玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『使者たち』(1)

2015年07月12日 | ゴシック論

 早くホセ・ドノソあるいはラテンアメリカにおけるゴシックというテーマに移行したいのだが、ヘンリー・ジェイムズが邪魔をする。このところ書いてきた「ゴシック論」もジェイムズに偏りすぎている。必ずしも彼の作品が典型的なゴシック小説というわけでもないのに、困ったことだ。しかし『鳩の翼』や『聖なる泉』を読んで以来、ジェイムズの他の長編を読みたくて仕方ないのだ。
 実は長期入院中の友人から委託されている蔵書があり、その中にかつてブームだった「世界文学全集」のたぐいがたくさんある。その中からヘンリー・ジェイムズの巻を抜き出して、自宅に持ってきてある。
「世界文学全集」のブームというのは1960年頃から15年間くらい続いたと思うが、当時の「世界文学全集」には必ずヘンリー・ジェイムズの長編作品が含まれていた。しかもジェイムズは生涯に21本もの長編を書いたから、各出版社によってそれぞれ違う作品が選択されていて重複がない。
 発行年順に列挙してみよう。
・『ボストンの人々』(1966、中央公論社「世界の文学」)谷口陸男訳
・『アメリカ人』(1968、荒地出版社「現代アメリカ文学選集」)高野フミ訳
・『使者たち』(1968、講談社「世界文学全集」)青木次生訳
・『ある婦人の肖像』(1969、筑摩書房「世界文学全集」)斎藤光訳
・『鳩の翼』(1974、講談社「世界文学全集」)青木次生訳
・『カサマシマ公爵夫人』(1981、集英社「世界文学全集」)大津栄一郎訳
上記の他にも『ロデリック・ハドソン』が筑摩書房の「世界文学体系」に(1963)、『聖なる泉』が国書刊行会の「ゴシック叢書」に(1979)に入っている。
 これだけ多くの長編作品が多様な「世界文学全集」に収められている例は他の作家では考えられないことではないか。ドストエフスキーにしたところで、『死の家の記録』『罪と罰』『未成年』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』の6本くらいであり、ヘンリー・ジェイムズは収載本数ではドストエフスキーをすら上回るのである。
 もともと長編の本数が多かったせいもあるが、「世界文学全集」のたぐいに必ず入っていたということは、それだけ専門家の評価も高く、読まれる可能性も高かったということなのだろう。しかしその後は「世界文学全集」というようなものがなくなってしまったために、ジェイムズの長編は新たには『金色の盃』くらいしか訳されていない(1989、あぽろん社、青木次生訳。その後講談社文芸文庫)。
 なぜ今日、ヘンリー・ジェイムズが『ねじの回転』など少数の例外を除いて、あまり読まれなくなったのかという問題は考えてみるに値するテーマである。 
 まずどの長編もやたら長い。長いことに関してはドストエフスキーも負けてはいない。しかし、ドストエフスキーの小説には息をもつかさぬドラマがあって、そのストーリー展開を楽しむ圧倒的な喜びがあるが、ジェイムズの小説にはそれがない。
 たいしたドラマが起きるわけでもなく、ストーリーも面白いとは言えない。会話文が極めて少なく分析的記述が圧倒的に多いので、注意深く読んでいかないと何がなんだか分からなくなる。だから多くの読者には退屈きわまりないものと映るのだろう。

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ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(6)

