もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

カープ・死に馬考

2021年10月11日 | カープ・スポーツ

 自分の記憶では、昭和30年代後半、ペナントレース最終盤に優勝目前の西鉄ライオンズは、最下位の近鉄バッファローズとのダブルヘッダーに連敗し、結果的には優勝を逃すことになった。この試合後に「知将」と呼ばれていた西鉄三原脩監督が記者に対して「死に馬に蹴られたようなもの」と吐き捨てた言葉が、今ならば流行語大賞になるほど流布されたと思っていた。
 ブログ作成に際してネットで検索してみると、死に馬発言は《1962(昭和37)年、優勝争いしていた大洋ホエールズの監督であった三原氏が、最下位に低迷する対国鉄戦の、それも8番打者の平岩嗣朗捕手に、先制と中押しのタイムリーを打たれて負けた際、「1年に3回しかヒットを打たない打者にタイムリーされるようじゃ、死に馬に蹴られたのと同じだ」》と発言したとされている。
 いずれにしても、対戦相手や個人を「死に馬」に例えることは、現在では間違いなく侮辱罪・名誉棄損・慰謝料請求に該当する発言であろうが、憤懣やる方の無い表現としては秀逸であるように思う。また、「死に馬に蹴られる」は博打場の慣用句として古くから使用されていたともされているので、麻雀好きの三原氏にあっては日常から使い慣れた言葉であったのかも知れない。閑話休題。

 今年のペナントレースも終盤であるが、カープの直近の上位3球団との対戦成績は「阪神戦3連勝」、「ヤクルト戦3連敗」、「巨人戦3連勝」であり、ヤクルトのマジック点灯はカープの戦績の結果であるように思える。昨日のプロ野球ニュースで解説者の金村義明氏が「巨人の3位も黄色信号」としていたが、カープファンと雖もそれほどの展開までは期待していない。
 ともあれ、温厚な紳士である阪神の矢野監督や巨人の原監督は広島戦の3連敗について、「死に馬(カープ)に蹴られた」とは絶対に口にしないであろうが、三原監督に由来する諸事を知っているオールドファンの家庭や仲間内の酒席では、この言葉が飛び交っているのではないだろうか。

 ここに来て、打線の援護を得られなかった森下投手が後半戦初勝利、栗林投手が新人王当確の連続セーブ、坂倉選手若しくは鈴木誠也選手の首位打者、と心浮きたつ昨今である。


大谷翔平選手のシーズン終了

2021年10月04日 | カープ・スポーツ

 MLBの大谷選手のシーズンが、9勝、37本塁打で終わった。

 タイトル獲得やベーブ・ルース超えは成らなかったものの、投打ともに極度に分業化した近代野球で誰も成し得なかった二刀流で魅せた大谷選手に対して、アメリカのメディアもリーグMVPは99%確実とまで報じている。端麗な容姿、米人に伍せる体躯、国立大合格必至と云われた学力、研鑽を忘れない姿勢、金銭に恬淡とされる私生活、・・・、将に非の打ち所がない好青年であるが、捻くれた老人としては、せめて悪性の水虫くらいは持っていて欲しい気がする(謝罪)。閑話休題。
 大谷選手は、投手と外野手の二刀流であるが、日本のプロ野球には投手を含め全ポジションを守った、究極の「ユーティリティープレイヤ」が二人いる。
 1人目は南海・日本ハム・ロッテに在籍した「高橋博士」選手である。
 日ハム時代の1974(昭和49)年、高橋選手は既に投手・左翼・右翼を除く6ポジションを経験していた。本拠地・後楽園のシーズン最終戦(9月29日の対南海)で中西太監督が考えた「高橋にイニングごとにポジションを変えさせる」というファンサービスによるもので、初回/ファースト、2回/捕手、3回/サード、4回/ショート、5回/セカンド、6回/レフト、7回/センター、8回/ライトの後、9回には投手として初体験のマウンドに立ち、プロ野球史上初の記録を達成した。
 2人目は、ロッテ、オリックス、近鉄でプレーした「五十嵐章人」選手である。高橋選手がファンサービスとして1日で記録を達成したのに比べて、プロ入りから10年かけての達成である。
 既に投手と捕手以外の7ポジションは経験していたロッテの五十嵐選手は、1995(平成7)年5月7日の対オリックス戦、2人ベンチ入りしていた捕手のうち先発捕手が途中交代、2番手も8回に球審を小突いて退場処分となり捕手がいなくなってしまった。已む無く中学時代の練習でマスクを被った経験だけの五十嵐が急造捕手を務めた。そして5年後、オリックスに移籍していた五十嵐選手は、2000(平成12)年6月3日の対近鉄戦で投手としてマウンドに上がることになった。3-16と大きくリードされ、なおも無死三塁のピンチに、仰木彬監督が「白旗を掲げた」と無経験の五十嵐をリリーフに送った。五十嵐選手は何とか投げ切ったものの、本職ではない投手との対戦を嫌った相手選手が意味の無い送りバントをしたり、近鉄・梨田昌孝監督を白けさせたことなどから、高橋選手の時のようなお祭り・祝賀ムードでの記録達成では無かったようっである。また、五十嵐選手は近鉄移籍後の2002年には史上6人目の全打順本塁打も達成しており、「全ポジション守備」と「全打順本塁打」の両方を実現した最初(現在まで唯一)の選手ともなった。

