久しぶりにホセ・ドノソの『境界なき土地』を読み返した。短い作品なので『夜のみだらな鳥』のような超弩級の重量感はないが、傑作であることは間違いない。今回の読後感は一言で言えば「しみじみと感動した」というところだろうか。
「境界なき土地」とはなにか? それはエピグラフにはっきりと示されている。ドノソの小説ではエピグラフがかなり重要な意味を持っているので、そっくり引用しておく。
ファウスト まずは地獄についてお聞かせ願おう。
人間たちが地獄と呼ぶ場所はどこにあるのだ?
メフィストフェレス 空の下だ。
ファウスト それはそうだろうが、場所はどこなのだ?
メフィストフェレス 様々な要素の内側だ。
我らが拷問を受けながら永久にとどまる場所。
地獄に境界はないし、一カ所とはかぎらない。
地獄とは今我らが立つこの場所であり、
この地獄の地に、我らは永久に住み続けることになるのだ。
マーロウ『ファウスト博士』
マーロウとは、イギリスエリザベス朝時代の劇作家クリストファー・マーロウのこと。『ファウスト博士』は、日本では英語読みで『フォースタス博士』として知られる戯曲である。
「境界なき土地」とは「地獄」のことなのであり、地獄とは我々が生きている現世そのものだとメフィストフェレスは言うのである。またそれが空間的な場所に止まらないことは、それが「様々な要素の内側」にある、という言葉によって明らかである。
このエピグラフは『夜のみだらな鳥』に掲げられた、父ヘンリー・ジェイムズの息子たちへの手紙の一節とほとんど同じ思想を語っている。前にも取り上げたが、こちらももう一度引用する。
「分別のつく十代に達した者ならば誰でも疑い始める。人生は道化芝居ではない。お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者の根が達している本質的な空乏という、いとも深い悲劇の地の底から花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が生得受け継いでいる貨財は、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ」
父ヘンリー・ジェイムズの言う「狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」そのものである人生と、マーロウの言う"地獄=境界なき土地"は通底しているし、父ヘンリー・ジェイムズが定義するところの"人生=それを生きる者の根が達している本質的な空乏という、いとも深い悲劇の地の底"こそが地獄だと言ってもよい。
これら二つのエピグラフはホセ・ドノソ自身の世界観を代弁するものであり、『境界なき土地』も『夜のみだらな鳥』もこのような世界観をもって書かれているのだということを、しっかりと認識しておく必要がある。
『境界なき土地』は1966年に発行されていて、1970年の『夜のみだらな鳥』に先行しているが、『夜のみだらな鳥』を書きあぐねていたドノソが、「原稿用紙の裏に書いた」と言われている作品で、『夜のみだらな鳥』執筆中に書かれた作品なのである。
ホセ・ドノソ『境界なき土地』(2013,水声社)寺尾隆吉訳