2015年07月11日 | ゴシック論

 最後に『乙女たちの地獄』の巻頭に掲載されている「バートルビー」という作品に触れておきたいと思う。この作品にはゴシック的な要素はあまりないが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスがこの作品について「カフカの先駆」ということを言っているからである(『バベルの図書館』の「バートルビー」序文)。それほどに注目すべき作品であるということだ。
 ウォール街に勤務する老弁護士である「私」が、彼の事務所で雇ったバートルビーという青年の奇行について語っていくという作品である。このバートルビーがとんでもない青年で、筆耕人として雇われているのに、書類の読み合わせを命じられると、「その気になれないのですが」I would prefer not to.と答えるのみ、自分の席から動こうともしない。
 何を命じられても「その気になれないのですが」としか答えないバートルビーは、どうも事務所に居座り続けているらしい。解雇を言い渡しても彼は事務所を出て行こうとしない。しまいには「ここを出て行くつもりはあるのかね」と言われても、「ここを出て行く気にはなれないのですが」と答える始末。
 ついに「私」はバートルビーを置き去りにしたまま、事務所を引っ越すことになる。もとの事務所に居抜きで残ったバートルビーはそこでも同じことをくり返し、ついに警察に逮捕され、刑務所に収監される。そこで彼は食べ物を食べることもなく、飢え死にして果てるのである。
「私」は時にバートルビーに腹を立てるが、憎みきれないものがある。「私」はバートルビーに優しい気持ちを寄せ、過分の退職金を与えたり、彼の行く末を気遣ったりもする。最後は刑務所の中での彼の死を見届けるのである。そうした経緯が軽いユーモアを込めて語られていく。
 ボルヘスはこの作品をカフカの小説の不条理性の先駆と位置づけているようである。カフカの作品には単に不条理というのではなくて、ユーモアもあるし、その点でもよく似ているとは言いうるかも知れない。
 ただし、カフカの作品にもっとも特徴的なのはそれが"夢"のもっている文法に従って書かれていることであって、その不条理性は夢というものがもともともっている不条理性であるのに他ならない。
 メルヴィルの「バートルビー」には夢の要素はまったくない。なぜバートルビーという青年はあれほどに無気力で絶望的な人間になってしまったのか? その答えは最後の部分に書かれている。
 バートルビーはワシントンの郵便局内の「配達不能便課(デッド・レター・オフィス)」で働いていて、局の都合で突然解雇されたらしい。バートルビーは「死文(デッド・レターズ)」を扱う仕事をしていたのだ。「私」は噂を耳にして「筆舌に尽くしがたい感慨」にとらわれる。そして次のように言うのである。
「「死文」とは! まるで死人のような響きではないか? 生まれながらの資質と、その後の不運のために、とかく蒼ざめた絶望へと陥りがちな人間のことを想像してみるがよい。そうして死んだ手紙を不断に取り扱い、それを焼き捨てるために選り分けを行なう人間ほど、そうした蒼ざめた絶望を深めるのにふさわしいものがあろうか?」
「私」は郵便局のシステムの不条理性を指摘しているのである。そのような不条理がバートルビーのような人間を生むのだと。
 もしカフカの小説を"現代の不条理"というような文脈でだけ読むならば、ボルヘスの言っていることは当たっているのかもしれないが……。
(この項おわり)

J・L・ボルヘス編集『新編バベルの図書館』1.アメリカ編(2012、国書刊行会)

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ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(5)

2015年07月10日 | ゴシック論

 このように大型船の内部は迷路のようになっていて、地下牢や地下納骨所を彷彿とさせるのであり、船というものは外観も内観もゴシック的空間というに相応しい。そして、そのような閉鎖的空間で展開される人間のドラマもまた……。
 サン・ドミニック号の船長はベニート・セレーノ(作品タイトルでもあり、この人物の重要性を示している)という若い男で、彼とデラノー船長のやりとりが小説の大半を占める。ベニートはサン・ドミニック号がホーン岬の沖合で嵐に遭って帆走不能となり、その後も凪のために百九十日間漂流していたと説明する。ベニートの憔悴ぶりには甚だしいものがある。
 しかし、何かがおかしい。ベニートの言うことに不整合なところがある。人の好いデラノー船長でさえベニートの言うことに不信感を抱かざるを得ない。船上には不気味なそぶりを見せる黒人や、鎖につながれた黒人、そしてベニートに忠実にかしづくバボという黒人がいる。
 デラノー船長はベニートに、サン・ドミニック号で何が起きたのか詳細に聞き出そうとするが、いつでもはぐらかされてしまう。デラノー船長はベニート船長がほとんど指揮権すら行使できていないことを見て取り、ベニートを軽蔑しさえする。
 それどころかベニートがデラノー船長を殺そうとチャンスを窺っているのではないかと、疑心暗鬼に駆られさえするのである。このような謎に満ちた状況をメルヴィルは、圧倒的な緊張感をもって詳細に描いていく。
 海豹猟船の乗組員はサン・ドミニック号に乗り込んでおらず、デラノー船長はたったひとり。ベニート船長を初め、黒人達の不可解な行動や言動に恐怖を覚えながら、デラノー船長は観察を続けていく。
 別れの時が来る。海豹猟船のボートにデラノーが乗り移ると、ベニートが突然ボートに飛び込んでくる。それに続いてバボを初めとする黒人達がベニートに襲いかかる。その時、デラノー船長はことの真相を一瞬にして悟るのである。
「その時であった。これまで長い間迷妄のうちにさまよっていたデラノー船長の脳裡に天啓の閃光がひらめき、予感もしなかったほどにはっきりと、彼の主人役をつとめてきた男の不可解な振る舞いのいっさいを(中略)明るみに出してくれた」
 読者もまた、デラノー船長が感じた瞬時の解明を同時に体験することになる。またしてもあらすじを書いてしまったが、「ベニート・セレーノ」という作品はこのように謎を中心として、読者を強力に引っ張っていき、この時点で一挙に解放するという物語構造をもっている。メルヴィルの筆力に眼を見張る一瞬である。
 ことの真相は、黒人バボを指導者とする反乱によって船は支配されていて、ベニートはデラノー船長に対して芝居を打つことを強制されていたということなのだ。そのようなことは船という閉鎖空間においてでなければ起こりえないことである。メルヴィルは船というゴシック的空間でこそ可能な、ゴシックストーリーを見事に書いたのである。

