玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(8)

2015年07月19日 | ゴシック論

 以上のようにストーリーを追って書いていくと、自分の書いていることが単なる解説の域を出ず(解説にもなっていないが)、批評になり得ていないことを実感せざるを得ない。
 本当はヘンリー・ジェイムズの心理小説の核心についてだけ書いていきたいところだが、それだけでは『使者たち』がどういう小説なのか分からないだろう。やむを得ず、もう少し続けることにしよう。
 ストレザーはこうして、アメリカ的価値観からもヨーロッパ的価値観からも疎外されてしまうが、彼はゴストリー嬢に対して自分の位置を明確に示している。次のようにストレザーは言う。
「ぼくという男はぼくをとりかこむ世界と調和していないんです」
と。ゴストリー嬢はストレザーを自分のもとに引き留めようとするが、ストレザーは別れを告げる。ストレザーの科白……。
「やはりぼくは帰らなければなりません。正しくあるために」
「こんどのことで、ぼくは何ひとつ自分の手に入れてはいけないのです」
 これこそがゴストリー嬢に対する別れの言葉となるだろう。あるいはヴィオネ夫人に対する、そしてチャドに対する、さらにはアメリカ的価値観を代表するニューサム夫人に対する別れの言葉となるだろう。
『鳩の翼』の主人公マートン・デンシャーが最後にすべてを捨て去ってしまうように、ストレザーもすべてを捨て去ってしまう。ストレザーは「世界と調和していない」人間である。そのような世界のどのような部分に対しても帰属意識を持たない(持てない)人間は、何ものをも手に入れてはならない、という禁欲主義がストレザーの主張するところであり、ヘンリー・ジェイムズの考えそのものであるだろう。
 そしてストレザーの言葉を真に理解するのはゴストリー嬢ただひとりであり、彼女だけがストレザーの理解者なのである。こうして『使者たち』は深く静かなペシミズムのうちに幕を閉じる。
 言い残したことがたくさんある。ジェイムズの小説の方法として"視点"a point of viewというものがある。視点を登場人物のひとりに絞って書くという方法である。『使者たち』も『聖なる泉』も『ねじの回転』も、たったひとつの視点から書かれている。
 これは小説というものが現実に立脚するならば、神のような万能の視点からは書かれ得ない、という極めて現代的な主張によっている。人間がそれぞれひとつの視点しか持っていないとすれば、小説もまたそのように書かれなければならないというのがヘンリー・ジェイムズの考え方である。
 だから、分からない部分は分からないままに書かれるので、「分カルコトヲ分リニクキ言論デカク」とさえ言われてしまうのだが、漱石のこの言葉は完全な誤解である。個としての我々がすべてを理解し得ず、分かることに限界があるとすれば、ジェイムズはそうした視点からこそ書いているのだから、ジェイムズの書き方の方が"現実的"なのである。
しかし、そのような議論はジェイムズの最後の長編作品『金色の盃』を読む時まで保留しておくことにしよう。

(この項おわり)