いまノートルダム寺院が燃えています。1998年モンペリエで開かれたエスペラント大会の大会前遠足は3日間、パリで行われました。遠足の前日、息子がリヒテンシュタインにいたので、私は早朝チューリッヒからパリに向かい、ホテルに荷物を置いて、午後は一人でパリを散策しました。小さな公園が沢山あって、道がわからなくなるとそんな地元の人が憩いのひと時を過ごす公園のベンチで休憩しながら、地図を広げながら夕方まで歩き回ったのでした。
遠足の始まりは映像によるパリの歴史でした。遠足の説明にエリゼリア野原の散歩(Erizeriakampo?)パリに野原があるのかと驚いたのでしたが、これはシャンゼリゼのことでした。パリはノートルダム寺院のあるシテ島から始まっていました。シテ島は小さな農村で、川に囲まれているので外敵に襲われる危険が少なく、橋をかけて島民たちはエリゼリアの畑に通っていたのだそうです。
ノートルダム寺院だけでなくナポレオンの眠る寺院や傷病兵病院(Invarida-Hospitalo)などがありました。パリっ子はせっかちです。セーヌ川下りでは、船のアナウンスに負けじと大声でエスペラントで説明し、一日は地下鉄で歩く遠足だったのですが、ものすごい速さで自動改札を通り抜ける。自動改札になれない参加者たちはあたふた。それに大股でどんどん歩くので、参加者たちはパリ中を走り回ってるようでした。ですが、モンパルナスの丘への小さな乗り物に乗っての遠足などパリの風景を存分に楽しみました。あの光景すっかり変わってしまうのでしょうね。パリの住民たちもきっと嘆いているでしょう!残念です。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6320469#mce_temp_url#
訂正:前述の1993年バレンシア大会は間違い、1998年のモンペリエ大会に変更しました。
この年は、息子のところにも10日ほど滞在し、手縫いでカーテンを縫ったり、ドイツやオーストラリアまでドライブしたり、国境の町バーゼルまで行き、坂の多い街を散歩したり、ドイツ・フランス・スイスの国境線の交わるところまで船で行ったり本当に楽しい夏休みでした。
むかし、もう50年前になるでしょうか、横浜の田舎の児童養護施設に住んでいました。バスは1時間に一本あったでしょうか。食料を売っている店もなく、毎日子どもに何を食べさせるかさえ大変でした。週に3回ほどトラックで来る八百屋さんから野菜だけは買えたのですが!
その近くに自然農法でお米を作っている人がいて昨日はその籾を精米するからと誘われて出かけました。彼は車で、わざわざ昔施設のあったところを通ってくれました。昔停留所名は○○小学校だったのが小学校が移転したので学園の名はバス亭名として残っていました。
バスを降りると田んぼの中の道を歩き傾斜地に立つ施設が着く。一番高いところには木々に囲まれた神社がありました。ですが、地形がすっかり変化し、平地になっていて、地形の確認さえできませんでした。
子どもが熱を出した時は山を越えた荏田という地に開業している医師に往診を依頼するほど不便な横浜の僻地でした。収容されている児童が脱走し、暴力団につかまっているという事件がありました。男子職員総出奪還しましたがみんな報復を恐れていました。いざという時には私と私の子どもたちは自分で守るようにと警棒を渡されたたこと。風呂がなく児童用の風呂に子どもとはいるのですが、お湯が浴槽に満たされない前に入浴したこと。昭和21年に建てられた家屋は立て付けが悪く、真冬でもカーテンが揺れ動くほど風通しが良かったことな思い起こすものの、平地に化した広い道を走り案内されて車の中から眺める景色は記憶と重なることはありませんでした。
Kaj mi pensis, ke mi ne atendas la fruktojn, kaj plukis la florojn kaj la foliojn por kuiri kun sukero kaj sojsaŭco. Da rikoltaĵo estis 120 gramoj.
昨日庭の山椒の葉と花を摘みました。山椒の花はまるで小さな黄色い星座のようでした。 去年も山椒は花をつけました。私は実るのを期待していました。でも無駄でした。実になりませんでした。
私は実るのを待つのをやめ砂糖と醤油で煮て佃煮にしようと葉と花を摘みました。120グラムありました。
Kiam la fratino estis dekunu aŭ dekdu, ŝi volis partopreni en ĝi. Niaj fratoj nevolonte akceptis ŝin. En tiu unuafoja partopreno ŝi ne povis kapti flugantan pilkon kaj ricevis ĝin per sia kapo. Ŝi havis granda tuberon sur sia kapo. De tiam ŝi neniam partoprenis en nia ludo.
En nia infaneco estis fama gazeto, kies nomo estis ‘Ĵunia Soreiju’. En ĝi estis ilustraĵoj de Nakahara Ĵun-iĉi. Tiuj ilustraĵoj estis tre belaj junulinoj. La gazeto furoris inter knabinoj. Mia fratino imitis ilin kaj desgnis kaj desegnis preskaŭ ĉiutage.
Lastatempe mia nevino sendis al mi kelkajn iustraĵojn de sia patrino(nome: mia fratino), kiujn mia nevo elektis. Mi remenoris la kanbinan tempon de mia fratino.

