玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ブラウリオ・アレナス『パースの城』(1)

2015年10月14日 | ゴシック論

 チリの作家といえば他にイサベル・アジェンデがいて、その『精霊たちの家』は日本でもよく読まれている。しかし私は、この人のガルシア・マルケスの『百年の孤独』を通俗化したような作風を好まない。また新しいところでは2003年に50歳で亡くなったロベルト・ボラーニョがいるが、まだ読んだことがない。
 もう一人、ブラウリオ・アレナスという人の『パースの城』という小説が、1990年に国書刊行会の「文学の冒険」の一冊として紹介されている。この作品の紹介文に、「チリのシュルレアリストの書いたゴシック小説」とあったので、参考のために読んでみることにした。
『パースの城』は第一に"夢の物語"である。幼なじみのベアトリスが死んだという記事を新聞で読んだ主人公ダゴベルトが、1134年のパースの城に導かれて、そこで様々な怪異な事件に遭遇するという物語だが、いつでもそれがダゴベルトの夢であることが示唆されている。ダゴベルトが寝ていた長椅子が繰り返し出てきて、そこが夢を見る場所であることが強調される。
 この小説には沢山のゴシック的道具立てが使用されている。中世の古城=パースの城はその筆頭に挙げられるものだし、魔法の鏡、地下牢とそこで行われる拷問、抜け道、底なし沼、また鎖帷子をつけた騎士、女妖術師の亡霊、硝子の体をもった悪魔、好色な龍、狼、鷹……等々。
 作中にはホレース・ウォルポールやアン・ラドクリフの作品についての言及もあるし、ビクトル・ユーゴーやギュスターヴ・ドレの名も援用されている。アレナスのゴシック趣味は直接にヨーロッパのゴシック世界に結びついているし、彼はそのゴシック趣味をこの作品の中で全面展開しようとしているのだ。
 アレナスは1913年に生まれて1988年に亡くなっている。ドノソよりも10歳ほど年長の作家であり、マンドラゴラ派というシュルレアリスト・グループのリーダーであったという。アレナスはヨーロッパのシュルレアリスムを通してゴシック小説に触れていたのである。
 このような文学状況はアルゼンチンやウルグアイのそれとほとんど違いがない。チリという国もまたヨーロッパと地続きであったことが、アレナスの作品やその経歴からうかがい知ることが出来るのである。
 アレナスには別の側面もある。エピグラフにルイス・キャロルの「なあんだ、鏡の国の本じゃない、だったら、鏡のところに持っていけば、もとどおりのちゃんとした言葉になるわ」という『鏡の国のアリス』からの一節が掲げられている。
 この一節は、パースの城の魔法の鏡の中にダゴベルトがさまざまな幻影を見る場面につながっているし、ルイス・キャロルから拝借したようなチェスの部屋も登場するのみならず、チェスの女王やトランプの王様といったキャロル的形容表現さえ現れている。
 また、中世の騎士道物語に対する愛着を見せているのも『パースの城』の特徴のひとつである。こうした二つの要素が『パースの城』を、血なまぐさいゴシック小説ではなく、ファンタジックな要素の強い小説にしている。ゴシック的な形式を借りた夢の物語なのである。

ブラウリオ・アレナス『パースの城』(1990、国書刊行会)平田渡訳

 


ホセ・ドノソ『ロリア侯爵夫人の失踪』(3)

