過去3年分の自分のブログ記事タイトルを自分流に区分けして、取り出しやすいようにリンクを張ってみた。
一覧をつらつら眺めるに、全般的な傾向として自分はネトウヨと呼ばれる範疇であるように感じた。一般的にネトウヨとは『広義にはインターネット上で右翼的・保守的・国粋主義な発言や行動を取る人々の略称であるが狭義の捉え方は各個人によって差異がある』とされている。一方、ネット上で左翼的な論調をする人々に対しては対義語として「ネトサヨ」なる言葉があり、当然のことながら両者についての明確な定義はなく、単に双方が相手を問答無用に罵り・蔑むための曖昧ツールとして定着しているらしい。
自分は、なるべく反対の意見を持つ人の主張(ネトサヨ?)も読むことにしているが、「成程!!そうなんだ」と全面的に共感する場合よりも、ちょっと「ここは違うのでは?」と思うことの方が多いのは、やはりネトウヨ膏肓の故であるのだろう。
ウヨ・サヨ分岐の時期や契機は様々であろうが、自分を振り返れば極東軍事裁判(東京裁判)関係の資料(勿論公刊の雑誌であるが。)を読んだことではないだろうかと思っている。高校卒業までの我が家の購読紙は朝日新聞で、昭和31(1956)の田英夫氏「第1回南極観測船(宗谷)同乗記」は今も鮮明に覚えており「天声人語」は毎日読んだ記憶があるが、朝日新聞の左傾記事にも影響も受けず、入隊後にもさしたる思想教育は受けないまま、東京裁判記録に影響されたのは海曹(下士官)になって艦内生活に若干の余裕が生まれた20代後半であった。
さらに、自分の生国は教育委員会の左傾ぶりが報じられたり歴代革新系議員を選出するというお国柄であるので、教師からは些かの自虐・反日教育は受けたであろうが、先生の言葉など右から左の悪童であったことも幸いしているのかも知れない。閑話休題。
自分も、自説補完のために他国を引き合いにして《どこどこの国では・・・》とすることも多いが、この姿勢を「ではの守」と呼ぶらしい。
些か手遅れの感じではあるが、ネトウヨ気質を改め(薄め)るとともに、「ではの守(かみ)」までに至らぬ「ではの掾(じょう)」程度に留めようと思っている。
記事中に触れた田秀夫氏をウィキペディアで振り返ってみた。秀夫氏の祖父は勅選議員や台湾総督を務めた男爵健治郎氏、父は鉄道省国際観光局長や華中鉄道副総裁を勤めた男爵誠氏で、秀夫氏は将に華族のおぼっちゃまである。英夫氏は東京帝国大学入学直後の1943(昭和18)年に学徒出陣で海軍兵科第4期予備学生となり昭和19年に少尉任官、本土決戦に備える第16震洋特別攻撃艇隊長として宮崎県の赤水基地(現延岡市)に配属され訓練を重ねていたが、終戦により海軍中尉で復員したとなっている。
海軍の絆からであろうか、政治姿勢は異なるものの中曽根康弘元総理(海軍主計少佐)との親交も篤かったとされている。
一般に知られている学生活動家に旗竿を報道用車両で運んでいたというような生易しい行為ではありません。
田秀夫が運んだかもしれない火炎瓶で、20歳前後の若い機動隊員が顔をケロイドにされたり、全盲ではありませんでしたがほぼ失明したりしています。それも1人ではなく何人もです。
地方出身の農家の三男四男は一生残るケロイドや引き吊った顔・手足、見えなくなった眼で一生生活することになりました。
貴重な情報を有難うございました。
中核派活動家の大坂正明の長期潜伏や元赤軍派中央委員重信房子の帰国・潜伏などを見ると、我々が想像する以上の左翼ネットワークが存在するのでしょう。
田氏の疑惑などもその一環かと思えば、相当上位の階層にまで、ネットワークは浸透しているのでしょうか。
田秀夫が火炎瓶、竹槍、鉄パイプをハイエースワゴンに満載して警察の検問を報道の特権で通過していきました。運搬は何度も繰返して。
正義に燃えていた同僚が鉄パイプで滅多打ちにされた上に火炎瓶を何本も叩き付けられて焼かれ、数分後にバケツの水を自分の軍手に染み込ませて同僚の身体を握るとジュジュと音を立てて軍手の指が炭化してしまった同僚の身体にめりこんでいく。こんな体験はもうしたくありません。
この日も現場以外の日本社会全般は平和で平穏、のんびりとした時間が流れていました。戦争と違って、死ぬのは相手でもなく、市民でもなく、自分たちだけという異常な闘いでした。
大変失礼しました。
コメントを読めば、匿名様が「当事者」であり、田氏の行為が疑惑ではなく事実であることが読み解けたはずです。自分の読解力の欠如を痛感致しました。
ご指導を機に、成田闘争を勉強し直します。