 我がカープにも、堂林・松山・安部・坂倉・中村奨成・上本と複数ポジションをこなす選手が多いが、出場機会を得るためや球団事情に因ることが大きいようである。
 一般社会でも、どの業務でもそつなくこなして一定の成果を挙げる便利屋的な存在が居ると思うが、器用貧乏の評価で終わることが多いのではないだろうか。我が身を振り返えれば、周囲には見当たらないほど多くの勤務地や業務に補職されたのも、そんな評価によってであったのかとも思えるが、残念ながら「不器用貧乏」の実績に終わったようである。


オリンピック・カープ・稲葉監督

2021年08月11日 | カープ・スポーツ

 侍ジャパンが悲願の金メダルを勝ち取った。

 リーグ戦で低迷するカープから5名も選出(会澤捕手は負傷辞退)されたが、カープファンであっても若年の森下は中継ぎ、栗林は平良の前のセットアッパー、菊池は浅村・山田とポジションが重複することから守備固めに、鈴木は対戦投手の左右によって起用と控えめに予測していた。しかしながら稲葉監督は、森下は先発、栗林はクローザー、鈴木は全試合4番、二塁手は浅村1塁・山田DHとして菊池がフル出場、といずれも予想を超えるものとなった。
 これは、門外漢には思い及ばない稲葉監督の緻密なチーム編成や透徹した戦略眼に負うもので、金メダル獲得も当然の帰結かと敬服している。
 単一目的を達成するためには、相応しい人員と必要な器材を集約して、軍事組織では任務部隊を民間組織ではプロジェクトチームを編成することが一般的であるが、侍ジャパンは金メダル獲得のための任務部隊で、稲葉監督が招集した人員は、将に目的達成に相応しい人材であったのだろう。
 また、戦い方においても、MVP制度が有れば最有力視される甲斐を9番から動かさず、結果的には最高の場面で甲斐に打順が回ったという点も見逃せない。短期決戦では「調子のよい選手」「前試合でのヒーロー」を厚遇することも多いが、稲葉監督の打順固定は長期のリーグ戦を戦う選手起用法であり、云うに易く・行うに難い「適材適所」の好例であるように思える。リーグ戦再開後の佐々岡監督も参考として頂きたいものである。

 立憲民主党の枝野代表が、選挙までの間「コロナ制圧のための枝野内閣禅譲」を表明したことがある。自分ならば、自分の指揮する内閣(閣僚)であれば、もっと有効な対処ができるとの趣旨からの発言で、コロナ撲滅任務部隊指揮官就任を求めるものであったが、担任閣僚の指名や実際の方策を示すことも無く、一過性のパフォーマンスに終わり「対案を持たない立民」を一層際立たせることにしかならなかった。それならばと気負いこんだ「ゼロコロナ政策」も、中長期の感染症対策に過ぎず、加えて財政的な裏付けを考慮しないというお粗末なお家芸の披露に終わったと思っている。
 コロナ禍は野党に起死回生の最大のチャンスを与えたものと思うが、これまでのところ、野党の実績は一流店のステーキの値段と高級官僚の会食費用を明らかにできた程度に留まっている。
 新聞・週刊誌記事の読み聞かせが最大の使命と心得るかの野党闘士では、刮目すべき政策の立案・断行によるドラスティックな改革・現状変更は、期待できないように思える。
 現在の野党の最大の不幸は、プロパガンダ・印象操作に長けた議員には事欠かないものの、経綸を唱え・行動する議員が見当たらないことで、若し仏(政権)を作ってもの魂の無いハリボテになるのは間違いのないところと思っている。それとも、魂は中国本土の人民大会堂に安置されているのだろうか。