2015年10月12日 | ゴシック論

 この犬に関しては、ドノソのもうひとつの周辺的な作品で、変態小説とも言うべき『境界なき土地』でも大きな役割を果たしているというから、近いうちに読み返して確認しておかなければならない。
 ところで寺尾隆吉の後書きによれば、執筆開始直前の日記にドノソは次のように書いているという。
「短く、手軽で今風、そしてありきたりな小説。これが今風だろうか?(プイグや、最近のバルガス・ジョサ)抜群だ。ヘンリー・ジェイムズ的趣もある。早く仕上げてしまおう」
この文章の前段には、マヌエル・プイグやバルガス・リョサ(寺尾はジョサと表記しているが、リョサの方が馴染みが深いので)に対する対抗意識が感じられるが、「これが今風だろうか?」の疑問文には、自分がこれから書く小説が"今風"になるのかどうかという迷いが感じ取れる。
 確かにリョサの『フリアとシナリオライター』は、ペルーの首都リマを舞台にした自伝的な青春小説であり、リョサの他の作品と大いに違った"今風"な雰囲気を持っている。
 一方『ロリア侯爵夫人の失踪』は1920年代のマドリッドを舞台とした作品で、タイトルからして分かるように"古風"な趣の作品である。多くの官能小説が、古風な道徳意識の裏に隠された放埒な欲望によって裏打ちされているように、『ロリア侯爵夫人の失踪』もその点で例外ではない。
 しかし、私がもっと注目したいのは、「ヘンリー・ジェイムズ的趣もある」という部分である。ドノソがアメリカの作家ヘンリー・ジェイムズの作品を愛し、この作家をつねに意識していたことはよく知られているが、ではこの「官能小説」にどのような「ヘンリー・ジェイムズ的趣」があるというのだろう。
 もちろんヘンリー・ジェイムズは「官能小説」などを書かなかったし、官能描写などに「ヘンリー・ジェイムズ的趣」があるなどということはあり得ない。では、どこに?
 私はまず、この小説の冒頭部分に注目したい。アリアス・ブランカは次のように紹介されている。
「両親の出発後(両親はブランカを置いてニカラグアに帰るのである)、しばらく経つと純真な愛情も他へ移り、すでに故国の味わい深い話し方ばかりか、新大陸の女にありがちな自由の精神も忘れて、いっぱしのヨーロッパ淑女になっていた彼女は、自らの新たな身分にふさわしい偏見や儀礼、言葉遣いで優雅なマントを作り上げて身に纏うようになった」
「新大陸の女にありがちな自由の精神」を持った女というのであれば、我々はヘンリー・ジェイムズの『デイジー・ミラー』を思い出すことが出来る。『デイジー・ミラー』は新大陸アメリカからヨーロッパにやって来た、自由奔放な娘デイジー・ミラーがローマで引き起こす旧世界との衝突と、彼女の破局を描いた作品である。
 北米と中米の違いはあれ、ブランカも「新大陸の女」であり、最初は「ヨーロッパ淑女」として振る舞うことを覚えても、未亡人となったあとは「自由の精神」を発揮して、奔放な性的遍歴を重ねるのであり、その結果破局が訪れるのは『デイジー・ミラー』と共通している。
『ロリア侯爵夫人の失踪』は『デイジー・ミラー』の官能小説版なのである。ヘンリー・ジェイムズは多くの小説で、新大陸の人間と旧大陸の人間の精神的葛藤を描き続けたが、それは彼自身が新大陸的価値観にも旧大陸的価値観にも帰属することが出来なかったという事実を背景としている。
 ホセ・ドノソはチリに生まれながらも、長くスペインで暮らした作家であり、ヘンリー・ジェイムズと同様の意識を持っていたことは疑いを入れないところであろう。さらにはドノソが通常の性意識に帰属することが出来ない人間であったことも大きな問題として指摘しなければならない。
 しかし、こうしたテーマを扱うには『ロリア侯爵夫人の失踪』は短すぎる作品である。

(この項おわり)

 

 


「北方文学」第72号刊行

2015年10月10日 | 玄文社

 

