glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

2020-09-09 20:57:09 | rememoro: 思い出
8月5日に書きかけてやめた記事です。


一本の道、精霊と祈願の楽園と言うNHKの番組を見ました。

 見てから書き始めたのですがなかなか書き進めません。私もチェコに行ったのですが、当時の写真も見つからないし、ずうと下書きのままです。

 さて番組は‵一本の道「精霊と奇岩の“楽園”を歩く~チェコ チェスキー・ラーイ~´ という題名でチェコのモラビア地方イーチンから歩く旅番組でした。チェコの精霊とはどんなものかと魅かれて読みましたが、初めに水の精がでてきただけでした。ちょっと肩透かしを食わされた感じです。

 私は1996年プラハで行われた世界エスペラント大会に参加しました。その時できるならボヘミアの森を歩いたいというとヤブロネツ・ナド・ニソウにいる友人マリエが1週間なら案内してあげると言ってくれたので大会後、彼女の家に滞在させてもらいました。森を案内してくれたのは元リュージュ選手だったマクス。

  その道に妖精はいませんでしたが、チェコ的鼠小僧が住んでいた岩場があったりとチェコの歴史を垣間見るたびとなりました。

 その地、リベレツ地方は経済的にはドイツ人に差配された時期が長かったようです。また、準宝石と言われる鉱石の産地で発掘や研磨の際の埃で結核にかかる人が多かったそうです。治療のための散策コースが整備されました。半日歩くくらいのところに宿泊もできる休憩場所が整備されていて、じっくりと散策を堪能して歩くとコースすべてを回るとひと月ぐらいはかかるということでした。
 同行者は、マリエのほかにイジナ・ドイツ人兄妹のライネとアネリエ。歩いたのは4日間でした。一日目はヤブロネツ・ナド・ニソウからバスでマリエと二人で森へ。6日目はライネ・アネリエ兄妹と4人で汽車に乗って木造でできたお城へ。

 1日目はマリエの案内でバスで田舎に行き森を散策しました。バスはブルーベリーを摘みに行く人々でいっぱいでした。みんな家族連れでした。ほとんどが大きなかごを提げていました。森近くの田舎に住んでいる人々は共産主義時代には貧しく特に冬には寒さと飢えに苦しんでいたそうです。民主革命後、プラハの金持ちがその家々を別荘として買い取り、彼等の多くは都会に出て行ったのだそうです。
 二人で、数時間湖まで散策し、湖岸で持参のサンドイッチをたべました。帰りは籠や2リットル入りの牛乳パックに入れたブルーベリーを沢山持った人たちで満員のバスに乗りました。男性の中には酔いが回った人たちもいて、バスの中は騒々しさで満ちていました。

 歩くということはおしゃべりにもってこいです。おしゃべりするということは他の人の人生について聞いたり、つい立ち入ったことも聞くことになったりします。

 マクスはすらりと背の高い男性です。父親はドイツ人だったそうです。第2次世界大戦が終わった時、ドイツ人はドイツに送還されることになったそうです。ただ、母親がチェコ人の場合、15歳まで送還は免れたそうです。当時マクスは14歳でしたが、体が大いのでどう見ても14歳には見えず収容所に入れられたそうです。マクスの母親は毎日収容所にやってきて2週間ほど’息子は14歳だ’と叫び続け、彼はようやく解放されたそうです。父親がいないので弟妹4人のために母親を助けて働いたそうですが、あの時ドイツに連れていかれたらと思うと、収容所前で叫び続けてくれた母親に感謝しかないと。リベレッツでソーセージを買って夕方マクスの建てた川沿いのヴィラに行き、たき火をしてソーセージを焼いて食べながらそんな話もしました。彼はレンガ積み工だったそうで、そのヴィラを一人で建てたということでした。彼には子どもがいないが弟家族が週末にやってきて楽しんでいるということでした。本人は団地に住んでいて、同行しイジナはこの散策の間、マクスの家に滞在しているということでした。

 イジナは大会中もパプリカとかキュウリとか沢山持参して私たちに食べさせました。パプリカは健康に良いから少なくとも一日半個は食べなさいとマリエに毎朝食べさせられました。イジナの夫は森林保安官。チェコでは森が大切なので森林保管官は尊敬される職業だそうです。野菜作りが好きで、800㎡ほどの庭があるという広さの説明が楽しかったです。幅が1㍍とすると長さが800㍍の庭だそうで、これでなるほどと理解しあえるエスペラントは面白い。
 イジナは趣味で建築を学んでいるそうで、プラハでは市内の案内役をしてくれて、カフカの家なども連れて行ってくれました。建築様式の説明は私にはチンプンカンプンでした。
 一人娘が父親と同じ森林保安官になったととても喜んでいました。


