一本の道、精霊と祈願の楽園と言うNHKの番組を見ました。
見てから書き始めたのですがなかなか書き進めません。私もチェコに行ったのですが、当時の写真も見つからないし、ずうと下書きのままです。
さて番組は‵一本の道「精霊と奇岩の“楽園”を歩く~チェコ チェスキー・ラーイ~´ という題名でチェコのモラビア地方イーチンから歩く旅番組でした。チェコの精霊とはどんなものかと魅かれて読みましたが、初めに水の精がでてきただけでした。ちょっと肩透かしを食わされた感じです。
私は1996年プラハで行われた世界エスペラント大会に参加しました。その時できるならボヘミアの森を歩いたいというとヤブロネツ・ナド・ニソウにいる友人マリエが1週間なら案内してあげると言ってくれたので大会後、彼女の家に滞在させてもらいました。森を案内してくれたのは元リュージュ選手だったマクス。
その道に妖精はいませんでしたが、チェコ的鼠小僧が住んでいた岩場があったりとチェコの歴史を垣間見るたびとなりました。
その地、リベレツ地方は経済的にはドイツ人に差配された時期が長かったようです。また、準宝石と言われる鉱石の産地で発掘や研磨の際の埃で結核にかかる人が多かったそうです。治療のための散策コースが整備されました。半日歩くくらいのところに宿泊もできる休憩場所が整備されていて、じっくりと散策を堪能して歩くとコースすべてを回るとひと月ぐらいはかかるということでした。
同行者は、マリエのほかにイジナ・ドイツ人兄妹のライネとアネリエ。歩いたのは4日間でした。一日目はヤブロネツ・ナド・ニソウからバスでマリエと二人で森へ。6日目はライネ・アネリエ兄妹と4人で汽車に乗って木造でできたお城へ。
1日目はマリエの案内でバスで田舎に行き森を散策しました。バスはブルーベリーを摘みに行く人々でいっぱいでした。みんな家族連れでした。ほとんどが大きなかごを提げていました。森近くの田舎に住んでいる人々は共産主義時代には貧しく特に冬には寒さと飢えに苦しんでいたそうです。民主革命後、プラハの金持ちがその家々を別荘として買い取り、彼等の多くは都会に出て行ったのだそうです。
二人で、数時間湖まで散策し、湖岸で持参のサンドイッチをたべました。帰りは籠や2リットル入りの牛乳パックに入れたブルーベリーを沢山持った人たちで満員のバスに乗りました。男性の中には酔いが回った人たちもいて、バスの中は騒々しさで満ちていました。
歩くということはおしゃべりにもってこいです。おしゃべりするということは他の人の人生について聞いたり、つい立ち入ったことも聞くことになったりします。
マクスはすらりと背の高い男性です。父親はドイツ人だったそうです。第2次世界大戦が終わった時、ドイツ人はドイツに送還されることになったそうです。ただ、母親がチェコ人の場合、15歳まで送還は免れたそうです。当時マクスは14歳でしたが、体が大いのでどう見ても14歳には見えず収容所に入れられたそうです。マクスの母親は毎日収容所にやってきて2週間ほど’息子は14歳だ’と叫び続け、彼はようやく解放されたそうです。父親がいないので弟妹4人のために母親を助けて働いたそうですが、あの時ドイツに連れていかれたらと思うと、収容所前で叫び続けてくれた母親に感謝しかないと。リベレッツでソーセージを買って夕方マクスの建てた川沿いのヴィラに行き、たき火をしてソーセージを焼いて食べながらそんな話もしました。彼はレンガ積み工だったそうで、そのヴィラを一人で建てたということでした。彼には子どもがいないが弟家族が週末にやってきて楽しんでいるということでした。本人は団地に住んでいて、同行しイジナはこの散策の間、マクスの家に滞在しているということでした。
イジナは大会中もパプリカとかキュウリとか沢山持参して私たちに食べさせました。パプリカは健康に良いから少なくとも一日半個は食べなさいとマリエに毎朝食べさせられました。イジナの夫は森林保安官。チェコでは森が大切なので森林保管官は尊敬される職業だそうです。野菜作りが好きで、800㎡ほどの庭があるという広さの説明が楽しかったです。幅が1㍍とすると長さが800㍍の庭だそうで、これでなるほどと理解しあえるエスペラントは面白い。
イジナは趣味で建築を学んでいるそうで、プラハでは市内の案内役をしてくれて、カフカの家なども連れて行ってくれました。建築様式の説明は私にはチンプンカンプンでした。
一人娘が父親と同じ森林保安官になったととても喜んでいました。
数年後、娘さんが同僚の森林保安官と結婚したとイジナが送ってくれた写真。
二人は両親と共にこの地に移住してきたドイツ人で、戦後どつに送還されたのだそうです。美しい緑の草原を横切る時、私がその美しさに驚いていたら、ライネはここは石ころだらけで畑にできないのだと話してくれました。だから、大木の管理は大変なようでした。ライネは´僕のように心を病んだ人間にはこんな自然を歩くのが一番良いと。’と言っていました。この二人は一緒にエスペラント大会の前遠足や大会後遠足に参加していて、幾度となく再会しました。ライネはチェコの歌を聞いてほしいとテープをくれました。
2,011年、コペンハーゲン大会の遠足アネリエではない女性と一緒だったので彼女の消息を尋ねると2カ月前病気で手術したので、チェコの従妹と一緒に参加したと話していましたが、数年後、リールでアネリエとあったので従妹もエスペランチィストなのと訊いたら、彼女豪快に笑いだして、’なんでそんな嘘をつくの、彼女はガールフレンドよ!’と言っていました。その時アネリエは体をさせる2輪車で歩いていました。がんの手術をしたのだそうです。古い城めぐりでした。城の中を巡る時、その補助具を折りたたみ、松葉杖のような使い方をしていました。石の階段は滑るので肩を貸すと、大柄な彼女に私の肩の高さがぴったりと合っていました。
体が不自由でも、眼が見えなくても遠足に参加する人は結構多いのです。以前、知的障害のあるやんちゃな弟が目の見えない姉と参加していました。他の参加者たちは弟が羽目を外すと声をかけながらも楽しんでいました。日本では奇異な目で見られるかも。
大きな川のほとりを休んだ時マリエが言いました。’学校の遠足でここに来た時に、娘はここで衣服を脱ぎ棄て川に飛び込んだの。こんな社会はもうイヤ!みなさん、さようなら!と言って。17歳だった!’
そこはイジナに言わせると世界最初の水力発電所が見える場所でした。残されたのは衣服だけだったそうです。
私が泊まったマリエの部屋のここかしこに少女の写真が飾ってありました。良くできた娘のようで、彼女がエスペラントの集まりに参加するときはいつも弟たちの世話を買って出て励ましてくれたそうです。
たった1週間の思い出でも書き出すと止まりません。この辺でやめることにします。
私が訪問した時マリエの長男は婚約中でした。
マリエからもらった最後の写真、孫と犬達です。
これが準宝石と言われる石でしょうか。
マリエからもらった記念品です。身に着けて出かけるところはありませんが、大切にしています。