 玄文社では10日、「北方文学」第72号を刊行しました。
 今号も268頁の大冊となりました。全国の同人誌がその高齢化と同人減少に悩んでいる中、誠に希有な現象と言うことが出来るでしょう。ただし、今号には小説がありません。評論を中心とした構成はこのところ一段と強まっていて、それは「北方文学」を永続させている要因であると同時に、「北方文学」の欠陥でもあると認識はしています。何とかしなければいけませんが、むずかしい課題です。
 巻頭は大橋土百の「鬼胡桃」です。彼が東日本大震災以降続けてきた日々の思索を俳句の形にまとめたものですが、俳句という形式におさまりきらないのは、その思索が一定の形式を拒絶するからなのでしょう。ある意味で俳句と現代詩との親和性の高さを証明しているとも言えます。
 館路子は「今、夕景に入ってゆく」をいつものような長詩にまとめています。今回の作品では夕景に舞う蝙蝠を、読点や四分休止符に見立てるという離れ業を演じています。それだけでも凄い。
 評論の最初は昨年度の日本翻訳特別賞を受賞した、大井邦雄の「優秀な劇作家から偉大な劇作家へ」です。ハーリー・グランヴィル=バーカーが1925年に英国学術院で行った講演の一部、「これぞこの人という輝きの瞬間はどのように現われ出るか」と「『ハムレットの方へ』」「『オセロー』の方へ」を、膨大な注をつけて訳述したものです。
 徳間佳信の「私説 中国新時期文学史(1)」は昨年まで「越後タイムス」に連載していたもので、日本で初めて書かれる中国現代文学の通史と言ってよいかと思います。政治状況との関連の中で読み解かれていく、中国現代作家の作品への分析はスリリングで、刺激的です。
 板坂剛はこのところ三島由紀夫の作品を通して天皇制への批判を行うといった、アンビヴァレンツな仕事に精力を傾けています。今回の「三島由紀夫は、何故昭和天皇を殺さなかったのか?」もその一環です。その背景には板坂の現在の政治状況に対する根本的な呪詛があるようです。
 鎌田陵人の「沈黙のK」は夏目漱石の『こころ』を、ジャック・デリダとキルケゴールを援用して論じたものです。
 霜田文子の「立原道造の"内在化された「廃墟」"をめぐって(1)」は、日本で初めて"廃墟"について論じた、立原道造の卒業論文をめぐっての論考です。立原の理論と日本浪曼派との関係に迫る意図で書き始められました。
 私の「エドマンド・バークの美学とゴシック小説」は、このブログに連載した「エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』」に手を入れたものです。バークの美学の先鋭的な部分とその限界について論じています。
  なお表紙・カットはいつものように佐藤伸夫さん。佐藤さんは今年の柏崎市美術展覧会で、洋画部門の市展賞に輝きました。

 以下に目次を掲げさせて頂きます。

鬼胡桃◆大橋土百
今、夕景に入ってゆく◆館 路子
日々の装い◆鈴木良一
優秀な劇作家から偉大な劇作家へ――シェイクスピアの一大転換点のありかはどこか――◆ハーリー・グランヴィル=バーカー 大井邦雄訳述
三島由紀夫は、何故昭和天皇を殺さなかったのか?◆板坂 剛
沈黙のK◆鎌田陵人
立原道造の内在化された「廃墟」をめぐって(1)◆霜田文子
エドマンド・バークの美学とゴシック小説◆柴野毅実
『ハムレット』舞台の彼方と幕の向こう側〈2〉――シンメトリー構成からTo be, or not to be, that is the question.を解く◆五十川峰夫
旧満州中国東北部の旅◆高橋 実
私説 中国新時期文学史〈1〉◆徳間佳信
高村光太郎・智恵子への旅〈9〉――智恵子の実像を求めて――◆松井郁子
新潟県戦後50年詩史〈6〉――隣人としての詩人たち――◆鈴木良一

一部送料込みで1,500円です。ご注文は玄文社までメールでお申し付けください。
genbun@tulip.ocn.ne.jp


ホセ・ドノソ『ロリア侯爵夫人の失踪』(2)

