く、私自身がそれに気付くことが多くなったからかもしれない。以前に比べて、私の鳥(に限らず植物、動物全般)に対する関心が強くなっていて、まあ、はっきり言って、自然の動きに敏感なオジサンになってしまったからかもしれない。

 私の生活している周りには多くの鳥がいる。以上挙げた他にも、シロガシラ、イソヒヨドリ、キジバトなどは普通にいつでもどこでも見かける。まれにだが、カラス、ズアカアオバトも見かける。これらは留鳥。ツバメも文献には渡り鳥で、沖縄には春と秋に多く見られるとあるが、冬も多い。私の感覚では年中たくさんいる。

 以上、自然の動きに敏感なオジサンになってしまった、かもしれない私が、一人で検討した結果、沖縄の冬鳥というと、その代表はシロハラということになった。
     
     

 記:ガジ丸 2009.2.25 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


劣悪コンクリート

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 高校卒業後、一年間浪人して翌年の春、大学受験のために上京した。沖縄島を離れたのは高校の頃、近くの慶良間諸島、ちょっと離れた久米島などへ行っているが、沖縄県を離れたのはこの時が初めて。飛行機に乗るのも初めてのことであった。
 それまで、テレビや映画で、映像としては見ているが、生では初めてのものをいくつか目にし、感動したのを覚えている。最初に上空から見る沖縄の海、そして眼下の雲海、それから、飛行機が羽田へ向かって降下していく時に見えた倭国の建物。
 映画『ゴジラ』でゴジラが、テレビ『ウルトラマン』で怪獣達が、蹴散らし、踏み潰していくおもちゃのような建物がそこにあった。怪獣に踏まれてベチャっと潰れる建物がそこにあった。「あー、あれは、それほど大げさではなかったんだ。」と納得する。
 沖縄の建物はコンクリート造りが多い。私が『ウルトラマン』を観ていた小学校の頃でも多くがそうであった。コンクリートは、いくら怪獣が踏んづけたとしても、ガラガラ、ボロボロと崩れ落ちるだけで、ベッチャとはなるまい。なので、怪獣達によって建物がベチャっとなるシーン、沖縄の少年にはなかなか想像しにくいのであった。

  私が小学校1年までは、我が家はトタン屋根の木造、しかも借家、それも我が家代々の土地から離れた場所にあった。が、私が2年になった頃、道楽者の祖父から家長の座を譲り受けた働き者の父は、コンクリートブロック造りの家を、我が家代々の土地にあたる今の場所に新築した。さほど大きくは無いが、2階建ての、まあまあ立派な家。
 その頃、父はまだ三十歳を過ぎたばかり。働かない両親と、働かない子供3人をコンクリートの家に住まわせ、養った。もちろん、母の力はさらに大きい。職業婦人として忙しく働いて家計を助け、その上、両親、夫、子供の面倒をみた。
  そうやって夫婦二人、奮闘努力して建てたコンクリート造りマイホームはしかし、建ててからすぐ(1年後か2年後か、はっきり覚えていないが)に雨漏りがした。
 2階は半分が室内で、半分はベランダとなっている。大雨が降ると、そのベランダのコンクリートの床から水が漏れ、1階に滴り落ちた。
 コンクリートから水が漏れるのは、コンクリートの質が悪い、コンクリートを施工する際の業者の腕が未熟だった、などの原因が考えられるが、父と母の努力の結晶であるその家も、20年持たずして建替えられたので、今となっては調べようも無 い。

 1972年に沖縄が祖国(倭国が琉球の祖国かどうかについては異論もあるが、一般的にはそう思われている)復帰して、1975年には一大イベントである沖縄海洋博覧会が開催された。その頃、海洋博をあてこんで(ホテルなど)沖縄は建設ラッシュとなった。ちゃんと調べてはいないので確かなことは言えないが、噂では、その頃建てられた個人のコンクリート造り建物はコンクリートの質が劣悪とのことである。
 建設ラッシュで、コンクリートの原料の一つである砂が間に合わない。で、海砂を、洗わずにそのまま用いたらしい。コンクリートに塩分が含まれていると鉄筋が錆びる。鉄筋は錆びると太る。太ると周りのコンクリートが割れる。終いには、崩れ落ちる。
 劣悪コンクリートを用いたらしい建物は、今でも見かける。何しろ、築40年ほどは経っていると思われる、私の現在の住まいであるアパートがそうである。
     
     
     

 記:ガジ丸 2009.2.21 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


牧志市場

2011年01月07日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 親を伴わずに一人で街へ出かけるようになったのは、中学になってからだと記憶しているが、当時、それは冒険であった。中学の頃、私は何度か、カツアゲにあっている。歩いていると、後から急に肩を組まれる。傍から見るといかにも友達といった感じ。肩を組んできたのは全く知らない奴、同じ年頃か、2、3つ年上。奴は小さな声で、「ちょっとこっちへ来い。」と言い、建物の陰、または、デパートのトイレなどに連れ込んだ。
  ここで言う「一人で街へ出かける」の街は、概ね牧志である。今では那覇新都心という遊び場が別にあるが、当時は、遊びに行くというと牧志と決まっていた。牧志には、少年が喜ぶ遊び場所、少年が欲しがる商品を売る店がたくさんあった。なので、少年達は牧志へ出かけるのだが、そこはまた、危険に遭遇する可能性も高かったわけである。