数年後、娘さんが同僚の森林保安官と結婚したとイジナが送ってくれた写真。


同行者ライネとアネリエ兄妹


 二人は両親と共にこの地に移住してきたドイツ人で、戦後どつに送還されたのだそうです。美しい緑の草原を横切る時、私がその美しさに驚いていたら、ライネはここは石ころだらけで畑にできないのだと話してくれました。だから、大木の管理は大変なようでした。ライネは´僕のように心を病んだ人間にはこんな自然を歩くのが一番良いと。’と言っていました。この二人は一緒にエスペラント大会の前遠足や大会後遠足に参加していて、幾度となく再会しました。ライネはチェコの歌を聞いてほしいとテープをくれました。
 2,011年、コペンハーゲン大会の遠足アネリエではない女性と一緒だったので彼女の消息を尋ねると2カ月前病気で手術したので、チェコの従妹と一緒に参加したと話していましたが、数年後、リールでアネリエとあったので従妹もエスペランチィストなのと訊いたら、彼女豪快に笑いだして、’なんでそんな嘘をつくの、彼女はガールフレンドよ!’と言っていました。その時アネリエは体をさせる2輪車で歩いていました。がんの手術をしたのだそうです。古い城めぐりでした。城の中を巡る時、その補助具を折りたたみ、松葉杖のような使い方をしていました。石の階段は滑るので肩を貸すと、大柄な彼女に私の肩の高さがぴったりと合っていました。

 体が不自由でも、眼が見えなくても遠足に参加する人は結構多いのです。以前、知的障害のあるやんちゃな弟が目の見えない姉と参加していました。他の参加者たちは弟が羽目を外すと声をかけながらも楽しんでいました。日本では奇異な目で見られるかも。

 大きな川のほとりを休んだ時マリエが言いました。’学校の遠足でここに来た時に、娘はここで衣服を脱ぎ棄て川に飛び込んだの。こんな社会はもうイヤ!みなさん、さようなら!と言って。17歳だった!’
 そこはイジナに言わせると世界最初の水力発電所が見える場所でした。残されたのは衣服だけだったそうです。

 私が泊まったマリエの部屋のここかしこに少女の写真が飾ってありました。良くできた娘のようで、彼女がエスペラントの集まりに参加するときはいつも弟たちの世話を買って出て励ましてくれたそうです。

 たった1週間の思い出でも書き出すと止まりません。この辺でやめることにします。


私が訪問した時マリエの長男は婚約中でした。
マリエからもらった最後の写真、孫と犬達です。


 これが準宝石と言われる石でしょうか。
マリエからもらった記念品です。身に着けて出かけるところはありませんが、大切にしています。
 
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熊雄君と寅雄君

2020-09-03 08:43:14 | rememoro: 思い出
 夕べのNHKニュー”秋田県仙北市で今年初めての稲刈りが行われた!”

 黄色に実り垂れた稲穂と青い空に中学時代の同級生のことをと思いだしました。現在の仙北市は私が小中高と暮らした地域が含まれます。そこは農村でした。私が中学に入学したのは昭和27年。高校に進学したのは160名の同級生の内3分の1ほどでした。私は本以外は興味がなくて、級友たちに話しかけられれば話を聞きますが、だれかれとなく話しかけることはありませんでした。
 男子生徒は良く廊下にたむろしていました。その中に小柄な生徒が二人、それが熊雄と寅雄でした。彼等は時々ちょっかいを出してきます。ちょっかいと言いうのは彼らの前を通ると足を出して私を転ばそうとすることぐらいでした。でも、そんないたずらにいつも引っかかる愚か者なのどおりません。出した足を引っかけて彼等を転がすなど朝飯前で、初めこそ何度かよろめいたことはありましたが、私はそんな罠にはまることはありませんでした。私は彼等を子犬のクマちゃんトラちゃんと思っていました。

 21年前、還暦の同窓会をするので出席してと言われました。幹事に同窓会はいつもお盆靖だから、列車が混んで出席できないというと6月に開いてくれました。私が田舎を出て40年余り、広い村でしたから帰省してもほとんどの人とはその間あっていませんでした。温泉で1泊した夜、なぜか私は皆さんの人生の聞き役をさせられ、農村で生きてきた人の労をたくさん聞きました。

