玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(6)

2015年07月04日 | ゴシック論

 ヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』では人間の心理というものが、物質的な媒介によらずして交換可能なものとして捉えられていた。
『聖なる泉』は吸血鬼小説とも位置づけられるのだが、あくまでそれは"血液"という物質的媒介による"吸血と失血"ではなく、心理的な媒介による"吸血と失血"を意味していた。
『聖なる泉』では人間の心理に対する"理論"が「私」によって打ち立てられるが、ほとんどそれはテレパシーやサイコキネシスのような物質を媒介としない超心理学のような様相を呈してくる。
 そのような超心理学がどこから生まれてくるのかと言えば、もちろんヘンリー・ジェイムズの人間の心理に対する全幅の信頼からなのである。あれほどに精緻きわまりない心理小説を書いたジェイムズにとって、心理はそれ自身で自立して存在する何かである。我々は人間の心理についての理論が超越的なものと化していく例を『ねじの回転』や『聖なる泉』にみることができるだろう。
 いっぽう、ホセ・ドノソはどうか? ドノソもまた人間の意識というものを物質的媒介なしに交換できるものとして描いている。だから「夜のガスパール」はテレパシーかサイコキネシスをテーマとする作品として読めるのである。「夜のガスパール」という曲が物質的媒介なしに、他者の意識に直接作用するということを前提としているのであるから。
 しかし、ドノソが人間の"意識"というものに全幅の信頼を置いていたとは思えない。マウリシオの妄想は、茶色の服の男から逃げ出すことでたやすく崩れてしまう。ドノソは「すべてが壊れはじめたからであった」と書くが、それはマウリシオという少年の脆弱さを示している。
 しかもそれだけではない。少年であるが故の脆弱さだけではなく、「夜のガスパール」という"夜のみだらな鳥"の啼き声が、マウリシオにとってあまりに重苦しいオブセッションであるということをも意味している。マウリシオは儀式に失敗した後で、次のように考える。
「人をひとり忘れるたびに(失敗した対象について忘れていくこと)、マウリシオは成長していったが、いつまでたっても成熟することはなかったし、自分に負わされている重荷がますます耐えがたいものになっていくように思われた。どこで、いつ、その重荷をおろせばいいのだろう?」
 他者の意識の中に入りこんで他者を支配しようとするマウリシオの儀式は、あまりに危険なものであって、ドノソは人の意識というものが物質的媒介なしに交換されるということを信じてはいない。そこが多分ヘンリー・ジェイムズとの大きな相違点なのであろう。