玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『ロリア侯爵夫人の失踪』(3)

2015年10月12日 | ゴシック論

 この犬に関しては、ドノソのもうひとつの周辺的な作品で、変態小説とも言うべき『境界なき土地』でも大きな役割を果たしているというから、近いうちに読み返して確認しておかなければならない。
 ところで寺尾隆吉の後書きによれば、執筆開始直前の日記にドノソは次のように書いているという。
「短く、手軽で今風、そしてありきたりな小説。これが今風だろうか?(プイグや、最近のバルガス・ジョサ)抜群だ。ヘンリー・ジェイムズ的趣もある。早く仕上げてしまおう」
この文章の前段には、マヌエル・プイグやバルガス・リョサ(寺尾はジョサと表記しているが、リョサの方が馴染みが深いので)に対する対抗意識が感じられるが、「これが今風だろうか?」の疑問文には、自分がこれから書く小説が"今風"になるのかどうかという迷いが感じ取れる。
 確かにリョサの『フリアとシナリオライター』は、ペルーの首都リマを舞台にした自伝的な青春小説であり、リョサの他の作品と大いに違った"今風"な雰囲気を持っている。
 一方『ロリア侯爵夫人の失踪』は1920年代のマドリッドを舞台とした作品で、タイトルからして分かるように"古風"な趣の作品である。多くの官能小説が、古風な道徳意識の裏に隠された放埒な欲望によって裏打ちされているように、『ロリア侯爵夫人の失踪』もその点で例外ではない。
 しかし、私がもっと注目したいのは、「ヘンリー・ジェイムズ的趣もある」という部分である。ドノソがアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズの作品を愛し、この作家をつねに意識していたことはよく知られているが、ではこの「官能小説」にどのような「ヘンリー・ジェイムズ的趣」があるというのだろう。
 もちろんヘンリー・ジェイムズは「官能小説」などを書かなかったし、官能描写などに「ヘンリー・ジェイムズ的趣」があるなどということはあり得ない。では、どこに?
 私はまず、この小説の冒頭部分に注目したい。アリアス・ブランカは次のように紹介されている。
「両親の出発後(両親はブランカを置いてニカラグアに帰るのである)、しばらく経つと純真な愛情も他へ移り、すでに故国の味わい深い話し方ばかりか、新大陸の女にありがちな自由の精神も忘れて、いっぱしのヨーロッパ淑女になっていた彼女は、自らの新たな身分にふさわしい偏見や儀礼、言葉遣いで優雅なマントを作り上げて身に纏うようになった」
「新大陸の女にありがちな自由の精神」を持った女というのであれば、我々はヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』を思い出すことが出来る。『デイジー・ミラー』は新大陸アメリカからヨーロッパにやって来た、自由奔放な娘デイジー・ミラーがローマで引き起こす旧世界との衝突と、彼女の破局を描いた作品である。
 北米と中米の違いはあれ、ブランカも「新大陸の女」であり、最初は「ヨーロッパ淑女」として振る舞うことを覚えても、未亡人となったあとは「自由の精神」を発揮して、奔放な性的遍歴を重ねるのであり、その結果破局が訪れるのは『デイジー・ミラー』と共通している。
『ロリア侯爵夫人の失踪』は『デイジー・ミラー』の官能小説版なのである。ヘンリー・ジェイムズは多くの小説で、新大陸の人間と旧大陸の人間の精神的葛藤を描き続けたが、それは彼自身が新大陸的価値観にも旧大陸的価値観にも帰属することが出来なかったという事実を背景としている。
 ホセ・ドノソはチリに生まれながらも、長くスペインで暮らした作家であり、ヘンリー・ジェイムズと同様の意識を持っていたことは疑いを入れないところであろう。さらにはドノソが通常の性意識に帰属することが出来ない人間であったことも大きな問題として指摘しなければならない。
 しかし、こうしたテーマを扱うには『ロリア侯爵夫人の失踪』は短すぎる作品である。

(この項おわり)

 

 

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