西竹一氏と鳳城の花嫁

2021年08月04日 | カープ・スポーツ

 オリンピック馬術個人種目で戸本一真選手が、日本人として89年ぶりとなる入賞(4位)を果たした。

 実況を見ていないので、89年前の日本人入賞者をどのように紹介したのかは知らないが、夜のNHK番組では櫻井翔氏が「西竹一さん以来の入賞」と簡単(冷淡?)に紹介していた。
 ご存じの方も多いとは思うが、西竹一氏は、男爵・陸軍大佐(戦死特進)で、愛馬ウラヌス号を駆ってオリンピックを制覇したダンディである。男爵(バロン)という恵まれた境遇もあって、自費で購入したウラヌスとともに1932(昭和7)年ロサンゼルス大会の馬術「障害飛越競技」で金メダルを獲得、1936(昭和11)年のベルリン大会では落馬、棄権したものの、以来、日本人は馬術競技でメダルを手にしていない。
 クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作のうち、硫黄島戦を日本側から描いた2作目「硫黄島からの手紙」では井原剛志演じる西中佐がエルメスの乗馬靴姿で指揮し、戦死を暗示する場面は棚に置かれた乗馬靴のアップであったと記憶している。
 自国開催五輪の英雄である西中佐が硫黄島で戦車隊を指揮していることを知ったアメリカは、損害を無視して摺鉢山に艦艇を接近させて拡声器で「バロン西、出てきなさい。世界は君を失うにはあまりにも惜しい」と投降を呼びかけているが、西中佐が応じることは無かった。
 また、硫黄島赴任前に別れのため訪れた西中佐を狂喜して迎えたとするウラヌスも、西大佐を追うように1か月後に死んだとされている。
 このことを知ったのは、術科(海自技能)教育を受けていた昭和40年代であった。教育は映写機の操作実習であったが教材として使用されたフィルムは米軍の広報映画で、その中に西中佐に投降を呼び掛ける1本が含まれたいた。驚きであったのは、フィルムがカラーであり、日本では漸くに毎秒16コマのギクシャク映像が24コマの滑らか映像に変わった頃、既にカラー撮影技術が・それも最前線での撮影に使用されていたアメリカの国力であった。

 日本で劇場映画がカラーとなったのは、1957(昭和32)年4月公開の東映「鳳城の花嫁」である。当時のキャッチフレーズは「総天然色・シネマスコープ」であったと記憶している。公開当時は映写機やスクリーンの関係で上映可能映画館は極めて少なく、地方都市の自分が見たのは公開されて些か時日が経った頃と思えるが、総天然色・シネスコ画面になるのは、主演の大友柳太朗・中原ひとみが顔合わせする場面からであったと記憶しているが、突如として天然色・大画面に変わった瞬間には館内が拍手喝采で満たされた記憶がある。
 画期的な作品とは言え、主演がスーパースターとまでは呼べない大友柳太朗・中原ひとみであったのは、上映館数の問題以上に、大コケしてスーパースターに傷を負わせるのを防ぐという営業サイドの思惑があったのではと今でも思っている。


オリンピック開催

2021年07月21日 | カープ・スポーツ

 本日のソフトボール予選リーグを皮切りに東京五輪が開催される。

 東京大会は、人類史上初めてのパンデミック下開催であれば、成功・不成功に関わらず試金石として評価され、以後の国際大会の動向に大きく影響するという運命的な五輪になると考える。
 やや意外に思われたのは、直近の世論調査で五輪に期待していると答えた人の割合が、反対意見とは拮抗するものの僅かながら上回ったとされていることである。ネット上やメディアで開陳される意見の多くが開催に懐疑的若しくは反対であることを思えば、それらは決して「世論」では無かったことを示しているように思われる。
 そのことを考えてみると、反対者は何らかの意思を発信できるツールを持っていることが多いために情報量(質ではない)としては世情に溢れ、恰も世論であるかの印象を与えてきたが、意見発信のツールを持たない真の「声なき声」「サイレントマジョリティー」は別に存在し、無作為・不特定を対象にした世論調査によって”チラリ”と姿を見せたように思われる。閑話休題。
 昨日の民法番組で、記憶に残る金メダリストや金メダル獲得の瞬間を特集した番組を見た。自分はそれらの多くが新聞やニュース映像で見たもので、リアルタイム映像に接したのは公務災害(負傷)で入院していた東京大会を除けば2012年のロンドン大会以降であると懐かしく思った。リアルタイムで見ることができなかったのは、ある時は衛星中継技術・放映権の所為であり、ある時は航海中であり、ある時は艦に1台のテレビが上級者の連続ドラマ視聴に占拠されていたためである。
 自分の現役時代の艦艇におけるTV視聴について紹介すると、TVは士官室・先任海曹(CPO)室、科員食堂に各1台設置されていたが、当然のことながらチャンネル権は各室の先任者が握っていた。特に科員食堂では概ね50歳前後の1等海曹から20歳前後の2等海士までの共用であり、若年者の好む番組にチャンネルが合わされることは殆どなかった。また、受信アンテナが指向性アンテナであることから、航海中は進路変更で、投錨停泊中は艦の振れ周りによって、視聴中の画面が砂嵐画面に一転することは避けられなかった。さらに陸岸から50マイルほど離れればテレビ電波が届くことは無かったため、若年者は良い意味でのテレビ離れ環境に置かれていたように思っている。
 現在では、TV受像機は各居住区のレストエリアにまで設置され、受信アンテナは無指向型と衛星アンテナが装備されているので、ほぼ陸上生活と同等に改善されているようであるので、若い隊員も好みの番組に浸ることができるようである。

 自分はこれまで五輪開催の是非に口を噤んできたが、オリンピック東京大会が「東北大震災を克服」し「中国コロナ制御に成功しつつある」現状を世界に示すものであって欲しいと願うものである。
 出場選手と大会関係者に限りないエールを送って・・・・。