玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(4)

2015年07月02日 | ゴシック論

 マウリシオは母親に「何が好きなの?」と聞かれて、「そうだな……分かんない……散歩かな」と答えている。「自分にたいしてなんらかの権利をもっている人たち」つまりは家族や学校の仲間は「ぼくを凌辱」するが、散歩で出会う路上の人々はそんなことはしない。
 だからマウリシオはひたすらバルセロナの街を散歩する。それはマウリシオ自身によれば「視線と口笛を通して、ほんの少しでいいから人々の意識に触れたい」からなのである。彼は口笛を吹きながら散歩を続ける。
 マウリシオはむしろ「夜のガスパール」を通して、街ゆく人々と意識を共有したいのである。このような願望は孤独な少年の妄想と言ってもいいもので、そんなことができるはずはないのだが、心の内に刻まれたゴシック的本性を解放する場所は不特定多数の人々が行き交う街の中にしかない。
 しかし、マウリシオの意図は最初から危険な徴候を帯びている。最初に標的とされるのは乳母車を押す婦人である。〈オンディーヌ〉を口笛で吹きながら彼女に接近し、後ろをつけながらマウリシオは彼女を支配しようとする。〈オンディーヌ〉の旋律は「あなたは自由の身ではない、べつの力に支配されているのだと語りかけている」のである。
 呪文による他者の支配、それこそがマウリシオの企てていることであり、「夜のガスパール」はそのために動員される。婦人はあやうくマウリシオに支配されそうになるが、マウリシオの姿に気が付いて逃げ去ってしまう。マウリシオはさらに「誰かもぐりこむ相手はいないかと探しまわる」のである。
 結局「夜のガスパール」をもって、見知らぬ他者と意識を共有したいという企ては、ゴシック的心性をもって他者の心の中に"もぐりこみ"そのことによって他者を支配しようという危険な試みとならざるを得ない。
 永劫の罰の恐怖に怯えながら、世界中を旅し、苦悩を共有してくれる他者を捜し回る、マチューリンの放浪者メルモスを思い出して欲しい。メルモスもまた愛する対象を求めながら、その対象を支配することしかできはしないのである。
 だから「夜のガスパール」という作品はラヴェルの曲のゴシック性を帯びているだけでなく、ゴシック的な物語構造をももっている。それはホセ・ドノソの代表作においても見いだせる構造となるだろう。
 しかしここに書かれていること、マウリシオが「夜のガスパール」を口笛で吹くことによって他者を支配することを企て、それが成功しかかるということ、それ自体がマウリシオの妄想ではないのか? ドノソはそのことについて両義的に書くだろう。
 それはヘンリー・ジェイムズが『ねじの回転』で、幽霊の出現について両義的に書いた方法に近いのであって、20世紀の小説がゴシック小説に近づこうとしながらも、それが前提としていた超常現象の実在をもはや信じ得ないという事情によっているのに違いない。
 そのような両義的な書き方に先鞭をつけたのは間違いなくヘンリー・ジェイムズであって、ドノソはジェイムズの先例にならっているのである。