 トラちゃんは私など買えないような大きな白いバンでやってきました。クマちゃんはトラちゃんと一緒でした。私は初めて彼等がどんな環境で育ったのか聞きました。彼等はほとんど土地のない農家で育ったこと。土地が欲しくて懸命に働き、夫婦で貯蓄し、売りに出された土地を買い足し、息子も息子の妻も協力してくれたので、クマちゃんは今4町歩(9.900㎡×4)の田んぼを持っていると嬉しそうに話してくれました。

 ’フーン、熊雄君は頑張ったんだ!’と私が感心すると、クマちゃんが言いました。’えっ、俺、熊雄じゃない文雄だよ!’ 熊雄は私の勘違いでした。彼は私が子どもの頃母が作ってくれた人形’クマのコロちゃん’に似ていたので、いつの間にか私の中で熊雄という名に変換されていたようでした。

 何はともあれ、二人が元気で、彼らの田んぼも豊作でありますように。

 寅雄君はなぜか住所が変わっても、姓が変わっても、毎年年賀状を送ってくれました。私は悪筆なので自分からは年賀状を書きませんでしたが。
 彼の文字は素晴らしく美しく、中学時代にあんなに目立たなかったのにと思うほどでした。還歴同窓会から数年後彼からの年賀状は来なくなりました。もしかしたら異変が!と思っています。
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長崎の思い出

2020-08-09 22:22:19 | rememoro: 思い出
 2010年、日本エスペラント大会が長崎で開かれました。カナダの姉もやってきて二人で長崎の町を歩きました。

 今日11時過ぎに買い物から帰ってテレビをつけると平和祈念式典が行われていて、小学生が歌っていました。永井博士の詞だということでした。

 私たちが平和公園を訪れた時に平和記祈念像の前で小学校の修学旅行生か、青い空は青いままで子ども等に残したい・・・・・・と歌っていました。

 子どもの頃の思い出です。
 広島についで長崎にも新型爆弾が落ちたと大人たちは大騒ぎをしていました。それがどんなひどい物か子どもの私にはわかりませんでした。

 翌年、多分朝日新聞だったのではないかと思いますが永井博士がエッセイを書いていました。いつもだったか忘れましたが鉛筆画のような挿絵もあったと思います。母はその手記を読んでくれました。’この子らを残して’というような題名だったと思います。k子どもを残してこの世を去ることを運命づけられた親の悲しみは小さな私にも伝わりました。娘さんの茅野(文字違うかも)さんは私と同年代でしたし、引っ越す前に東京の空襲で孤児になった友達の京子ちゃんから感じた親を亡くした子どもの哀しさと重なって泣きながら母の読むのを聞いていたと思います。

 姉と二人で永井博士の住処も訪ね、終戦前後や博士の手記の話をしたりしました。昨年だったでしょうか1昨年だったでしょうか、茅野さんもなくなったと聞きました。

 多分、そうした経験が私を戦争嫌いにしたのではないかと思います。戦争は決してなくならないかもしれないと感じることが多いです。それでも、戦争を止める努力はしなくてはいけないという思いが平和を願って作られたエスペラントという言葉へ私を導いたのでしょう。

  子どものころ読んだ本はあるいは読んでもらった本は気付かないところで人生に大きな影響を与えるものなのだと今更ながら驚きます。


 息子が自然農講座に参加して茄子・ピーマントマトなど頂いてきました。金曜日に商店街に買い物に行きました。八百屋も魚屋も品が少ないうえに値段が宅驚きました。テニスボールより一回り小さいジャガイモが3個で250円でした!
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隆の勝関に恨みはないが!