 那覇のメインストリート国際通りは、東端の安里から、牧志、西端の松尾、久茂地とそれぞれ呼ばれる地名に分かれる。いつ頃までかはっきり覚えていないが、少なくとも私が浪人の頃までは、牧志に2軒、松尾に1軒のデパートがあり、安里に1軒、牧志に4軒、松尾に1件の映画館があり、安里から久茂地までたくさんのパチンコ屋、スロットマシン屋があり、中高生、大学生に必要な本屋、文具屋、楽器屋、レコード屋がいくつもあり、中高生、大学生の溜り場となる喫茶店、レストランなど飲食店も多くあった。
 牧志は国際通りの中央部辺りに位置し、若者の需要となる店が最も多くあった。牧志の真ん中、国際通りに面した場所にデパート三越がある。私の実家から三越までは徒歩15分足らず。牧志での待ち合わせ場所、今の若者たちはオーパという名のファッションビルらしいが、オジサンオバサンたちは概ね三越前である。
 三越デパートは、私が小学生の頃は大越という名前で、東宝映画館もその中にあった。そこから別の映画館、今の桜坂劇場も含めて徒歩5分圏内に5軒の映画館があり、どの映画館へ行くにも、牧志は私の通り道となっていた。
     

  三越の正面にアーケードのかかっている道がある。平和通りという名前。現在は観光客の方が多いが、以前はウチナーンチュの買い物場所で、その西にある市場本通りも含め、壷屋通りまでの一帯を牧志市場と私は認識していた。「母ちゃん、ズボンが欲しいんだけど。」と言うと、「牧志の市場に行こうね。」となり、その辺り一帯へ出かけた。
 『沖縄大百科事典』によると、牧志は「平和通り商店街、公設市場、新天地市場、水上店舗、桜坂、十貫瀬の歓楽街を有し・・・」とある。公設市場は有名なので説明の必要は無いと思う。新天地市場は平和通のすぐ西に隣接し、ごく小さな店が並 んでいる。水上店舗は川の上に建てられたビルで、多くの店があり、その2階にあった卓球場やビリヤード場を私はよく利用した。桜坂は桜坂劇場のある一帯で、大人の男の遊び場。十貫瀬はジッカンジと読む。私の実家から三越へ向かう途中にある。ここも桜坂と同じ歓楽街。

 牧志市場は細い路地がたくさんあって、店舗も無数にある。ゴチャゴチャしているが、そういうところが観光客に人気があるのかもしれない。10年ほど前だったか、沖縄を何度も訪れているという女性に市場の中を道案内されたことがある。土着民の私でも面倒に思うゴチャゴチャした街、好奇心旺盛な若い女性にとっては魅力的なのであろう。
     
     

 記:ガジ丸 2009.2.8 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


花見

2011年01月07日 | 沖縄01自然風景季節

 倭国で盛んなお花見、沖縄の伝統には無い。とはっきり言い切っていいのかどうか判らないが、少なくとも沖縄での私の歴史、私の周辺には無かった。
 倭国のお花見、私の初体験は、大学に入って、東京暮らしをしてから。吉祥寺に住んでいたので、井の頭公園で大学の友人達とやっている。2、3回はやっていると思う。同じ頃に、熊本でもお花見を経験している。当時熊本に住んでいた従姉一家を訪ねた折、熊本城の夜桜見物に連れて行ってもらった。良い思い出となっている。

 その従姉の別荘で、この日曜日(18日)、お花見があった。当時熊本に住んでいた従姉も今は沖縄在である。その別荘も沖縄。招待されたので、私ものこのこ出席する。
  花見といっても酒宴ではなく、茶席。従姉に師事を受けているという従姉の長男の嫁が茶を点ててくれた。習って間もないということで手元は覚束なかったが、すらっと背の高い美人である。その姿は見事。「結構なお点前」であった。
 花見といっても花は桜ではなく、梅。沖縄では珍しく、従姉の別荘の庭には梅が見事に咲いていた。平安の昔は、花と言えば梅であったらしい。なのでおそらく、花見の花も梅であっただろう。よって、梅の花の花見、古式床しきといって差し支え無かろう。
     