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ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(4)

2015年07月09日 | ゴシック論

「ベニート・セレーノ」はメルヴィルの本領を発揮した大傑作だと思う。この船を舞台にした作品は、実際にあった事件をもとにしているらしいが、メルヴィルはこの作品で、船というものをそれまでなかったレベルで、ゴシック的空間とすることに成功している。
 牢獄や修道院、あるいは古い城は閉鎖空間として相当に堅固な性質を持っているかも知れないが、よく考えてみれば洋上を航海する船ほどというわけではない。牢獄や修道院からはいかに困難とはいえ脱出が可能であるが、航海中の船から脱出することはほとんど不可能である。
大海原に浮かぶ船が自由のイメージを持っているとしても、それは現実とは大いにかけ離れている。船から脱出することは海に投げ出されることを意味しているのであり、つまりそこに死が待っているだけなのであるから。
「ベニート・セレーノ」はそうした閉鎖空間としての船の特徴をストーリー展開において、あるいはそれだけではなく、登場人物の心理的葛藤の上において最大限に活かすことに成功していると言える。
 メルヴィルはまず、海豹猟兼雑貨貿易の大型船船長アメイサ・デラノーのもとに、救いを求める難破船のような不思議な船サン・ドミニック号を出現させる。デラノー船長はこのサン・ドミニック号を修道院に似ているとさえ思う。
「前とは違った近い距離から眺めてみると、切れぎれになった霧が襤褸屑のようにあちこちを覆っている船体は、(中略)ピレネー山脈のとある暗褐色のがけの上に建っている僧院が雨に洗われたあとに見せる白亜の姿を彷彿させた」
とメルヴィルは書く。外観だけではなく、乗組員にさえ僧院のイメージを重ねて、「紛れもない修道僧の一団が彼の眼前で船上いっぱいに群がっているように思った」とも書く。さらに、
「なにしろ霧にかすむ彼方には黒頭巾を被った人間の群れが舷檣からこちらをじっと窺っているように見えたし、そのほかにも動く黒い人影が開いたままの舷窓を通して見え隠れし、そうしたぼんやりと認められる人影もまた僧院の歩廊を往ったり来たりする黒衣のドミニコ会修道僧のように映るのだ」
 これはしかし、デラノー船長の誤認であり、実際はサン・ドミニック号が黒人奴隷を運ぶ船であったということなのだが、小説の導入部としてメルヴィルにとって、どうしても必要な誤認であった。
 そこにはメルヴィルが、船をゴシック的な空間として強調しようとする強い意志があるからである。さらに物語の展開とともに、サン・ドミニック号の船内もくまなく紹介されていくが、船内についてももちろん、それをゴシック的空間として描写しようとするメルヴィルの意志を感じとらなければならない。
 たとえば、船内の狭い廊下は"地下納骨所"にさえたとえられる。次のように。
「彼が、トンネルのように薄暗く、船室から階段へと通じている狭い廊下の途中まで来るや、どこかの刑務所の中庭で死刑執行を告げるべく鳴らした鐘のように、不意に鐘の音が彼の耳を襲った。それはひび割れのできた船の鐘が時を打った音の反響であり、今この地下納骨所ともいうべき廊下に侘びしく響き渡っているのだ」