2020-07-26 20:15:45 | rememoro: 思い出
 隆の勝関に恨みはないのですが、彼の顔をみると子どもの頃の嫌なと言うか悔しい思い出がよみがえて来るのです。

 たぶん昭和21年(1946年)だったと思います。おもちゃなど売っていない時代でした。そのうえ山村に父が転勤したので学校近くに数軒の食料品を兼ねて学用品を売っている店があるだけでした。家にはマリーちゃんいう名の布製の人形がありました。背丈が40~50センチぐらいでした。長姉が子どもの頃東京で買ってもらったものでした。私と2歳上の姉はそれを共同で使っていました。腕の布が擦り切れて詰め物の木くずがはみ出して・・・。母は私たちにそれぞれ人形を縫ってくれました。着物ももちろんです。髪の毛は古い毛糸だったと思います。問題は顔です。

 長姉は絵と言うか良く漫画などを書いていました。顔は姉が書くことにことになっていました。姉は弟妹の面倒をよく見てくれました。でも、彼女の命令に従わないとあなたには~はしてやらないというのが常でした。何かしてくれる時もちゃんということを聞きなさいよと常に念を押していました。多分何が原因か忘れましたが、S子の人形の顔を書くが、G子のは書かないと姉が言い、私に人形の顔書いてくれませんでした。父はよしよし私が書いてやろうと硯を持ちだし、一気に力強く眉と目を書きました。その力強い眉や目を見て兄たち姉たちはまるで国定忠治と笑いました。マリーちゃんのかわいい顔を考えていた私は厳つい顔の人形の顔に声をあげて泣きました。
  翌日、その顔の上に母が布を縫い付けて、姉が顔を書き直しましたが、私は嬉しくありませんでしたし、古い父の書いた顔を思いだして人形で遊ぶ気にはなりませんでした。
 なんと隆の勝関の眉や目がその人形にそっくりで、姉のことを思い出すのです。

 姉は4月7日亡くなりました。姉は私のことを可愛がって育てたと自負していました。確かに季節が替わると町へ行き、自分お小遣いで生地を買い、ブラウス・ワンピース・ズボンなど縫ってくれました。大学になると貧乏な私に働くようになったら返せと毎月お金を貸してくれました。それでも私は子どもの頃味あった悔しいことを沢山思いだすのです。
 例えば冬。雪で滑り台を作りました。夕方、水をかけておくと夜凍って天気が良くても解けません。その上からそりで滑って遊べます。その水を汲んでくる仕事は私でした。次姉は体が弱くて水汲みはできない、弟は小さいからできない。そして私には水を汲んでこなかったらそり遊びはさせない。遊びたかった水を汲んできなさい。
 隆の勝関を見ていたら次から次へと姉とのやり取りをおもいだして・・・。

 隆の勝関に恨みはないのです。まあ、頑張ってください。
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べトナムのダーちゃん

2020-07-05 12:37:54 | rememoro: 思い出
チェコの友人からメールが来ました。エスペラントの単語を忘れないようにと本を眺めていたら絵本をみつけた。それは私が1976年に彼女に送った’ベトナムのダーちゃん’(早乙女 勝元, 遠藤 てるよ著)だったという。それはベトナム戦争で孤児になったダーちゃんのお話です。

 ベトナムのエスペランティストと日本のエスペランティストの交流は長い。私がエスペラントを始めたのは1960年ですが、当時エスペラントを使ってベトナム戦争の戦況が日本に伝えられていました。仲間に今村静雄さんと言う方がいました。彼は当時、都庁職員の新聞にベトナムからの便りなどを翻訳して載せているということでした。それから数年後、今村さんは亡くなってしまいました。40代に入ったばかりの新婚さんでしたが、朝、奥さんが起きたら呼吸をしていなかったのだそうです。とても残念なことでした。
 
 先年、元都庁職員の方にお会いした時に今村静雄さんをご存知ですかと尋ねたら知らないと言われました。若くして亡くなられたのでせめてここに名前を載せさせていただきます。

 ダーちゃんの本を紹介したいと探しましたが見つかりません。私も本の整理をしています。易しい文の本ですのでもうどこかに送ったかもしれません。末尾にダーちゃんの本が紹介されているページを載せて置きました。

【友人からの便り】
Saluton, kara G****, kiel vi fartas? Mi esperas ke vi kaj viaj gefamilianoj estas sanaj same kiel mi kaj mia edzo. Miu nun ofte laboras en mia gxardeneto. Cxi jara somero pluvas preskau cxiutage kaj la herbacxo kreskas rapide. Mia edzo faradas ekskursetojn en cxirkauajxo surmotocikle. Kaj mi hejme timetas ke li ne havu akcidenton. Mi ankau legas esperantajxojn por ne forgesadi la vortojn. Imagu, mi trovis libreton Danjo en Vietnamio kaj sur la lasta pagxo estas skribita: Al s-ino H+++ V++++ de via amikino G*** 1976. Nekredebla surprizo.
Fartu bone kaj restu sana. Hana


