漱石が「此人ノ文ハ分カルコトヲ分リニクキ言論デカクノヲ目的ニスルナリ」と嘆いた理由もそこあるだろうが、当時の読者層には忍耐力というものがあった。現在の読者にそれを求めるのは酷というものだろう。
さらにジェイムズの小説は「心理小説」と呼ばれるものであって、心理小説自体それほど読みやすいものではない。本家フランスの心理小説の数々も決して読みやすくはない。しかしフランスの心理小説はスタンダールの『赤と黒』を除いて、ほとんどが短い作品である。
ラファイエット婦人の『クレーヴの奥方』も、パンジャマン・コンスタンの『アドルフ』も、それらの伝統の上に書かれたレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』そして『ドルジェル伯の舞踏会』も短い作品である。人間の心理を中心に据えて分析的に書くということは、決してたやすいことではないし、息が続かないから長く書くことができないのである。
だから心理小説の古典的名作は、どれも小さく結晶した美しい珠のように短いものとなっている。だから本家フランスにおいても心理小説が主流になるようなことは決してなかったし、これからもないであろう。
ところがヘンリー・ジェイムズは、本家フランスの心理小説よりももっと徹底的に突き詰めた心理小説を書いた。しかも長大なそれを21本も(すべてが心理小説というわけではないだろうが)書いた。特に晩年の三大傑作といわれる『使者たち』『鳩の翼』『金色の盃』は、究極の心理小説と言えるもので、しかもそれぞれが大変に長いのである。
私は確保した六冊のうちまだ『鳩の翼』を征服したに過ぎない。他の五冊が早く読んでくれと私に催促するのである。次は何を(?)と迷っていたのだが、『使者たち』にすることに決めた。それが後期三部作の『鳩の翼』に告ぐ第二作目の作品であることと、そして『金色の盃』よりは若干短い(『金色の盃』は文庫上下で1050頁もある)ことが理由である。
では『使者たち』を読むことにしよう。簡単に(しかも下世話に)言えば、アメリカの大工場主のどら息子が、パリでたちの悪い女にひっかかって帰ってこないため、連れ戻しに"使者"として(原題はThe Ambassadorsつまりは大使たち)派遣された主人公ストレザーが、どら息子の変貌ぶりと"いかがわしい"と思われていた女の素晴らしさに参ってしまい、ミイラ取りがミイラになるというお話である。
読み始めてすぐにこれは『鳩の翼』と同様、私には非常に読みやすい小説だと思った。このような作品を読むには向き不向きもあるだろうし、コツもある。なぜ私にとって『使者たち』は読みやすい作品なのだろうか? そんなことを考えながら、しばらく『使者たち』に付き合ってみようと思う。
ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(1968、講談社「世界文学全集」第26巻)青木次生訳(この講談社版「世界文学全集」は『鳩の翼』を含むそれとは別のシリーズ)