2015年10月10日 | ゴシック論

『ロリア侯爵夫人の失踪』もまた、そのような周辺作品のひとつである。外交官の両親とともに新大陸は中米ニカラグアから、スペインのマドリッドにやって来たブランカ・アリアスの不能の男との結婚と、未亡人となった彼女のごく短い性的遍歴を官能的に描いた作品である。
 同性愛者であったらしいドノソがなぜ、女性の放縦な性的遍歴などを描いたのかについては理解しがたい部分もある。しかし訳者の寺尾隆吉によれば、当時『蜘蛛女のキス』などの作品でもてはやされていた、アルゼンチンのマヌエル・プイグの作品や、親友であったペルーのバルガス・リョサが1977年に書いた、コメディ風の愛の物語『フリアとシナリオライター』に刺激されて書いたのではないかという。
 ホセ・ドノソは『夜のみだらな鳥』などの大傑作を書きながらも、いつでも自信喪失に陥ったり、他の作家の動向を意識したりする鬱屈した作家であった。ドノソはいつでもラテンアメリカ文学世界の中での自分の位置を気にし続けたし、だから『ラテンアメリカ文学のブーム――作家の履歴書』のような本も書いたのである。
 しかし、だからといってリョサの作品やプイグの作品に影響を受けて書かれたものではないことは、その独自の破天荒なストーリーをみれば理解できる。ブランカ・アリアス=ロリア侯爵夫人は、ほとんど戯画化されて描かれていて、"官能小説"といっても、パロディ的なポルノ、あるいはポルノ的なパロディに近いものがある。
 この作品に最も近いのは1977年の『三つのブルジョア物語』の中の一編「チャタヌーガ・チューチュー」(このおかしなタイトルはグレン・ミラーの同名のヒット曲から来ている)だと思う。
「チャタヌーガ・チューチュー」には「ヴァニシング・クリーム」というものが登場するが、このクリームは目や鼻、顔全体、あるいは性器さえ消すことができるもので、男女がこのクリームを使って性的争闘を繰り広げるのである。性器を消去された「ぼく」をめぐるドタバタが中心になっていて、まさに抱腹絶倒のコメディである。
 あの重厚な『夜のみだらな鳥』や『別荘』の作者が書いたとは思えないほどに肩の力の抜けた作品で、作中で「ぼく」が「こういう現実離れした出来事というのは、熱帯の作家の新しい小説の中でしか起こらないことだ」などというに及んでは、冗談が過ぎるとさえ言いたくなる(これはコロンビアの作家ガルシア・マルケスの『百年の孤独』への言及であろう)。
『ロリア侯爵夫人の失踪』も極めて不真面目な作品である。ロリア夫人の最初の冒険は、義母の代理人、老いたるドン・マメルトとの間で行われるが、マメルトは行為の途中で死んでしまう。このあたりも十分にドタバタ的であるが、冗談が過ぎるのはルナという犬が登場してからである。
 ロリア夫人の最後の相手は運転手のマリオ。二人が後部座席で行為に及んでいる間、ルナは背もたれに前脚をかけて二人の行為をじっと見つめながら吠え立てる。思わず吹き出さずにはいられない場面である。
 この犬が何を寓意しているかは簡単に分かる。ロリア夫人はこの犬と一緒にレティロ公園の中へ消えていくのだが、ロリア夫人が二度と現れないのに対して、ルナは最後に従順な姿でもう一度現れる。ロリア夫人の日常性からの逸脱に対して、ルナの日常性への従順を対置させているのである。
 しかしそんなことがどうでもいいほどに、この犬の効果は絶大である。ルナとロリア夫人の共犯関係はあまりに滑稽で、不真面目としか言いようがない。こんな度を過ぎたドタバタも、ホセ・ドノソという作家の重要な素質のひとつなのである。

ホセ・ドノソ『ラテンアメリカ文学のブーム――作家の履歴書』(1983,東海大学出版会)内田吉彦訳


新村苑子『葦辺の母子』刊行

2015年10月07日 | 玄文社

 