 ’ベトナムのダーちゃん’がぺーじ先頭にあります。
https://www.google.com/search?q=%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%BC%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E7%89%88&tbm=isch&ved=2ahUKEwi9sZH6hLXqAhU0xIsBHeVXAjUQ2-cCegQIABAA&oq=%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%83%80%E3%83%BC%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E7%89%88&gs_lcp=CgNpbWcQA1DaIViriwFg8akBaAFwAHgAgAGkAYgBvQySAQQxNS4zmAEAoAEBqgELZ3dzLXdpei1pbWc&sclient=img&ei=YTcBX_38AbSIr7wP5a-JqAM&bih=665&biw=1304&rlz=1C1CHBH_jaJP778JP779
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あかまんま

2020-07-01 09:26:44 | rememoro: 思い出


 3週間ほど前、わずかな空き地に大きな葉っぱの草が出てきました。赤まんまの葉に似ている。家人にも引き抜かないでと言って観察していたら、成長し蕾も現れました。最近赤まんまを見たことがありません。種はどこからやってきたのでしょう。

 子どもの頃、赤まんまの花はままごと遊びの材料でした。ままごと道具は姉が看護婦時代にお土産にくれたちいさなコーヒーカップ風の1式。(カップの持ち手はもらって間もなく転んで欠いてしまいました。戦後間もなく、おもちゃなどめったに売っていない時代でしたので姉にものすごく叱れました。)あとは両親が塩を買いに昔住んでいた漁村に行った時に貰ってきた直径7~8センチの貝殻とかでした。赤まんまをお赤飯に見立てて遊んだものです。

 時を経て(1958年)私は東京で学生生活を送っていました。日本経済は上向きでした。人々の貧富の差は広がっていました。私は東京氷川下でセツルメント運動に参加していた兄の勧めもあって、大学にあるセツルメント運動に参加していました。仲間内でその頃好まれた詩があります。それはプロレタリア作家中野重治の歌でした。冒頭の言葉しか思いださないので探しました。この詩に関して数人が解釈を書いているのを読みました。でもそんなに難しい解釈が必要かどうかと私は思います。当時、福祉を学ぶ学生にとっては現実的な詩であったと思います。赤まんまの象徴するものは郷愁、つまり情緒的感覚(感傷的?)であると。現実逃避せず、現実を直視せよとこの詩は言っていると受け取ていたのです。多分私の受け取り方に反対の人もいると思うのですがご容赦ください







おまえは歌うな

おまえは赤まんまの花やとんぼの羽根を歌うな

風のささやきや女の髪の毛の匂いを歌うな

すべてのひよわなもの

すべてのうそうそとしたもの

すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ

すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ

もっぱら正直のところを

腹の足しになるところを

胸元を突き上げて来るぎりぎりのところを歌え

たたかれることによって弾(は)ねかえる歌を

恥辱の底から勇気をくみ来る歌を

それらの歌々を

咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ

それらの歌々を

行く行く人々の胸郭にたたきこめ


 中野重治(1902~1979)はプロレタリア文学の作家と知られており、金沢にある四高時代に窪川鶴次郎を知り、短歌や詩や小説を発表するようになります。またこの時期に室生犀星を知り以後師事します。東京帝国大学入学後にマルクス主義に傾倒し、プロレタリア文学運動に参加するようになります。 
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1960年6月15日

2020-06-15 17:49:42 | rememoro: 思い出
 6月15日午後、私は国会前にいました。60年前のことです。記憶が不確実になってゆきますが、機動隊が道路の両側にいてスクラムを組む学生をごぼう抜きにしてゆきました。 私たちはいつの間にか列の最前列にいました。薄暗くなっていました。突然、門が内側から開き私たちは押されて門の中に入りました。樺美智子さんが惨殺された日の記憶です。新聞は学生が門を破ったと書きたてましたが、私たちは門が内側から開けられ、私たち押されて、国会議議事堂の庭に入ってしまったという認識しかありません。庭には大勢の私服警官らしき人たちが立っていました。門の方に引き返えそうとすると、もどっとたら危ない!と中年の男性が声をかけました。前方は建物でした。塀を超えて逃げろと彼は言い、塀の近くの松の枝に私を押し上げてくれました。暗くて地面は見えませんでしたが飛び降りました。アスファルトで脛を打ちました。医学生が駆け寄り湿布してくれました。家に帰ると両腕には黒く、五本の指跡がくっきりと残っていました。

