玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」第72号刊行

2015年10月10日 | 玄文社

 

 玄文社では10日、「北方文学」第72号を刊行しました。
 今号も268頁の大冊となりました。全国の同人誌がその高齢化と同人減少に悩んでいる中、誠に希有な現象と言うことが出来るでしょう。ただし、今号には小説がありません。評論を中心とした構成はこのところ一段と強まっていて、それは「北方文学」を永続させている要因であると同時に、「北方文学」の欠陥でもあると認識はしています。何とかしなければいけませんが、むずかしい課題です。
 巻頭は大橋土百の「鬼胡桃」です。彼が東日本大震災以降続けてきた日々の思索を俳句の形にまとめたものですが、俳句という形式におさまりきらないのは、その思索が一定の形式を拒絶するからなのでしょう。ある意味で俳句と現代詩との親和性の高さを証明しているとも言えます。
 館路子は「今、夕景に入ってゆく」をいつものような長詩にまとめています。今回の作品では夕景に舞う蝙蝠を、読点や四分休止符に見立てるという離れ業を演じています。それだけでも凄い。
 評論の最初は昨年度の日本翻訳特別賞を受賞した、大井邦雄の「優秀な劇作家から偉大な劇作家へ」です。ハーリー・グランヴィル=バーカーが1925年に英国学術院で行った講演の一部、「これぞこの人という輝きの瞬間はどのように現われ出るか」と「『ハムレットの方へ』」「『オセロー』の方へ」を、膨大な注をつけて訳述したものです。
 徳間佳信の「私説 中国新時期文学史(1)」は昨年まで「越後タイムス」に連載していたもので、日本で初めて書かれる中国現代文学の通史と言ってよいかと思います。政治状況との関連の中で読み解かれていく、中国現代作家の作品への分析はスリリングで、刺激的です。
 板坂剛はこのところ三島由紀夫の作品を通して天皇制への批判を行うといった、アンビヴァレンツな仕事に精力を傾けています。今回の「三島由紀夫は、何故昭和天皇を殺さなかったのか?」もその一環です。その背景には板坂の現在の政治状況に対する根本的な呪詛があるようです。
 鎌田陵人の「沈黙のK」は夏目漱石の『こころ』を、ジャック・デリダとキルケゴールを援用して論じたものです。
 霜田文子の「立原道造の"内在化された「廃墟」"をめぐって(1)」は、日本で初めて"廃墟"について論じた、立原道造の卒業論文をめぐっての論考です。立原の理論と日本浪曼派との関係に迫る意図で書き始められました。
 私の「エドマンド・バークの美学とゴシック小説」は、このブログに連載した「エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』」に手を入れたものです。バークの美学の先鋭的な部分とその限界について論じています。
  なお表紙・カットはいつものように佐藤伸夫さん。佐藤さんは今年の柏崎市美術展覧会で、洋画部門の市展賞に輝きました。

 以下に目次を掲げさせて頂きます。

鬼胡桃◆大橋土百
今、夕景に入ってゆく◆館 路子
日々の装い◆鈴木良一
優秀な劇作家から偉大な劇作家へ――シェイクスピアの一大転換点のありかはどこか――◆ハーリー・グランヴィル=バーカー 大井邦雄訳述
三島由紀夫は、何故昭和天皇を殺さなかったのか?◆板坂 剛
沈黙のK◆鎌田陵人
立原道造の内在化された「廃墟」をめぐって(1)◆霜田文子
エドマンド・バークの美学とゴシック小説◆柴野毅実
『ハムレット』舞台の彼方と幕の向こう側〈2〉――シンメトリー構成からTo be, or not to be, that is the question.を解く◆五十川峰夫
旧満州中国東北部の旅◆高橋 実
私説 中国新時期文学史〈1〉◆徳間佳信
高村光太郎・智恵子への旅〈9〉――智恵子の実像を求めて――◆松井郁子
新潟県戦後50年詩史〈6〉――隣人としての詩人たち――◆鈴木良一