 玄文社では4日、新潟市在住の新村苑子さんの小説集『葦辺の母子』を刊行しました。四六判272頁、定価1,600円(税込)。
 新村さんは1998年から東京の同人誌「文芸驢馬」に参加して、小説を発表し続けてきたベテランで、2010年からは玄文社発行の同人誌「北方文学」同人としても活動を続けてきました。このところ新潟水俣病をテーマにした作品を書き続けて注目されています。
 2012年には玄文社から『律子の舟』を刊行。「新潟水俣病短編小説集Ⅰ」のサブタイトルを持つこの本は、昨年度の第17回日本自費出版文化賞で小説部門の部門賞に輝き、同じく昨年度の第7回新潟出版文化賞では選考委員特別賞(新井満賞)を受賞しました。
 今度の『葦辺の母子』も「新潟水俣病短編小説集Ⅱ」のサブタイトルを持つ作品集で、『律子の舟』の続編であります。『律子の舟』は新潟水俣病について新潟弁で書かれた最初の小説集で、いわば「新潟弁で書かれた『苦海浄土』」として位置づけられますが、『葦辺の母子』はその第二弾ということになります。
 表題作「葦辺の母子」は胎児性水俣病の子を持ち、自らも水俣病に苦しむ母子の、周囲からの偏見と差別に苦しむ姿を描いた作品で、いきなり母子の入水の場面を描いて心を打ちます。帯につかった「川の記憶」に登場する、のぶえ婆さんの「いつになったら、こんげなこどが終わりになっかんだやら。川が濁って魚が腹出しながら、沢山(こったま)流れてきた時の騒ぎが嘘みてに、今はそんげなこどはねがったみてに、川の水は青々と澄んで流れてるがな。娑婆も川みてにならんかのう」とう言葉が感動的です。
 『律子の舟』と同様に、新潟水俣病に関わる無理解な差別と偏見に苦しむ患者達を描いた作品も多くありますが、一歩進んでそうしたものを乗り越え、昭和電工と国に対して立ち上がる人々の姿も描いて、新しい境地を感じさせます。小説としての完成度も格段に上がっていると思います。


ホセ・ドノソ『ロリア侯爵夫人の失踪』(1)

2015年10月04日 | ゴシック論

 ホセ・ドノソの新刊が出たので、早速買って読んだ。水声社から出ている「フィクションのエル・ドラード」の一冊で、1980年に出版された『ロリア侯爵夫人の失踪』である。
 これでドノソの作品は『境界なき土地』(1966)、『夜のみだらな鳥』(1970)、『三つのブルジョア物語』(1977)、『別荘』(1978)、『隣の庭』(1981)と、主要な小説作品の翻訳が揃ってきた。残すは1986年の『絶望』くらいか。
 私がラテンアメリカ文学のもっとも重要な作家と考えているホセ・ドノソの作品は、『夜のみだらな鳥』が1983年に翻訳されて以来、他にはまったく日本に紹介されてこなかった(「この日曜日」という作品が1973年に『筑摩世界文学大系』に入っているが、この時も注目されることはなかったし、今では手に入らない)。他の作家の作品が複数翻訳されていたことを考えると、無理解も甚だしいと思わざるを得ないが、『夜のみだらな鳥』があまりにも難解であったためだったのだろう(『別荘』の方が先に訳されていれば決してそんなことにはならなかっただろう)。
 このところ次々とドノソの作品が紹介されるようになったのは、ラテンアメリカ文学が一時のブームではなく、きちんとした評価のもとに定着してきたことを意味していると思う。それも現代企画室の「ロス・クラシコス」と水声社の「フィクションのエル・ドラード」の二つの叢書、そして国書刊行会の出版活動のお陰である。さらに言えば、このところ超人的な翻訳活動を続ける寺尾隆吉の努力の賜と思う(『ロリア侯爵夫人の失踪』もこの人の訳)。
 ビオイ=カサーレスの項で、ゴシック小説とラテンアメリカ文学との深い関係について一定の見通しを立てたと思うが、ラテンアメリカの作家の中でもっともゴシック的な作家は間違いなくホセ・ドノソである。ホセ・ドノソはアルゼンチンの隣国チリの作家であり、ゴシック小説受容に関してチリがアルゼンチンやウルグアイと同じような事情のもとにあったのかどうか、是非知りたいところである。
 チリもまた、ほぼ完全な白人社会と言われているが、例のCIAの資料を見るとチリの人種構成は、メスチソが95%、その他(インディオや黒人以外の他民族)が5%となっている。純粋な白人はおらず、白人とインディオの混血がほとんどを占めていることになっているが、このメスチソというのが分からない。
 CIAの資料によると、メスチソは白人とインディオとの人種的混血を意味するのみならず、人種上のインディオでも、もともとの言語ではなくスペイン語を話すようになった者も意味しているという。つまりは準白人ということか。ならばチリは準白人社会ということになるだろう。
 ホセ・ドノソにも、マルケスやリョサのような土俗的で呪術的な素質はない。『夜のみだらな鳥』を読めば分かるように、そこには極端なほどの精神的ゴシック性があって、それはやはりヨーロッパ的な精神性に直結しているのである。
『別荘』は『夜のみだらな鳥』とはまるで違った味わいの傑作であるが、そのゴシック性において共通しているし、どちらも南米的な土着性を感じさせることはない。いずれこの二大傑作に挑戦しなければならないし、それこそが私の最終目標なのであるが、今は『ロリア侯爵夫人の失踪』について書かなければならない。
 とにかくドノソの『夜のみだらな鳥』と『別荘』は、あまりにも巨大な金字塔であって、うかつに近づくことが出来ない作品である。ドノソについてはこれまで、『三つのブルジョア物語』の中の「夜のガスパール」に触れたのみであるが、このような周辺作品から近づいていくしかない。