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ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(3)

2015年07月08日 | ゴシック論

 第四話から第十話までは、人間が関わるそれこそ真にゴシック的な物語となっている。海賊が跋扈し、水兵達の脱走の場ともなり、ある時には牢獄とも化す島々にまつわる物語である。
 バーリングトン島を拠点に活動する海賊達が木陰に残した優美な長椅子の物語、戦功によってペルー政府からチャールズ島を与えられ、そこで犬の軍隊を組織し反乱軍と闘うが、ついに捕らえられペルーに連れ戻されるあるクレオール男の物語、白人の脱走兵オーベルラスがフード島にひとり住み、やってくる船の乗組員達を銃で脅して奴隷とし、独裁者になろうとする物語……。
 中でも「第八話-ノーフォーク島と混血の寡婦」は、美しくも悲しい物語である。「私」がノーフォーク島で亀捕りを終え出航しようとすると、陸地にハンカチが振られているのが見える。それは亀の油を手に入れようと、夫と弟との三人で島に渡り、事故によって二人を失い、失意の中にたったひとりで暮らす混血の女ウニイャが助けを求める姿だった。
 船長は彼女を哀れに思い、どんな苦難があったのか訊こうとするが、彼女は「旦那さま、どうか訊かないでください」と言う。どうやら人に語ることもできないほどおぞましい体験があったらしい。島に立ち寄った捕鯨船の乗組員達に強姦されたのではないかと推測させる部分だが、メルヴィルはそのことを書かない。敬虔なキリスト者であり、亡き夫の墓を守り続けてきたウニイャの名誉のために。
 ウニイャは乗組員達の無言の敬意を受けるのであり、このスペイン人とインディオの混血女に対するメルヴィルの視線もまた慈愛に満ちたものである。夫の墓と育ててきた犬達との別れの場面は辛い。メルヴィルはウニイャの悲しい生について次のように書いて別れを告げる。
「他人の苦痛が愛と同情によって自分のものとなったとしても、それは泣き言を言わずに堪えていくべきものとなっていた。それは、遠くのものを憧れ求めつつも、なお鋼の枠にしっかり押さえ込まれている人間の心、また地上的憧れを抱きつつも、空から降り落ちる霜に凍てついてしまう人間の心であった」
「エンカンタダス」は海洋ゴシック小説としては、未だ不十分な作品である。ガラパゴスの島々が時には牢獄、時には城塞のようなゴシック的空間として捉えられてはいるが、本当のゴシック的空間は海に浮かぶ島々であるよりは、人間が乗り組んだ船そのものであるだろうからである。
 次に取り上げる「ベニート・セレーノ」という作品は、船そのものをゴシック的空間として描いた傑作中編で、『乙女たちの地獄』の中で最も長い作品である。

 

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ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(2)