 60年の暮れだったと思います。30人ほどのエスペランティストの集まりで、樺さんのお母さんと会いました。若い頃エスペラントを学習していたということでした。娘(美智子さん)にまたエスペラントでもしなさいと言われていたのでまた学習しますと言っておられましたが、当時50代だったと思います。以後お会いすることはありませんでしたが・・・。
 あれから60年、6月15日なると樺美智子さんとそのお母さんを思いだします。もしかした、ブログに同じことを書いているかもしれません。 
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散策

2020-04-09 19:44:49 | rememoro: 思い出
 昨日、4月八日息子に誘われて散策しました。昔子どもたちと散策した場所のはずでした。が、ハイキングコースになっていて以前はのんびりと2時間ほど歩いて帰宅したはずでしたが、散策時間4時間。急勾配の山道を上ったり下ったり、13,000歩に及ぶ行程でした。今日体が普通に動いていることが不思議なくらいです。

 
 
港南区・栄区・金沢区にハイキングコースになっていました。


昨年、10月の台風の時に地滑り跡。台風の影響のせいで、通行不可能な箇所がいくつもありました。


ハイキングコースの概要です。





ボヘミアの森(チェコ)1週間歩きました。写真の杉より太い落葉樹がすっきりと立っていたのを思い出し、急勾配の階段状道を上りながら」ちゅえこの道は平たんで歩きやすかったと懐かしく思いだしました。


一心堂という広場でおにぎりを食べました。疲れ切って見上げた空です。沢山の人が休憩したり通りました。




この道は武蔵と相模の国を結んでおり、たたら職人(鉄を製造する職人)たちが通った道だそうです。今でも付近の田んぼから鎌倉時代の’かなく
そ’と呼ばれる鉄くずが出るそうです。なんと道には石が敷かれていました。


竹林の中に続く急勾配のつづら折りの道が10数分続きました。きつかったです・
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子どもの遊び

2020-04-07 11:29:07 | rememoro: 思い出

ベルリンの息子から木の写真が送られてきました。木に登っていますと書いてありました。Hが登っているのかと思って、高さ何メートルと尋ねたら6~7メートルとのことでした。私が最後に息子のところを訪問してからそろそろ8年です。当時この木は2~3メ-トルの小さな木でした。 庭の変なところにあって邪魔なのではないかと尋ねたら、ベルリンの木は住民登録(?)されており、たとえ私有地に立っていてもよほどの理由があり、それが認められない限り伐採不可能とのこと。勝手に切るとかなり重い罰金が科せられるそうです。ですから、建て替えの時も木は残さなくてはならないそうです。 この写真もぼっているのはHではなく息子に見えるので上っているのは誰、あなたなのと訊くと次の写真が送られてきました。

 


今度は二人で登っていますとこの写真が来ました。。落下時の危険防止でしょうか下にはハンモックが!

 
 木の写真を見て古い記憶がよみがえりました。学童保育所で働いた頃のことです。保育所は元バーベキューを営業していた土地でした。区の中心地でバス停から数分の丘の上にありました。周りは緑に囲まれ、建物の下には地主さんとその仲間の畑が広がっていました。地主さんは僕たちは子どもの頃ここで木登りをしたり、下の川で泳いだりしていました。子どもたちは自由に遊ばせてくださいと言っていました。ですから、丘陵地は自由な遊び場でした。
 ある秋のことです。子どもたちは他の指導員と近くの公園に遊びに行ったはずでした。3時のおやつの準備をし外に出ると、頭の上から’先生’という女の子の声。確か台風の前触れで強い風が吹いていました。根元から2メートルぐらいのところにある木の枝に女の子が二人立ち、上の枝につかまって風の中で揺れていました。’気持ちが良い、楽しい!’と彼女たち。私は肝を冷やしました。根元から2メートルでも枝の下は畑に下る道の上にあり、実際は地面まで4メートルほどありました。私は黙って通り過ぎ、’じゃあ、またね!さきにゆくわよ!というと彼女たち、’待って!一緒に行く!’と私の狙い通りに降りてきました。それから木の下に立たせ、揺れる枝を見せながら自分たちがどれほど高いところに立っていたか、落ちたら、もしも命があっても、手足の1~2本は折れていただろうことを説明しました。それ以来他の子どもも太い幹に登っても枝には立たないよう自分たちで注意しあうようになっていました。これが私が保育所で経験した一番恐ろしい出来事です。彼女たちはもう45~6歳です。自分が何をしたか記憶にあるでしょうか。

