マウリシオは重荷をおろさなければならない。ある夜、誰かが自分と一緒に歩きながら、彼の吹く〈スカルボ〉を真似て口笛を吹いているのに気づく。その誰かにマウリシオは正確な吹き方を教えていく。
それは公園に暮らす浮浪者の少年であり、マウリシオにうり二つなのであった。マウリシオはその少年に「夜のガスパール」を教え込み、着ている物を交換して完全に入れ替わるのである。
浮浪者の少年は「夜のガスパール」を覚え込み、マウリシオよりは従順なシルビアの息子として生きていくことになるだろう。そしてマウリシオは「夜のガスパール」を口笛で吹くことも忘れ、オブセッションから自由になることができるだろう。
「あちらへはまだ行ったことがないし、ぼくを知っている人もいないはずだ。そのまま歩き続けて、むこうへ、ほかのもののほうへ向かっていこう」
という小説のラストはマウリシオの新しい生き方を暗示している。 しかし、こうしたゴシック的心性からの卒業は、ある意味では"逃亡"と言うに等しく、小説の終わり方としてやや疑問は残る。ただし、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』におけるマイルズ少年の死というような終わり方を選択するには、この『三つのブルジョワ物語』という三部作は充分にシリアスな作品ではない(他の二編はほとんどファルスと言ってもいいような作品である)。
ところで、ホセ・ドノソが小説の中に子供を登場させ、子供を大人社会のもっている規範から逸脱させ、抵抗の拠点としていくやり方は、明らかにヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』の影響とみなすことができる。
『ねじの回転』は、本当に子供達が幽霊の支配下にあって、邪悪な存在と化しているのか、それともそれが女家庭教師の妄想に過ぎないのか、どちらとも取れるように書かれているが、いずれにせよ子供達(フローラとマイルズ)が小説の中核を占めていることに違いはない。
ドノソの「夜のガスパール」のマウリシオも、この作品の中核を占めているわけで、そのことは重要な事実である。ドノソは後に『別荘』という長編で、このようなテーマを徹底的に追究することになるだろう。『別荘』では小説の中核を占める子供達は33人に拡大されるが、彼らはマウリシオのように身代わりを見つけて逃亡するようなことはしない。子供達は大人達に対して徹底して闘って、破局を向かえることになる。
『別荘』についてもいずれ取り上げることにしたい。
(この項おわり)