2015年07月07日 | ゴシック論

 ハーマン・メルヴィルは捕鯨船の乗組員としての経験をもとに、あの『白鯨』を書いたわけだが、『乙女たちの地獄』に収められている「エンカンタダス」と「ベニート・セレーノ」の二編もまた、船乗りとしての経験に基づいて書かれた作品である。
「エンカンタダス」とは、南米エクアドル西方沖のガラパゴス諸島のことである。「エンカンタダス」は「魔の島々」の副題をもっていて、メルヴィルは十以上もある島々のほとんどについて、それぞれの島にまつわる恐ろしい物語を紡いでいく。
 第一話から第四話までは地誌である。メルヴィルはエンカンタダスがいかに厳しい自然環境のもとにあり、人間を寄せ付けない魔の島々であるかということを執拗に説いていく。「第一話-群島風景」の冒頭で、メルヴィルは次のように書く。
「地上のいかなる土地といえども、荒涼の点においてこれらの島々に匹敵するものがあるかどうか疑わしい。遠い昔に見捨てられた墓地、徐々に崩れ落ちて廃墟となり果てつつある古い都市、これらも十分に陰鬱ではある。だがただ一度でも人間とのつながりをもったことのある地のすべてのものと同じく、それらもまた、たとえどのように哀れを誘うものであれ、なおわれわれの胸中に何がしかの共感を呼び起こすものである」
 メルヴィルはゴシック小説が愛した墓地や廃墟について、それらはまだ人間の記憶を宿しているが故に穏健であり、エンカンタダスの島々の陰鬱に及ばないと言っているのである。
 エンカンタダスには四季もなく、雨もまったく降らず、棲んでいるのは亀、蜘蛛、蛇、蜥蜴(イグアナ)しかいない。そしてこの荒涼たる光景についてメルヴィルは「ピクチャレスク絵画の愛好者にとってまことに奇妙な感慨をもたらすことになるだろう」と書くのである。
"ピクチャレスク"とは"ゴシック"と緊密に結びついた概念で、不気味で荒涼とした風景(とくに廃墟があればなおよい)への嗜好を言う。メルヴィルはこの地誌の部分で、読者のまさにピクチャレスク趣味に訴えているのである。
 つまりメルヴィルは、エンカンタダスの中にヨーロッパ的ピクチャレスクよりももっと厳しいピクチャレスクを想定している。もっと簡単に言えば、ヨーロッパ的ゴシックに替わる新しいゴシック空間を創出しようとしているのだ。
 歴史も浅く、ゴシック空間をもたないアメリカ人として、メルヴィルは「鐘塔」においてはヨーロッパ的な設定を借りたが、船乗りとしての経験から彼は新しいゴシック空間を海洋に切り拓いたのだと言える。
 だからこそ「ベニート・セレーノ」のような中編小説だけでなく、『白鯨』という大作においても、アメリカンゴシックの完成者としての地位を築くことができたのである。
 ちなみにピクチャレスク絵画の代表とも言える、ジョン・マーチンの作品を紹介しておく。〈イグアノドンの王国〉という作品であるが、ほとんど「エンカンタダス」のための作品であるかのように見える。

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ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(1)

2015年07月06日 | ゴシック論

「アメリカ文学に深入りしていると、いっこうに先に進まない」と書いたばかりだが、どうにも気になる作家がひとりいる。『白鯨』を書いたハーマン・メルヴィルがその人である。
『白鯨』は若い時に夢中になって読んだし、短編も何作か読んでいるが、いずれもゴシック的な小説という印象をもっている。例によって国書刊行会から「ゴシック叢書」の24巻、25巻の2巻本としてメルヴィルの中短編集『乙女たちの地獄』が出ているので、手に入れて読んだ(タイトルは「独身男たちの楽園と乙女たちの地獄」という作品名からつけられている)。
 読んでみると間違いなくメルヴィルがゴシック的な作家であったことが理解される。『白鯨』にしたところが、白いマッコウクジラに脚を食いちぎられたエイハブ船長が、鯨を追い求め、復讐を果たそうとするというような途方もないストーリーであり、十二分にゴシック的であったことを思い出させられる。
『乙女たちの地獄』の中でもっともゴシック的な作品は「鐘塔」という作品であり、これはもうヨーロッパのゴシック小説とほとんど見分けがつかない。舞台はヨーロッパ南部、時代もヨーロッパの暗黒時代からほど遠からぬ時代に設定されている。
 建築師バンナドンナは己の芸術的野心に駆られて、地上三百フィートの高さの鐘塔を建て、そこに精巧な仕掛けで打ち鳴らされる鐘をしつらえるのだが、鐘の鋳造中に作業に怯える職人を殴り殺してしまい、その死体が鐘の中に鋳込まれてしまう。
 そのために、鐘に刻まれた十二人の乙女の像のうちひとりの表情に不備が発生し、それを直そうとしているうちに自らの仕掛けによって、バンナドンナは頭蓋を打ち砕かれてしまう。鐘は地に落ち、後に塔も崩壊してしまう。
 かなり時代がかった文体とストーリー展開、そしてパラノイアックな主人公の性格設定はヨーロッパのゴシック小説に共通するし、何よりもヨーロッパのゴシック小説に多大な影響を受けたポオの作品に共通する。
 この作品は」ポオの「黒猫」にも似ているし、「アッシャー家の崩壊」にも似ている。アメリカの作家もまた、舞台をヨーロッパに設定することで、充分にヨーロッパ的なゴシック小説を書くことができたのである。