 ターザンごっご。子どもたちはターザンを知らないのでその遊びをなんと呼んでいたか知りません。保育所は丘陵の上にあり一方は崖になっていました。ほとんどは藪や灌木でがけの縁まで行けませんでした、一か所だけ地面がむき出しになっていました。そこに大きな木が枝を張りだし、太い藤蔓が下がっていました。子どもたちの歓声を聞いて行ってみるとなんと蔓にぶら下がって崖の上でブランブラン揺れて遊んでしました。崖ですから急斜面です。その数メートル下にはコンクリートの擁壁があり、擁壁の下に家々があります。落ちたらとても危険です。やめなさいというと、蔓は疎いのできれないと子どもたちは主張します。’絶対に切れないかどうか試しましょう!まず私がぶら下がっても切れないか試す。それからもし手が滑って下に落ちても大丈夫かを試す。それで大丈夫だとわかったら蔓で遊んでよいことにするからどうかと尋ねると腕白小僧たちはゴニョゴニョ相談。先生が怪我するかもしれないから蔓にぶら下がるのは止めると言ってくれました。新しい子が入ってきて蔓にぶら下がりそうになると歳の上の子が危ないと注意するので、ターザンごっごは子どもたちの遊びから消えました。また、丘の上には直径1~2メートル程の穴があり、冬休みにはみんなで落ち葉を集めてアルミホイルに包んだサツマイモを「焼いたり楽しかったです。

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ドイツ:コロナウイルス対策

2020-03-13 08:00:43 | rememoro: 思い出
 昨日午後、孫が学校へ行く前に息子と孫のひとりが誕生日おめでとうと電話をくれました。電話を切る前にドイツは日本より大変だよといったのが気になり、マスクがあるかと夕べメールしました。
 数年前にがんを患っている友人が私のパンが欲しいといったので幾度か届けたらお返しにコーヒーを送ってくれました。その空いたところにマスクの箱が入っていました。そんなことが数回あり、我が家にはマスクの在庫あり。

 今朝息子から返事あり。
  【大丈夫です、あります。それに、こちらはマスクをしていると逆に怖がられますから。毎日、気をつけて手を何度も洗い、家のドラのノブや良く触るところは頻繁に消毒しています。まぁ潜在的にはもっと感染者がいるんでしょうネただ検査できないだけで。でも、若年層は感染してばら撒くだけみたいですネ

10日程前に買占めがありましたが、今は普通の物はすべてあります。

消毒液が足りないぐらいかな。トイレットペーパーもまだ在庫にあります。

ドイツは、政府が『意見』するだけで、あとは自分で決めて下さいみたいなところがあり、まぁ民主主義なんでしょうが、中国、イスラエルの様に本当は少し強権を発動して欲しいのですが。

あとから、イタリアみたいなってからでは遅いので。でもこのままだたと感染者が直ぐに3000人を突破するよ。

そろそろ、学校も閉めたほうがいいと思うけど。】

 若者がばらまいていいると書いてありましたが、自分は健康だと思っている人が菌をばらまいているのですね。日本でもスポーツセンター・卓球クラブ・ホットヨガなど健康な人が感染源になっているようで、どこの国でも似ています。
 訪問者もいないのでドアノブを消毒しようとは考えませんでしたが、私もそこまですべきでしょうか!



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まあまあの出来!

2020-03-05 23:34:17 | rememoro: 思い出



自分で作った酵母で焼いたパンこんな具合です。ちょっと膨らみが足りないけれどまあまあの出来と満足しました。膨らみは足りませんがドライイーストのパンとは違い柔らかく美味しい!初めてにしては上出来です。これから研究を重ね、進歩して見せます。湿疹の手で捏ねたくないのでパン焼き器で焼き上げましたがプチパンにしたいのでこれから挑戦です。
 認知症になっている暇などありませんね!