一部送料込みで1,500円です。ご注文は玄文社までメールでお申し付けください。
genbun@tulip.ocn.ne.jp

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ホセ・ドノソ『ロリア侯爵夫人の失踪』(2)

2015年10月10日 | ゴシック論

『ロリア侯爵夫人の失踪』もまた、そのような周辺作品のひとつである。外交官の両親とともに新大陸は中米ニカラグアから、スペインのマドリッドにやって来たブランカ・アリアスの不能の男との結婚と、未亡人となった彼女のごく短い性的遍歴を官能的に描いた作品である。
 同性愛者であったらしいドノソがなぜ、女性の放縦な性的遍歴などを描いたのかについては理解しがたい部分もある。しかし訳者の寺尾隆吉によれば、当時『蜘蛛女のキス』などの作品でもてはやされていた、アルゼンチンのマヌエル・プイグの作品や、親友であったペルーのバルガス・リョサが1977年に書いた、コメディ風の愛の物語『フリアとシナリオライター』に刺激されて書いたのではないかという。
 ホセ・ドノソは『夜のみだらな鳥』などの大傑作を書きながらも、いつでも自信喪失に陥ったり、他の作家の動向を意識したりする鬱屈した作家であった。ドノソはいつでもラテンアメリカ文学世界の中での自分の位置を気にし続けたし、だから『ラテンアメリカ文学のブーム――作家の履歴書』のような本も書いたのである。
 しかし、だからといってリョサの作品やプイグの作品に影響を受けて書かれたものではないことは、その独自の破天荒なストーリーをみれば理解できる。ブランカ・アリアス=ロリア侯爵夫人は、ほとんど戯画化されて描かれていて、"官能小説"といっても、パロディ的なポルノ、あるいはポルノ的なパロディに近いものがある。
 この作品に最も近いのは1977年の『三つのブルジョア物語』の中の一編「チャタヌーガ・チューチュー」(このおかしなタイトルはグレン・ミラーの同名のヒット曲から来ている)だと思う。
「チャタヌーガ・チューチュー」には「ヴァニシング・クリーム」というものが登場するが、このクリームは目や鼻、顔全体、あるいは性器さえ消すことができるもので、男女がこのクリームを使って性的争闘を繰り広げるのである。性器を消去された「ぼく」をめぐるドタバタが中心になっていて、まさに抱腹絶倒のコメディである。
 あの重厚な『夜のみだらな鳥』や『別荘』の作者が書いたとは思えないほどに肩の力の抜けた作品で、作中で「ぼく」が「こういう現実離れした出来事というのは、熱帯の作家の新しい小説の中でしか起こらないことだ」などというに及んでは、冗談が過ぎるとさえ言いたくなる(これはコロンビアの作家ガルシア・マルケスの『百年の孤独』への言及であろう)。
『ロリア侯爵夫人の失踪』も極めて不真面目な作品である。ロリア夫人の最初の冒険は、義母の代理人、老いたるドン・マメルトとの間で行われるが、マメルトは行為の途中で死んでしまう。このあたりも十分にドタバタ的であるが、冗談が過ぎるのはルナという犬が登場してからである。
 ロリア夫人の最後の相手は運転手のマリオ。二人が後部座席で行為に及んでいる間、ルナは背もたれに前脚をかけて二人の行為をじっと見つめながら吠え立てる。思わず吹き出さずにはいられない場面である。
 この犬が何を寓意しているかは簡単に分かる。ロリア夫人はこの犬と一緒にレティロ公園の中へ消えていくのだが、ロリア夫人が二度と現れないのに対して、ルナは最後に従順な姿でもう一度現れる。ロリア夫人の日常性からの逸脱に対して、ルナの日常性への従順を対置させているのである。
 しかしそんなことがどうでもいいほどに、この犬の効果は絶大である。ルナとロリア夫人の共犯関係はあまりに滑稽で、不真面目としか言いようがない。こんな度を過ぎたドタバタも、ホセ・ドノソという作家の重要な素質のひとつなのである。

ホセ・ドノソ『ラテンアメリカ文学のブーム――作家の履歴書』(1983,東海大学出版会)内田吉彦訳

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