ゴシック小説を愛したラテン・アメリカの作家といえば、メキシコのカルロス・フエンテスを挙げないわけにはいかない。フエンテスの長編は『澄みわたる大地』『アルテミオ・クルスの死』『脱皮』『老いぼれグリンゴ』の四作が翻訳されている。
私は『脱皮』と『アルテミオ・クルスの死』『澄みわたる大地』の三作を読んだが、この人の小説はほとんど意味不明なものが多く、中編の『聖域』を読んだあと、ずっと足踏み状態だった。何が書いてあるのか分からないのである。
『脱皮』も難解で、とりとめのない作品だが、それがゴシック小説の影響のもとに書かれていることくらいは分かった。しかし、よりゴシック的なのは彼の短編作品の方である。短編集『アウラ・純な魂』はゴシック小説の影響と言うよりも、ゴシック小説そのものと言ってもよい。一編ずつ読んでいくことにしよう。
最初の「チャック・モール」は古い神像にとり殺される男の話で、ストーリーも完全なゴシック仕様となっている。このような話はゴシック小説の専売のようなもので、似たような話はいくらでも探すことが出来る。
フエンテスというと父親が外交官だったために、南米の主要都市を転々とし、アメリカにも長く住んだことから、メキシコ人としてのアイデンティティーを追い求めた作家と言われることも多く、訳者の木村榮一も同じような視点から「チャック・モール」について書いている。
「相互理解、それも対立する文化の相互理解というのは、民芸品や骨董品、古代の遺物をおっとり優雅に鑑賞するといった類のものではない。相手の文化を認めることが、時には自らがよって立っている文化的基盤を失うことになりかねないのである。その意味では、異文化間の相互理解というのは、人を死ぬか生きるかのぎりぎりの瀬戸際まで追いつめることもある」
以上のように木村は書いているのだが、このメキシコ古代の雨の神の像が、フィリベルトの生活に介入していって、彼を自殺に追い込んでいくという物語を、こんなにきまじめに読む必要があるのだろうか。
私としてはこの作品を典型的なゴシック小説として読まざるを得ないし、古代の神像が甦って登場人物を呪い殺すというようなゴシック的結構は、掃いて捨てるほどあるのだから、むしろフエンテスがそこに何を付け加えたかを見た方がいいのではないか。
チャック・モールはフィリベルトと一緒に生活しながら、次第に現代人の生活に魅力を感じていく。フィリベルトは次のように語る。
「ワインの貯蔵庫から酒がどんどん消えてゆくし、絹のガウンを愛撫するようになった。また、女中を雇うようにうるさく言い、石けんやローションの塗り方を教えてくれと言ったりする。たぶん、チャック・モールは人間的な誘惑に負けそうになっているのだ」
最後に語り手の私の前に姿を見せるチャック・モールは、ガウンを羽織り、マフラーをし、ローションを塗り、おしろいをはたき、口紅をつけているのである。
古代神が人間の誘惑に抗しきれずに、現代人の生活スタイルを真似ていくというユーモアをこそそこに読み取るべきだろう。とにかく「チャック・モール」はフエンテスのゴシック小説に対するオマージュであるのだし、フエンテスはそこに奇抜なユーモアを付け加えたのである。
雨の神によって部屋中が水浸しになったり、水道料金が払えなくなって止められてしまうというような場面に、それほど深刻な問題を読み取る必要はないのではないか。
チャック・モール像
カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(1995、岩波文庫)木村榮一訳