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カナダ旅行

2020-01-20 08:51:09 | rememoro: 思い出
 今朝のメール。 
http://www.esperanto.qc.ca/wp-content/uploads/2020/01/Rivereg-ero-5.pd
 カナダのエスペラント会の機関Riverego「大河」です。表紙は懐かしいナイアガラの滝。姉がナイアガラフォールスに住んでいたし、若い頃は航空会社系列のガイドをしていたので料金が安い時も含めて4度訪問した。多分一人で行った時だったと思いますが、ナイアガラの滝に虹が二重にかかっていて美しい時もあった。雨上がりの朝だったと思うのですが。
 最後は2012年でした。ケベックで開かれたエスペラントの集いに参加し、最北(?)の地ガスペやモントリオールやオタワへも汽車で旅しました。その時同行した友人はナイアガラ川の上流から流れに沿って車で下り、突然大きな滝となって流れる滝の荘厳さに感激していました。
 Riveregoには遠足で言ったケベックの要塞の下にできた狭い通りも写っていて懐かしかった。今年は世界エスペラント大会はモントリオールで開催される。姉が存命ならまたカナダに行きたいのですが・・・。夫も病気なし。元気ですが長期間の留守はどうかなと・・・。
 エスペラント文はさておき、写真だけでも見ていただきたいです。
 
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小さな本

2019-12-28 20:35:24 | rememoro: 思い出

 昨日、リトアニアの友人から小さな本が届きました。はがきほどの大きさで36ページ。私が貰ったのは3冊目です。彼女との付き合いがいつからなのか、どうして知り合ったのかもう忘れましたが、多分、私の名前が共産圏の雑誌に載ったことがあるそうで、たくさんの便りを貰いました。その時のひとりのような気がします。最初にもらった本に私との写真があったので、多分1995年以前からの知り合いだと思います。エスペランティストは不思議な生き物だと時に思うのです。便りを交換したのは年に数回なのに、文通相手の生きざまというかいろんなことを理解しあっているのです。

 彼女はカトリックスクールの宗教史の教師、子どものこと孫のことなどいろいろと。私より1年ほど早く生まれたのでもう80歳。E-メールはしないので今彼女の友人に本を受け取ったとメールしました。世界エスペラント大会に参加するとエスペラント教師候補を連れてきて受験の世話をしていました。ですから顔を合わせても数10分の会話。残りは帰国してから手紙で話し合うというものでした。おそらくは毎年毎年エスペラント教師を生み出していたのです。便りに健康がすぐれないと書いていました。友人は減ってゆきますが、もう新しい友人を作る気力も萎えてゆきます。きっと、これが人生なのでしょう!

「Vivu la amo: 愛万歳」

本の挿絵の中に私が送った横浜の絵葉書もありました。

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伊勢湾台風

2019-09-26 19:53:51 | rememoro: 思い出

 先ほどニュースで今日は伊勢湾台風から60年目に当たる日と知りました。私は大学の寮で暮らしており、寮は原宿にありました。あの日東京も風がすごかったです。翌日、新聞で伊勢湾地方の被害の大きいことを知り、寮生が中心になって立て看板を作り、新聞なども張り付けて、歩いて渋谷駅へ。駅の許可も得てハチ公前で会社帰りの人々にカンパの呼びかけをしました。反響もすごかったです。当時東京都の職員の初任給は8千円前後だったと思いますが、15~21時くらいで20数万円のカンパが寄せられました。私は大声をあげていただけですが嬉しかったです。お金は名古屋に本社の或る新聞社’中日?’の赤坂にあった東京支社に代表が届けました。

 人の善意を感じた3日間でした。亡くなられた方の冥福を祈ります。

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平絹

2019-07-09 20:32:35 | rememoro: 思い出

 着物をほどいた時の裏地、平絹は使い道に困ってしまう。先日、姪と押入れを整理した時に昔、漆器は紅絹(もみ)で磨いたものだと言っていた母の言葉を思い出しました。私が持っているのは白地ですが平織であるということにおいて紅絹と変わらない。お盆や重箱など漆器を包んでいる紙はいつの間にか痛んでいる。この紙の替わりに平絹を使ってみようと思いついたのでした。

 旅から帰った翌日木曜日は雨風が強くエスペラントはお休みにしました。捨てられずにいつか染料にと保管していた香典返しの不味いお茶や紅茶で染めました。煮沸消毒も兼ねて染めたのです。黄いろにしたかったのですがミョウバンが少ししかなくベージュになってしまいました、これでお盆を入れる袋や重箱を包む風呂敷など作りました。

 ミシンがテーブルを占領し、一段落するまで他のことができません。エスペラントを2週間もさぼったと後悔しながら数日アイロンをかけたりミシンをかけたりと忙しく・・・。

 ふと思いつくと切りが良いところまでやめられず!三つ子の魂百までです。

 筒状に縫ってお椀を入れてみました。色はきれいなベージュですが写真にはうまく出ません。

コメント (4)
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