ハーマン・メルヴィル『乙女たちの地獄』(1983,国書刊行会「ゴシック叢書」第24・25巻)杉浦銀策訳

 

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ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(7)

2015年07月05日 | ゴシック論

 マウリシオは重荷をおろさなければならない。ある夜、誰かが自分と一緒に歩きながら、彼の吹く〈スカルボ〉を真似て口笛を吹いているのに気づく。その誰かにマウリシオは正確な吹き方を教えていく。
 それは公園に暮らす浮浪者の少年であり、マウリシオにうり二つなのであった。マウリシオはその少年に「夜のガスパール」を教え込み、着ている物を交換して完全に入れ替わるのである。
 浮浪者の少年は「夜のガスパール」を覚え込み、マウリシオよりは従順なシルビアの息子として生きていくことになるだろう。そしてマウリシオは「夜のガスパール」を口笛で吹くことも忘れ、オブセッションから自由になることができるだろう。
「あちらへはまだ行ったことがないし、ぼくを知っている人もいないはずだ。そのまま歩き続けて、むこうへ、ほかのもののほうへ向かっていこう」
という小説のラストはマウリシオの新しい生き方を暗示している。 しかし、こうしたゴシック的心性からの卒業は、ある意味では"逃亡"と言うに等しく、小説の終わり方としてやや疑問は残る。ただし、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』におけるマイルズ少年の死というような終わり方を選択するには、この『三つのブルジョワ物語』という三部作は充分にシリアスな作品ではない(他の二編はほとんどファルスと言ってもいいような作品である)。
 ところで、ホセ・ドノソが小説の中に子供を登場させ、子供を大人社会のもっている規範から逸脱させ、抵抗の拠点としていくやり方は、明らかにヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』の影響とみなすことができる。
『ねじの回転』は、本当に子供達が幽霊の支配下にあって、邪悪な存在と化しているのか、それともそれが女家庭教師の妄想に過ぎないのか、どちらとも取れるように書かれているが、いずれにせよ子供達(フローラとマイルズ)が小説の中核を占めていることに違いはない。
 ドノソの「夜のガスパール」のマウリシオも、この作品の中核を占めているわけで、そのことは重要な事実である。ドノソは後に『別荘』という長編で、このようなテーマを徹底的に追究することになるだろう。『別荘』では小説の中核を占める子供達は33人に拡大されるが、彼らはマウリシオのように身代わりを見つけて逃亡するようなことはしない。子供達は大人達に対して徹底して闘って、破局を向かえることになる。
『別荘』についてもいずれ取り上げることにしたい。
(この項おわり)

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ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(6)

