玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(6)

2015年10月01日 | ゴシック論

 カステル総督はどんな作業を行っていたのか? 悪魔島における破局の後に、カステルは書面でヌヴェールにすべてを明らかにする。カステルは「刑務所の壁を自由の沃野にする」実験を試みていたのである。囚人達の"解放"のために。
 ヌヴェールとドレフュースは悪魔島で、二人の囚人の不可解な死に立ち会い、カステル自身の不思議な行動に出くわし、そして〈神父〉と呼ばれる囚人の恐怖に満ちた叫びを聴くことになるが、それらの謎もカステル総督の書面によって解明される。
 カステル総督は次のようにヌヴェールに書き残している。そこにはカステルの人間の感覚や認識に対する思想が示されている。
「われわれの世界は感覚が生み出す統合体であり、顕微鏡はまたべつのものを生む。感覚が変化すれば、イメージも変化するだろう。われわれはあらゆるものを表現しうる象徴の総体として世界を記述することができる。われわれの感覚の配列を変えるだけで、あの自然界のアルファベットによるべつの言葉を読むことができるだろう」
 つまり、世界は我々の感覚によって構成されているのであるから、我々の感覚を変えてやれば我々にとっての世界も変化する。それは人間と犬や蝶、魚や鳥の棲む世界がまったく違っていることからも明白なことである。
 だからカステル総督は人間の脳にメスを入れることによって感覚を変化させる、つまり「苦痛を快楽に、刑務所の壁を自由の沃野に、変えることが出来る錬金術」を彼は手に入れようとするのである。
 カステルもまた、モロー博士のようなマッド・サイエンティストであるのだろうが、モロー博士のような邪悪な意志を持ってそうするのではなく、囚人に対する愛情を持ってそうするのである。「脱獄計画」というタイトルはだから、牢獄からの脱出ではなく、感覚の改変によって牢獄に居ながらにして、そこに自由な世界を現出させようという計画を意味している。
 ところでビオイ=カサ-レスは、こうしたカステルの思想を補強するために、さまざまな文学作品を引用している。ウィリアム・ブレイクの「空を渡る鳥が悦楽の広大な世界でないと五感に閉じこめられたお前に、なぜ分かるのだ?」という一節や、ランボーの「Aは黒、Eは白、Iは赤」という音と色彩との照応を歌った「母音」というソネットの一部が効果的に使われている。
 またここでは、ボードレールの「万物照応」Correspondancesという作品の基調が支配的である。ボードレールは言葉の世界における五感の共鳴と、知性と感覚の交感を予定調和的に歌ったのだったが、ビオイ=カサーレスはそれを肉体の世界に翻案しようとしているのである。
 ちなみにCorrespondancesを原文で掲げておく。

  La Nature est un temple où de vivants piliers
  Laissent parfois sortir de confuses paroles;
  L'homme y passe à travers des forêts de symboles
  Qui l'observent avec des regards familiers.

  Comme de longs échos qui de loin se confondent
  Dans une ténébreuse et profonde unité,
  Vaste comme la nuit et comme la clarté,
  Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.

  II est des parfums frais comme des chairs d'enfants,
  Doux comme les hautbois, verts comme les prairies,
  — Et d'autres, corrompus, riches et triomphants,

  Ayant l'expansion des choses infinies,
  Comme l'ambre, le musc, le benjoin et l'encens,
  Qui chantent les transports de l'esprit et des sens.