ホセ・ドノソ『ロリア公爵夫人の失踪』(2015,水声社「フィクションのエル・ドラード」)寺尾隆吉訳

 


アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(8)

2015年10月04日 | ゴシック論

『モレルの発明』と『脱獄計画』の違いのひとつとして、語りの構造の違いを挙げておかなければならない。『モレルの発明』も『脱獄計画』も、章立てのない日記形式で書かれていて、そこは共通している。
 しかし、『モレルの発明』が主人公の一人称で日記が綴られているのに対して、『脱獄計画』では主人公ヌヴェールの叔父である「わたし」が、ヌヴェールからの手紙の文章を引用しながら、物語を三人称的に語るという違いがある。
 もちろん『脱獄計画』の方が語りの構造が複雑になっているのであり、ほぼ三人称に近い語りの構造になっていると言ってもよい。だから『モレルの発明』では、不可解な現象に対して主人公がストレートに反応するのに対して、『脱獄計画』でヌヴェールの叔父はヌヴェールの視点を借りながらも、彼に対して第三者的な態度を取り、不可解な現象に対しても冷静に対応することになる。
『脱獄計画』にも『モレルの発明』のように、女性に対する主人公の愛が描かれているが、ヌヴェールの許嫁に対するストレートな愛情表現は、叔父によって冷笑的に受け止められる。『モレルの発明』で主人公がフォスティーヌに対する愛を貫くのとは大きな違いである。
 訳者の清水徹は『モレルの発明』における愛のテーマを過大視しているが、『脱獄計画』を見れば、それがそれほど大きな比重を占めているのではないことは一目瞭然である。どちらも仮想現実とそれに対する主人公の対応が主要なテーマなのであって、愛のテーマが中心にあるわけではない。
 ところで話は戻るが、『脱獄計画』がヨーロッパの文学と太い靱帯で結ばれていることを我々は見てきた。ラテンアメリカ文学というと、ガルシア・マルケスやバルガス・リョサの作品におけるように、複雑に入り組んだ人種構成を背景に、土俗的あるいは呪術的なテーマを前面に出した文学(二人の作家のすべての作品がそうだというのではないが)を思い浮かべるが、ビオイ=カサーレスの場合は事情が違っている。
 CIAによる2009年の資料を見ると、アルゼンチンの人種構成は白人が97%、メスチソが3%、ウルグアイのそれは白人が88%、メスチソが8%、黒人が4%となっている(メスチソとは白人とインディオの混血のこと)。
 つまり、アルゼンチンとウルグアイは、ほとんど白人だけの国なのである。それは他のラテンアメリカ諸国の人種構成とまったく違っている。他と違ってアルゼンチンとウルグアイはもともと人口密度の低い地域で、インディオの人口が少なかったことが歴史的背景となっているようだ。 
 しかも両国の白人はスペイン人だけでなく、19世紀半ばからイタリアなどからの白人の移民を大量に受け入れたために、一層白人の比率が高くなる結果を生んだ。モンテビデオで少年時代を過ごしたフランス人イジドール・デュカスなどもその一人であった。
 だからラプラタ河流域地域は、ほとんどヨーロッパからやってきた白人が居住する地域なのであり、そのためにヨーロッパの文学の流入が最も早かったのだと考えられる。そしてもちろん、ゴシック小説の流入も最も早く、それがいわゆるラプラタ河流域幻想文学というものを生んだ背景にあるのだ。
 だからボルヘスを筆頭とするこの地域の作家について考える時に、こうした背景を忘れることは出来ない。アルゼンチンとウルグアイは、ヨーロッパとほとんど地続きの国であったと言ってもいいだろう。
(この項おわり)


アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(7)

2015年10月02日 | ゴシック論

 阿部良雄訳による第一連を参照してみよう。

 〈自然〉はひとつの神殿、その生命ある柱は、
 時おり、曖昧な言葉を洩らす。
 その中を歩む人間は、象徴の森を過り、
 森は、親しい眼差しで人間を見まもる。

 この部分が、カステルの理論「われわれは、あらゆるものを表現しうる象徴の総体として世界を記述することができる」に影響していることは明らかである。さらに最終連も見てみよう。

 無限な物とおなじひろがりをもって、
 龍涎、麝香、安息香、薫香のように、
 精神ともろもろの感覚との熱狂を歌う。

この部分もやはり、カステルの「われわれの感覚の配列を変えるだけで、あの自然界のアルファベットによるべつの言葉を読むことができるだろう」という理論に対応していることが分かる。
 私には『モレルの発明』にそれほど深い形而上学を読み取ることは出来ないのだが、むしろ『脱獄計画』の方にこそ、人間の感覚や認識のあり方と世界像との関係についての深い考察を読み取ることが出来ると思う。
 ビオイ=カサーレスの『脱獄計画』は、単に不快で忌まわしい人体改造についての物語に止まるのではなく、ヨーロッパの文学思潮(ボードレールの「万物照応」は象徴主義の原点とされている)と深く結びついているのである。
 しかし、カステル総督の実験が忌まわしいものであることは否定しようもない。脳の手術を施すことで人間の感覚の配列を変え、新しい世界を現出させようなどという試みを我々は許容することが出来ない。
『モレルの発明』では、極めてSF的な発想に基づいたホログラムというスマートな装置が中心的役割を果たしているが、『脱獄計画』ではモロー博士の動物改造手術のような、即物的で不快な実験が中核をなす。
 私はここで、イギリス恐怖小説の三巨匠の一人と言われる、アーサー・マッケンの「パンの大神」という作品を読んだ時の不快きわまりない印象を思い出さないわけにはいかない。
 この小説は、ある少女が脳の手術を受けて「感覚というものの固定した壁」を破壊され、パンの大神を見てしまうシーンから始まる。少女は長じて、パンの大神と通じ、「淫楽の化身となり、多くの男を淫楽のとりこにして殺していく」(訳者平井呈一による要約)という物語である。
 ビオイ=カサーレスがH・G・ウェルズだけでなく、アーサー・マッケンを参照していることは明らかであるが、性的な要素を排除しているだけマッケンよりも穏当である。しかもマッケンのように太古の神といった超自然的なものを持ち出さないだけ、不快感は少ない。
 しかし、感覚の改変によって世界像が変えられてしまうという現象を、ビオイ=カサーレスは、カステル総督はじめ悪魔島の囚人達の体験を通して描いているのであり、そのことは人間にとって現実とは何か、という問いにつながっていく。
 仮想現実の中に投げ込まれた人間が、自分が見ている世界こそが現実だと思いこみ、現実と仮想現実との区別がつかなくなるという悪夢のような世界を好んで描いたのが、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックである。
 ディックはその多くの小説で人間にとって現実世界とは何か、あるいは、人間にとって自分が自分であるということはどういうことであるかというテーマを一貫して追究した作家である。ビオイ=カサーレスの『脱獄計画』のテーマは、後のこのようなSF作品に引き継がれていったのかも知れない。