2015年07月04日 | ゴシック論

 ヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』では人間の心理というものが、物質的な媒介によらずして交換可能なものとして捉えられていた。
『聖なる泉』は吸血鬼小説とも位置づけられるのだが、あくまでそれは"血液"という物質的媒介による"吸血と失血"ではなく、心理的な媒介による"吸血と失血"を意味していた。
『聖なる泉』では人間の心理に対する"理論"が「私」によって打ち立てられるが、ほとんどそれはテレパシーやサイコキネシスのような物質を媒介としない超心理学のような様相を呈してくる。
 そのような超心理学がどこから生まれてくるのかと言えば、もちろんヘンリー・ジェイムズの人間の心理に対する全幅の信頼からなのである。あれほどに精緻きわまりない心理小説を書いたジェイムズにとって、心理はそれ自身で自立して存在する何かである。我々は人間の心理についての理論が超越的なものと化していく例を『ねじの回転』や『聖なる泉』にみることができるだろう。
 いっぽう、ホセ・ドノソはどうか? ドノソもまた人間の意識というものを物質的媒介なしに交換できるものとして描いている。だから「夜のガスパール」はテレパシーかサイコキネシスをテーマとする作品として読めるのである。「夜のガスパール」という曲が物質的媒介なしに、他者の意識に直接作用するということを前提としているのであるから。
 しかし、ドノソが人間の"意識"というものに全幅の信頼を置いていたとは思えない。マウリシオの妄想は、茶色の服の男から逃げ出すことでたやすく崩れてしまう。ドノソは「すべてが壊れはじめたからであった」と書くが、それはマウリシオという少年の脆弱さを示している。
 しかもそれだけではない。少年であるが故の脆弱さだけではなく、「夜のガスパール」という"夜のみだらな鳥"の啼き声が、マウリシオにとってあまりに重苦しいオブセッションであるということをも意味している。マウリシオは儀式に失敗した後で、次のように考える。
「人をひとり忘れるたびに(失敗した対象について忘れていくこと)、マウリシオは成長していったが、いつまでたっても成熟することはなかったし、自分に負わされている重荷がますます耐えがたいものになっていくように思われた。どこで、いつ、その重荷をおろせばいいのだろう?」
 他者の意識の中に入りこんで他者を支配しようとするマウリシオの儀式は、あまりに危険なものであって、ドノソは人の意識というものが物質的媒介なしに交換されるということを信じてはいない。そこが多分ヘンリー・ジェイムズとの大きな相違点なのであろう。

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ホセ・ドノソ『三つのブルジョワ物語』(5)

2015年07月03日 | ゴシック論

 次の標的は公園でマウリシオの方に向かってくる茶色の服を着た男であり、テーマ曲は〈絞首台〉である。ラヴェルの「夜のガスパール」の中でもっとも陰鬱でゴシック的な曲によって、マウリシオは何をしようというのか?
〈絞首台〉は不気味な鐘の音を執拗に繰り返す曲であり、ドノソはそれを公園のベンチに見立てて、恐ろしい文章を書く。
「ベンチが鐘の音のように一定間隔に並んでいた、ひとつ……ふたつ……みっつ……よっつ……その音楽のゆるやかな歩み、死刑台へ行けという命令をくり返すもの悲しい鐘の音、ベンチがひとつ、またひとつ彼は仮借ない歩調で足を運んだ」
 見事な文章である。さらに、
「マウリシオの心の中に《絞首台》の曲全体が広がり、茶色の服の男がその曲の中に入りこんできた。男の足どりが、マウリシオが頭に思い描いている譜面の中に楽譜を刻みつけていった」
 その譜面とはどんなものか見てみよう。同じ音階で連続的に響く鐘の音が聴き取れるだろう。

 

 マウリシオは頭の中の鐘の音に導かれて、茶色の服の男と一緒に絞首台に登ろうとする。しかし、すでに男は絞首台に吊された者のように体の力が抜けきっている。儀式は不可能なのだろうか?
 マウリシオは口笛の音を大きくして、男に対する支配力を増強する。すると男は「奴隷のようにのろのろ、あとをつけるでもなくついてきた」。しかしそれは男の偽装であって、マウリシオは結局男を支配する事に失敗する。そして一瞬にしてマウリシオは「傷つきやすい少年」に戻り、恐怖に駆られてその場を逃れるのである。
 このあたりの緻密で濃密、さらには執拗な描写は、ヘンリー・ジェイムズの影響を指摘できる部分であろう。ジェイムズは人間同士の心理のぶつかり合いにおいて、このような細密な描写を多用したが、ドノソは人間の心理というよりは人間同士の意識の布置と、その刻々の変化を精密に捉えるために、そのような描写法を使っているように思われる。
 ヘンリー・ジェイムズには人間の心理に対する強固な信頼があったが、20世紀も半ばを超えた時代のドノソにはそのような心理への信服はない。むしろマウリシオが「ほんの少しでいいからひとびとの意識に触れたい」と言うときの"意識"こそ、ドノソが描こうとしているものではないか。
 しかし、この「夜のガスパール」におけるドノソの筆法は、ジェイムズのそれにそっくりだと言うことはできると思う。

 

 

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