bonkora junulo:優しい若者

dormeto:まどろみ

primtempo:春

juna familio:若い家族

aŭtovojaĝnto:自動車旅行者
私の3人の兄たちは野球が好きでした。家の前は広い野原でした。そこには木はなく、野生芝生に覆われていました。ですから野球にはもってこいの場所だったのです。ですが遠くに飛んだボールを取るものがいませんでした。兄達は私と弟を説得し、玉拾いとして参加させました。私たちは 離れたところで飛んでくるボールを待っていて、飛んでいるボールを追いかけて走らなければなりませんでした。この遊びは私たちにとって退屈なものでした。私より少し年上の姉は病気がちで大方、私たちの遊びを眺めていました。
姉が11歳か12歳の頃でした、姉も一緒に遊びたいと云いだし、兄たちは渋々受け入れました。初めて仲間になった時、姉は飛んできたボールを取ることができず頭で受けました。彼女の頭には大きなこぶができました。それ以来彼女は遊びには加わりませんでした。
私たちが子どもころ‘ ジュニア・それいゆ’と云う良く知られた雑誌がありました。それには中原淳一が挿絵を描いていました。その絵はほとんど美しい少女でした。この本は少女たちの間ではもてはやされました。姉はその絵をまねてくる日も来る日も絵を描いていました。
最近姪が母親(つまり私の姉)のイラストを送ってくれました。その絵は甥が選んだものです。私は姉の少女時代を思い出しました。
Nia patrino havis du tuko-streĉtabulon. Ĝi estis ĉirkaŭ 50 centmetrojn larĝa kaj 2 metrojn longa. Ni metis ŝtipojn kaj paralele metis metis tiujn tabulojn sur ili. Ili farĝis la tabulo de nia tabulteniso. La tenistabulo estis malalta, sed ni sufice ĝuis la sporton.
Iun tagon nia plej aĝa frato ne estis hejme. Lia unu el laboroj estis melki kaprinon. Nia patrino diris, ke, kiam ni ne melkas ĝin, la kvanto de la lakto malmultiĝas. Ĉar ĝi perdas produkivon de lakto.
Kvankam mi kaj mia frato ankoraŭ estis lernantoj de elemanta lernejo,ni intencis merki kaprinon kiel nia frato. Ni alportis bovlon, ŝnuris kvar piedojn de la kaprinon ĉe stangoj, kaj metis la bolvon sub ĝia mamo kaj melkis ĝin. La momo jam ŝvelis malmole. Ni penis eligi lakton el ĝi. Sed la kaprino balaktis. Ni luktis kun ĝi, tial ni havis malmulte da lakton. La kvanto estis preskaŭ duono de nia frato. Kiam ni ĉesis melkadon, la kaprino forte rezistis kontraŭ ni. La ŝnuroj, kiuj ligis piedojn de kaprino ĉe stangoj, malstreĉiĝis kaj la piedoj frapis la bovlon. La bolvo estis renverŝita. Mi kaj mia frato senvorte staris kaj rigardis la bolvon senplenan.
私が子どもの頃、家に隣接した小屋がありました。そこは薪置場でした。また作業場として少し広い土間がありました。中には小さな家畜小屋もあり、雌山羊と2匹の子山羊がいました。家族はそこで乳を搾ったり、ストーブで燃やす薪を割りました。と云うのも私たちは夏でも調理用にストーブを使っていました。小屋の隅には鍬、熊手、マサカリなども置いてありました。さらに雨や雪の日は私たちの遊び場になりました。
母は張板を2枚持っていました。それは巾50センチほどで、長さ2メートルぐらいでした。私たちは薪を置き、その上に2枚の板をならべておきました。それが私たちの卓球台でした。卓球台は低かったですが結構楽しかったです。
ある日長兄が留守でした。山羊の乳しぼりも兄の仕事でした。山羊の乳を搾らないと、乳の出が悪くなると母が云いました。
私と弟はまだ小学生でしたが、兄のように乳を搾ってみようと思いました。ボールを持だし、山羊の足を杭に縛り、ボールを山羊の下に置きました。山羊の乳房はとても硬くなっていました。私達は乳を出そうと頑張りました。山羊がもがくので少ししか搾れませんでした。兄の搾る量の半分ほどでした。私たちが搾るのをやめた時、山羊は激しく抵抗しました。脚をつないでいた縄がほどけて山羊の足がボールを強く蹴りました。ボールはひっくり返ってしまいました。私と弟は言葉を失い、空っぽのボールを見つめながら立っていました。
Rimarko : tuko-streĉtabulo
En vortaro Japana-Esperanto mi trovis vorton fultabulo. Sed mi dubas, ĉu ties radaktisto ne bone scias hejman laboron de virinoj.
Virinoj reuzas kimonojn. Antaŭ tio ili malkudris kaj lavis kimonon. Kaj ili ne fulas ĝin, sed anstataŭ gladi ĝin gluas la pecojn da la kimono sur speciala tabulo. Oni bezonas du tabulojn por glui unu kimono.
注 :張板
日本語エスペラント辞典にfultabulo と云う単語を見つけました。私はこの辞典の編集者は女たちの家庭労働に疎いのではないかと疑いました。
女たちは着物を再利用します。まず着物をほどき、洗います。彼女たちはそれを晒すのではありません、アイロンをかける代わりにほどいた着物を特別な板に張り付けるのです。着物1枚分張るのに板2枚必要です。