もうひとつの転換点は、チャドとヴィオネ夫人との密会の現場にストレザーが遭遇する場面である。その前にストレザーは、行き当たりばったりに汽車に乗り、ひとりでパリ郊外の田園風景に浸りに出掛ける。第二の使者セアラ・ポコック夫人達がスイスにヴァカンスに出掛けたので、ストレザーはひとり自由を満喫するのである。
この場面(第十部三)は『使者たち』の中でも特異な部分である。いつも緊張に満ちた一対一の心理的やりとりが続くこの小説の中で、ストレザーがひとりになるのはこの部分しかない。しかもこの小説が、ストレザーただひとりの視点から描かれているから、唯一独白に近い部分となっている。
ストレザーが絶えざる緊張から解放されるように、我々読者もまたここで緊張から解放されるのであって、だからこそこの場面は、フランスの田園風景のように爽やかで美しいものとなっている。
ストレザーは喧噪を離れて、ゆったりと落ち着き、これまで自分がやってきたことに間違いはなかったこと、これからの計画にも間違いはないだろうことを確信し、自信に満ちあふれた時間を過ごす。ストレザーはヴィオネ夫人との二回にわたる面談の思い出に浸り、甘美な思いをめぐらせる。
しかし、それはもう一つの大きな転換点の静かな前触れにすぎないのだ。ストレザーは河からボートで上がってくる二人連れ、チャドとヴィオネ夫人に偶然出会うのである。心理小説にあってはこのような絵に描いたような偶然は結構多用されるのだが、ヘンリー・ジェイムズはこの場面でしか偶然に頼っていない。ここはストレザーの自信を打ち砕くために用意された偶然であり、許容の範囲にあると言えるだろう。
チャドとヴィオネ夫人はストレザーに対し、日帰りでやってきたように装うが、少なくとも前日から二人で宿に泊まっていたことは歴然としている。二人の間には肉体関係があったのである。
なぜそんなことにストレザーが拘るかと言えば、彼がチャドの友人ビラムの「ふたりの愛情は清らかなものだ」という断言を信じていたから、あるいは信じようとしていたからなのである。ビラムの言葉こそストレザーが二人の関係の"汚れのなさ"を疑わない根拠となっていたのだし、ヨーロッパ的な精神的価値観への覚醒の根拠でもあったのである。しかしその信念が揺らぐとき、ストレザーとヴィオネ夫人との関係も、ストレザーとチャドとの関係も決定的に変化することになる。もちろんヨーロッパそのものとの関係も。
ストレザーのヴィオネ夫人に対する憧憬は変わらないかも知れないが、ストレザーはこのときからヴィオネ夫人にとって"他人"となる。この辺りの微妙ではあるが、決定的な関係の変化をヘンリー・ジェイムズはいかにも彼らしく、わざとのように解りにくく書くだろう。ジェイムズの真骨頂と言わなければならない。