 「沖縄では珍しく」と書いた通り、沖縄で梅の木、梅の花はあまり見ない。街路樹や公園、民家の庭に桜(ほぼヒカンザクラ、ソメイヨシノはほとんど無い)は多く見るが、梅は民家の庭でまれに見る程度。よって、沖縄に梅の花を愛でる風習は無い。
 前述した通り、伝統的では無いのだが、桜の花を愛でる行事はある。名護の桜祭り、本部の桜祭りなどが有名である。那覇市の与儀公園でも桜祭りをやっている。沖縄の桜は緋寒桜という種類で、ソメイヨシノとは逆に寒い所から順に咲いていく。で、名護や本部の桜祭りは間もなく、与儀公園のそれは2月中旬となる。
 本部八重岳の桜を若い頃一度観に行ったことがある。倭国の花見とは違って、酒宴という雰囲気では無かった。与儀公園の桜祭りには行ったこと無いが、そこは普段から人の多い場所だ。交通の便も良い。そこでの花見は酒宴となっているかもしれない。

  従姉の別荘での梅の花見、梅の花はきれいで、微かに甘い匂いを漂わせて、気分的には酒を飲む条件は揃っていた。が、酒は出なかった。もっとも、車を持っていた私は、酒が出ても飲めなかったのであるが、ちょっと残念な気分であった。
 2月になると、近所の桜も咲きだす。私の部屋からは向かいの桜が見える。毎年きれいに咲いてくれて、私の目を楽しませてくれる。もちろん、その花を愛でながら、私は毎年一人花見をやっている。それは数日間続く。「一人で花見は淋しかろう」なんて気遣いは要らない。一人でも二人でも、花はきれいだし、酒はいつも旨い。
     

 記:ガジ丸 2009.1.21 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行


芋の時代再来

2011年01月07日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 かねてから考えていたことを、今年は実現に一歩近付ようと一年の計として決めた。一歩近付けるのである。実現は来年以降の話である。鬼が笑うが。
  先ず、計画を文書化し、スケジュールを立てる。そして、実現に必要な情報を集め、具体的な方法を考え、決定し、スケジュールに組み入れる。予算や時間に無理が無いと判れば、実行する。絵に描いた餅にはしないつもり。予算や時間に無理が無いという条件下では、やはり、実行は来年以降となりそうなのである。鬼が笑うが。

 芋を作る。塩の作り方を覚える。以上を最初の目標とする。芋があり、塩があれば少なくとも生きていける。その次に、水の確保(雨水などを溜める)、トイレを作り、小屋を建てる。衣食住の住とい うことである。これについては10年後の目標となる。

 『芋の時代(ンムヌジダイ)』という琉球民謡がある。古い唄だが、私は、2、3年前に民謡スナックで飲んでいた時に聴いて、初めて知った唄。その時に「良い唄だ」と気に入ったのだが、今、その曲や歌詞を思い出すことができない。その曲が収録されているCDも手元に無い。が、工工四(くんくんしぃ:琉球民謡の楽譜)はある。
 『芋の時代』は歌詞が5番まである。その5番を和訳の意訳をすると、

 三度三度の食事を芋と塩でお腹を満たし、生き延びてきた。
 それは親のお陰、その恩を忘れてはいけない。

となる。歌全体の大意も概ねそういうことになっている。

  昔の沖縄では、庶民の主食は芋であったらしい。戦中、戦後のしばらくもそうであったらしく、私の父は子供の頃ずっと芋ばっかし食わされたと聞いている。 
 私が子供の頃はもう、三度三度の食事は概ね白いご飯であったが、芋の食卓も稀にあった。芋を主食として、汁物がつき、おかずはスクガラス(小魚の塩辛)、またはスクドーフ(豆腐の上にスクガラスを乗っけたもの)などがあった。塩辛は塩分たっぷりである。『芋の時代』の歌詞にある「芋と塩でお腹を満たし」に近い食事であった。

  芋はデンプン質が多く、米などの穀物と同等の主食になる。さらに。ビタミン・ミネラル・食物繊維が豊富で、野菜の代わりにもなる。これ一つでご飯とおかずを兼ね備える優秀な食品なのだ。足りないのはタンパク質くらいらしい。タンパク質は豆腐に豊富。そうか、だから我が家の芋食卓にスクドーフが添えてあったわけだ。

 沖縄では芋の葉も食べる。芋の葉のことをカンダバー(蔓葉)と言い、カンダバージューシーは子供の頃何度も食べている。今回参考にした『甘藷の文化誌』には、カンダバーも含めて、芋の食べ方もいろいろと紹介されてあった。このHPでも既にウムクジソーミンを紹介しているが、芋のデンプンからは麺も作ることができる、などとわざわざ述べるまでも無い。芋のデンプンは春雨の原料にもなっている。
 なお、芋は単位面積当たりの供給熱量が米の約2倍あるらしい。つまり、1人が生きていくための量を、芋は米の半分の面積で供給できるということ。そういったことも含め、芋が不況の世の中を救う作物になるかも・・・といった話は後日、別項で。
     
     
     
     

 記:ガジ丸 2009.1.1 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『甘藷の文化誌』比嘉武吉著 比嘉菊発行