玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(1)

2015年10月27日 | ゴシック論

 ゴシック小説を愛したラテン・アメリカの作家といえば、メキシコのカルロス・フエンテスを挙げないわけにはいかない。フエンテスの長編は『澄みわたる大地』『アルテミオ・クルスの死』『脱皮』『老いぼれグリンゴ』の四作が翻訳されている。
 私は『脱皮』と『アルテミオ・クルスの死』『澄みわたる大地』の三作を読んだが、この人の小説はほとんど意味不明なものが多く、中編の『聖域』を読んだあと、ずっと足踏み状態だった。何が書いてあるのか分からないのである。
『脱皮』も難解で、とりとめのない作品だが、それがゴシック小説の影響のもとに書かれていることくらいは分かった。しかし、よりゴシック的なのは彼の短編作品の方である。短編集『アウラ・純な魂』はゴシック小説の影響と言うよりも、ゴシック小説そのものと言ってもよい。一編ずつ読んでいくことにしよう。
 最初の「チャック・モール」は古い神像にとり殺される男の話で、ストーリーも完全なゴシック仕様となっている。このような話はゴシック小説の専売のようなもので、似たような話はいくらでも探すことが出来る。
 フエンテスというと父親が外交官だったために、南米の主要都市を転々とし、アメリカにも長く住んだことから、メキシコ人としてのアイデンティティーを追い求めた作家と言われることも多く、訳者の木村榮一も同じような視点から「チャック・モール」について書いている。
「相互理解、それも対立する文化の相互理解というのは、民芸品や骨董品、古代の遺物をおっとり優雅に鑑賞するといった類のものではない。相手の文化を認めることが、時には自らがよって立っている文化的基盤を失うことになりかねないのである。その意味では、異文化間の相互理解というのは、人を死ぬか生きるかのぎりぎりの瀬戸際まで追いつめることもある」
 以上のように木村は書いているのだが、このメキシコ古代の雨の神の像が、フィリベルトの生活に介入していって、彼を自殺に追い込んでいくという物語を、こんなにきまじめに読む必要があるのだろうか。
 私としてはこの作品を典型的なゴシック小説として読まざるを得ないし、古代の神像が甦って登場人物を呪い殺すというようなゴシック的結構は、掃いて捨てるほどあるのだから、むしろフエンテスがそこに何を付け加えたかを見た方がいいのではないか。
 チャック・モールはフィリベルトと一緒に生活しながら、次第に現代人の生活に魅力を感じていく。フィリベルトは次のように語る。
「ワインの貯蔵庫から酒がどんどん消えてゆくし、絹のガウンを愛撫するようになった。また、女中を雇うようにうるさく言い、石けんやローションの塗り方を教えてくれと言ったりする。たぶん、チャック・モールは人間的な誘惑に負けそうになっているのだ」
 最後に語り手の私の前に姿を見せるチャック・モールは、ガウンを羽織り、マフラーをし、ローションを塗り、おしろいをはたき、口紅をつけているのである。
 古代神が人間の誘惑に抗しきれずに、現代人の生活スタイルを真似ていくというユーモアをこそそこに読み取るべきだろう。とにかく「チャック・モール」はフエンテスのゴシック小説に対するオマージュであるのだし、フエンテスはそこに奇抜なユーモアを付け加えたのである。
 雨の神によって部屋中が水浸しになったり、水道料金が払えなくなって止められてしまうというような場面に、それほど深刻な問題を読み取る必要はないのではないか。

チャック・モール像

 

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(1995、岩波文庫)木村榮一訳

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセ・ドノソ『この日曜日』(4)

2015年10月27日 | ゴシック論

『この日曜日』についてこれ以上書くことはしないでおくが、この「筑摩世界文学大系83」に鼓直が書いている「ラテン・アメリカの現代文学」という解説が素晴らしいので最後に触れておきたい。
 鼓の解説は1976年に書かれたわけだが、すでに世界的にはラテン・アメリカ文学のブームが終わりを告げていた年代であり、まだ日本ではアルゼンチンのボルヘスの主要作品が翻訳紹介されたにすぎない年代であった。
 それほどに日本のラテン・アメリカ文学の紹介が遅れていたことが分かる。当時の日本ではフランス文学が世界文学の中心の地位を占めていて、フランスのヌーボーロマンのたぐいは多く紹介されていたのに、スペイン語圏の文学に目を向ける人はほとんどいなかった。
 このことは当時の日本人がラテン・アメリカ文学のブームをリアルタイムで体験できなかったことを意味していて、私を含めて大変不幸なことであったと言わなければならない。ヌーボーロマンこそが世界文学の最先端であるというような迷信が長く続いたのだから。
 鼓直が「ボルヘス即ラテン・アメリカ文学と観ずる者がいるのではないかという危惧を抱かされるくらいだ」と、当時の状況を憂慮しているのも無理はない。日本人がほとんどラテン・アメリカ文学について知らない年代に、鼓はこの解説を書いているのだ。
 鼓は1920~30年代の「メキシコ革命小説」に代表される政治主義的な小説から書き始め、1940~50年代のアドルフォ・ビオイ=カサーレス(アルゼンチン)、アレホ・カルペンティエール(キューバ)、ミゲル・アンヘル・アストウリアス(グアテマラ)、カルロス・オネッティ(ウルグアイ)など、「内的独白や意識の流れ、多面的な視点や自由な空間的、時間的な移動などの多彩な前衛的手法を駆使しながら(中略)個人および集団の内面的な意識の深層を作品に定着させる」作家達へと筆を進めていく。
 60年代には、これら先行する作家達にフリオ・コルターサル(アルゼンチン)、ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア)、カルロス・フエンテス(メキシコ)、マリオ・バルガス=リョサ(ペルー)、そしてホセ・ドノソ(チリ)などの若い作家達が加わって、ラテン・アメリカ文学の世界は沸騰状態を呈していく。
 鼓直は多くの作家達を主に、もっぱら言語的実験を追求したグループと、そうではなく「飽くまでも物語性を保持しながら、あるいはリアリズムの骨格を強く残しながら、すでに現代文学の共通の資産となった前衛的な技法を自在に駆使して、重層的な世界を築き上げている」作家達のグループに分けている。
 おそらく前者はボルヘスの影響を強く受けた作家達なのであろう。鼓はコルターサル、ギリェルモ・カブレラ=インファンテ(キューバ)、レイナルド・アレナス(キューバ)、マヌエル・プイグ(アルゼンチン)などを挙げている。
 一方後者についてはマルケス、リョサ、フエンテス、ドノソなどを挙げているが、鼓がこちらのグループの方を評価しているのは明白である。後に"魔術的リアリズム"といわれるラテン・アメリカ文学特有の方法を確立したのは後者のグループなのだから。
 この40年前に描かれた解説は、今日でも通用する内容となっている。ほとんどラテン・アメリカ文学が知られていなかった当時の日本で、これだけ全体を見通した解説を書いたことに対して、鼓に敬意を表したいと思う。
(この項おわり)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする