もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

必要最小限を考える

2022年11月29日 | 防衛

 岸田総理が関係閣僚に、改めて防衛費の増額要求を指示したことが報じられた。

 これによって、自衛隊装備の近代化や充実が現実味を帯びてきたが、今後は装備の質・量について「必要最小限」を冠した甲論乙駁の展開となるだろう。
 しかしながら、「必要最小限」という定性的な度量衡は果たして適当だろうか。例えば「戦車100両」又は「ミサイルの射程100㎞」は、甲にとっては「最小限に満たない」が乙にとっては過剰と考えるだろう。

 必要最小限の概念で思い出されるのは、日本海々戦を勝利した救国の英雄東郷元帥が「百発百中の砲1門は、百発一中の砲100門に匹敵する」と述べたことである。百発百中の砲1門と百発一中の砲100門が対峙し・同時に斉射すれば、百発百中の砲1門は必ず敵の1門を破壊できるが、百発一中の砲のどれかは我が砲の1門を破壊するために、開戦初頭に我は壊滅するものの敵は99門の砲を維持することになるので、論としては成り立たない。
 おそらくであるが東郷元帥は訓練による戦技向上の重要性を込めて述べたものであろうが、年月が経ってこの言葉は独り歩きを始め、装備の充実・近代化を求める前線部隊の意見を封殺するために大本営・軍令部が引用し、大本営・軍令部の要求を封じるために陸・海軍省が、最後には陸・海軍省の予算要求額を圧縮するために議員・国民が利用することになってしまった。結果として最後には、装備の不備を「敢闘精神」「大和魂」「元寇時の神風」で補うという精神性にまで昇華し、およそ近代軍とは懸け離れた理念で整備された陸海軍になってしまったように思える。

 必要最低限の文化的生活を保障する「生活保護制度」でも、車の所有は認められないと聞いている。このように、必要最小(低)限には、何らかの犠牲を許容することが前提として存在している。
 「必要最小限な兵力整備」は、既に朝野を通じての共通認識(定説?)と化しているが、「何の・誰の・どの程度の」犠牲を許容することを念頭に組み上げられた概念なのであろうか。
 既に、ミサイルの飽和攻撃に対しては現有システムの質・量では完璧なミサイル防衛ができないことは明らかとなっているので、撃ち漏らしたミサイルによる犠牲は当然に出ることになる。最小限の装備が許容する犠牲は、自衛隊員であろうか、はたまた国民の100人・千人・1万人の犠牲で済むことを指しているのだろうか。

 以上のことを踏まえて、どうしても兵力整備の限界を定性的に表現する必要があるならば、「必要最小限」ではなく「国民の犠牲を局限できる」に改められる必要があると思うし、予算の配分や装備の取得・配備に当る部署も心して欲しいと願っている。


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