森友文書書き換えの全貌らしきものが公表された。
書き換えの箇所や書き換えの内容はさておき、問題とすべきは、国有地売却交渉の担当者や書き換え前の文書(以下「原議」という。)の起案者及び決済者の心根の卑しさが根本をなしていることであると考える。財務省と財務官僚には、国家予算の原案を作成する任務があることから、外交・安全保障までおよそ予算を必要とする国の事業の全てに生殺与奪の権限を有しており、国の舵取りを主導しているという矜持があったものと思う。まさに許認可の極致とも云うべき権能を有している財務官僚には、多くの誘惑ないしは働き掛けがあるのは当然であろうが、それらに右顧左眄することなく正道を貫くのが行財政の王道であり、公僕としての責務であった筈である。しかしながら、今回公表された原議では、財務省の権限に属する事案が土足で踏みにじられ、外圧に負けて責務を放棄する有様が赤裸々に綴られている。もし、書き換えられた憶測・忖度に基づく部分の全てが事実であったとしても、自律の崩壊を公文書として後世に残そうとした心情が理解できない。権限には相応の責任が伴うものであり、そこには当然のことながら「墓場まで持っていかなければならない」過失や悔悟があるものと思うが、公文書を書き換えてでも守ろうとしたのは何だったのだろうか。レイテ沖海戦で謎とされる艦隊反転を行い、今一歩のところで任務達成に失敗した栗田中将は、戦後も一貫して真相を語らずに戦史研究家の判断と罵倒に耐えた。沈黙の善悪は別にして、自己の職責内で行った判断と命令により生じた結果は従容として受け入れる覚悟は、範とするに十分な処世観(社会的な抹殺を受容する死生観)ではないだろうか。
厚労省のデータ改ざん、文科省の事務次官罷免に引き続き発覚した、最強省庁とも呼ばれる財務省の不祥事。高級官僚には学歴よりも学識・徳操の方が必要ではないのだろうか。