アーサー・マッケン「パンの大神」(1969,創元推理文庫『怪奇小説傑作集1』英米編Ⅰ)平井呈一訳


アドルフォ・ビオイ=カサーレス『脱獄計画』(6)

2015年10月01日 | ゴシック論

 カステル総督はどんな作業を行っていたのか? 悪魔島における破局の後に、カステルは書面でヌヴェールにすべてを明らかにする。カステルは「刑務所の壁を自由の沃野にする」実験を試みていたのである。囚人達の"解放"のために。
 ヌヴェールとドレフュースは悪魔島で、二人の囚人の不可解な死に立ち会い、カステル自身の不思議な行動に出くわし、そして〈神父〉と呼ばれる囚人の恐怖に満ちた叫びを聴くことになるが、それらの謎もカステル総督の書面によって解明される。
 カステル総督は次のようにヌヴェールに書き残している。そこにはカステルの人間の感覚や認識に対する思想が示されている。
「われわれの世界は感覚が生み出す統合体であり、顕微鏡はまたべつのものを生む。感覚が変化すれば、イメージも変化するだろう。われわれはあらゆるものを表現しうる象徴の総体として世界を記述することができる。われわれの感覚の配列を変えるだけで、あの自然界のアルファベットによるべつの言葉を読むことができるだろう」
 つまり、世界は我々の感覚によって構成されているのであるから、我々の感覚を変えてやれば我々にとっての世界も変化する。それは人間と犬や蝶、魚や鳥の棲む世界がまったく違っていることからも明白なことである。
 だからカステル総督は人間の脳にメスを入れることによって感覚を変化させる、つまり「苦痛を快楽に、刑務所の壁を自由の沃野に、変えることが出来る錬金術」を彼は手に入れようとするのである。
 カステルもまた、モロー博士のようなマッド・サイエンティストであるのだろうが、モロー博士のような邪悪な意志を持ってそうするのではなく、囚人に対する愛情を持ってそうするのである。「脱獄計画」というタイトルはだから、牢獄からの脱出ではなく、感覚の改変によって牢獄に居ながらにして、そこに自由な世界を現出させようという計画を意味している。
 ところでビオイ=カサ-レスは、こうしたカステルの思想を補強するために、さまざまな文学作品を引用している。ウィリアム・ブレイクの「空を渡る鳥が悦楽の広大な世界でないと五感に閉じこめられたお前に、なぜ分かるのだ?」という一節や、ランボーの「Aは黒、Eは白、Iは赤」という音と色彩との照応を歌った「母音」というソネットの一部が効果的に使われている。
 またここでは、ボードレールの「万物照応」Correspondancesという作品の基調が支配的である。ボードレールは言葉の世界における五感の共鳴と、知性と感覚の交感を予定調和的に歌ったのだったが、ビオイ=カサーレスはそれを肉体の世界に翻案しようとしているのである。
 ちなみにCorrespondancesを原文で掲げておく。

  La Nature est un temple où de vivants piliers
  Laissent parfois sortir de confuses paroles;
  L'homme y passe à travers des forêts de symboles
  Qui l'observent avec des regards familiers.

  Comme de longs échos qui de loin se confondent
  Dans une ténébreuse et profonde unité,
  Vaste comme la nuit et comme la clarté,
  Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.

  II est des parfums frais comme des chairs d'enfants,
  Doux comme les hautbois, verts comme les prairies,
  — Et d'autres, corrompus, riches et triomphants,

  Ayant l'expansion des choses infinies,
  Comme l'ambre, le musc, le benjoin et l'encens,
  Qui chantent les transports de l'esprit et des sens.