玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『境界なき土地』(2)

2015年10月18日 | ゴシック論

 この小説は、チリの田舎町エスタシオン・エル・オリーボのある娼家で、娘のハポネシータとひとつのベッドで寝ている、マヌエラが目を覚ます場面から始まる。
 読者はこの親子を、まず母と娘と認識しないわけにはいかない。小説は三人称の語りとマヌエラの独白が複雑に絡み合ったまま進行していくが、マヌエラの独白は女言葉で訳されているし、「娘に朝食を出すまでまだゆうに三十分はある」というような部分を読めば、誰もがマヌエラを母親だと思い込むだろう。
 ところが翻訳で23頁に「あれでも一応はハポネシータの父親だぞ、と言って彼をからかう者もいたが……」という一節が出てきて、読者はマヌエラが母親ではなく、父親であることに気づかされる。一瞬、訳者がとんでもない間違いを犯しているのではないかとさえ思わされる部分である。
 しかし、ちゃんと12頁に「ハポネシータもあのカマ親父も、思い知らせてやるぜ……」という科白があって、読者は自らの注意力の不足に気づくのである。
 日本の読者はそう読んでしまうだろうが、スペイン語圏の読者はどう読むのだろうか。マヌエラという名前は男性の名前なのだろうか。ところがスペイン語でManuela はManuelの女性形であって、マヌエルが男性の名前なのである。このカマ親父は名前も女性の名前にしているのだ。
 つまりこの仕掛けは、スペイン語圏の読者に対してももともと施されているのであって、ドノソの『境界なき土地』を原語で読む読者も、我々と同じ勘違いを避けられないのである。おカマ小説の出だしとして大変よくできていると言えるだろう。
 またもうひとつ驚かされるのは、全部で11章あるこの小説で、ほとんど2章の半ばくらいまでで、結末に効いてくる伏線をすべて張り終えているところである。重要な登場人物がすべて紹介され、それら登場人物たちの性格や社会的地位まで決定され、結末で重要な役割を果たすことになる犬も登場させている。
 しかも、それがほとんどマヌエラの独白の中で行われているということ、そのことに注目しないわけにはいかない。娘のハポネシータはマヌエラによって次のように紹介される。
「あんなにガリガリじゃ、とても娼婦なんか務まらない。でも、店主としては立派だし、確かに商才はある。几帳面で、無駄遣いもしない。毎週月曜日の朝、汽車でタルカへ出向いては、稼ぎを銀行に預金している」
 このようなハポネシータの守銭奴のような性格(父娘がひとつのベッドで寝ているのもそのため)と豊満という女の魅力の欠如も、小説の後半で生きてくる。
 また、マヌエラが怖れているパンチョ・ベガ(以前現れた時にマヌエラお気に入りのスペイン風の赤いドレスをズタズタにした男)に対する、嫌悪や恐怖の感情も十二分に語られている。
 用意周到なのは、町を支配する実力者ドン・アレハンドロ・クルスに対する尊敬の気持ちと、その気持ちを裏切ることになる彼の四匹の黒犬の獰猛さも、導入部できちんと描いていることである。
 マヌエラは四匹の犬を連れたドン・アレハンドロに街角で出会うが、マヌエラは犬に対する恐怖を隠さない。
「あらまあ、ドン・アレホ、犬を連れてこんなところを歩かなくても。イヤだ、怖いわ、ちゃんと抑えてください」
「こんな怖い犬を連れて歩くのは法律で禁止すべきです」
 この二つの科白だけで、犬にまつわるラストシーンの伏線とするに十分である。