玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『境界なき土地』(3)

2015年10月20日 | ゴシック論

 ホセ・ドノソはこの『境界なき土地』について、次のように自己解説を行っている。
「そこに描き出された世界では、あらゆる生物が歪み、普通とされる次元を失っていきます。すべてがほとんど判別不可能な実体となり、道徳的、性的、感情的に正常とされるものの規範が意味を失って、バラバラと崩れ落ちていきます」
 まるで『夜のみだらな鳥』について言っているような文章であるが、『境界なき土地』自体が『夜のみだらな鳥』の中の一挿話から派生してできた小説なのだから、当然といえば当然だろう。
 この小説中、一人称で語るのはカマ親父ことマヌエラであり、その妻であるハポネサであり、ひそかにマヌエラを愛しているパンチョ・ベガである。土地の実力者ドン・アレハンドロや娘のハポネシータが一人称で語ることはない。
 このことはドノソが語りの主体を、性的倒錯者に限定していることを意味している。妻のハポネサは小説の現在においてはすでに死んでいるのだが、マヌエラの回想の中に登場して一人称で語り始める場面がある。
ハポネサとマヌエラの出会いの場面である。マヌエラと寝ることが出来たら店をくれてやるというドン・アレハンドロの賭けに応えて、ハポネサがマヌエラをベッドに誘う場面は、女と男ではない男との情交を描いて極めて美しい。勿論店をもらえるという打算はあるが、ハポネサはマヌエラを愛し始めるのである。男ではない男を愛する女は性的倒錯者に他ならない。
 またパンチョ・ベガはアウトローであると同時に、女であるハポネシータではなく、女ではない女マヌエラを愛する性的倒錯者である。そしてマヌエラがそうであることは言うまでもないことだ。
 つまりドノソは性的異常者の視点からこの小説を書いているのであって、それは性的異常者に対する共感の表れに他ならない。ハポネサとマヌエラの情交の場面はこの作家には珍しいほどに情感に溢れているし、最後にマヌエラがパンチョ・ベガの暴行を受け、ドン・アレハンドロの犬達に喰い殺されるであろうことを予感させる部分にも実感が込められている。
 パンチョ・ベガはマヌエラに嫌われているし、彼に暴行を加えるのだが、それもマヌエラに対する愛情を悟られたくないという行き違いによるものであり、ドン・アレハンドロに対する強い反抗心によって、一人称で語ることを許されているのである。
 だから、ドン・アレハンドロがいかにハポネサやマヌエラの尊敬を集めていようが、表面的には善良な姿勢を見せようが、「意味を失った正常とされるものの規範」であるに過ぎない。ドン・アレハンドロの四匹の犬は彼の凶暴性の象徴なのである。
 ドン・アレハンドロのような偽善的な成功者を、ドノソの友人、メキシコのカルロス・フェンテスは、その『アルテミオ・クルスの死』で描いている。フェンテスはアルテミオ・クルスの裏切りと不正に満ちた人生を、クルス自身の視点からも描いているが、ホセ・ドノソは間違ってもそんなことはしないだろう。
ドノソは「正常とされるものの規範」を持たない、あるいは持つことの出来ない作家であった。それは代表作『夜のみだらな鳥』と『別荘』を読めばよく分かることである。
(この項おわり)

カルロス・フェンテス『アルテミオ・クルスの死』(1985,新潮社)木村榮一訳

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