機関誌類を読んでいて、なるほど、こういう見方もあったのだと驚くことが多い。今回は市民と行政との関係について、はっとしたことを書く。記事の出所は埼玉県新座市で「キャベツの会(e-mail:kyabetunokai@yahoo.co.jp)」の機関誌「キャベツの会ニュース」(第178号、2008年12月07日)に掲載された2008年11月29日に開催された同会・介助勉強会の「障害があっても地域で暮らすために」の中の、菊本圭一さんの『相談支援事業と自立支援協議会』と題された講演の一部である。この号も、いつもと同じく、読み応えがあるので、ぜひ全文を読んで欲しい。他の文章も読むと楽しい。以下の引用は私が着目した部分だけであるが、他にも有益な指摘がたくさんある。
■ 行政職員が相談事業をできにくい理由
菊本さんは「行政は給付の決定権をもっているわけなので、給付の決定権を持っている人が、例えばその人の相談の話をきくということになるとですね、もしかすると相談者の方が萎縮して本音を言わないことも、日本人の資質から言って多いんじゃなかいと思っています」と話している。講演の話を多分事務局でテープ起こししたうえで雑誌に掲載したと思われるので、書き言葉の表現とは違うだろう。でも、菊本さんの言いたいことはわかる。同時に、私は市民が行政を不信に思うのは、こういう背景があるのかと思った。
話は変わるが、生活保護などでも福祉事務所において、相談事業と給付決定を行なっている。よくいわれる「水際作戦」で、なかなか申請にまですすめない。そうした事態を改善するために、相談事業と給付決定作業を分離したらよいという意見がある。
それに対して、給付決定権を持っているから生活に困った人たちは相談に訪れるという反論がある。また、だから、生活保護の場合でも、いくつかの本では、勇気を出して福祉事務所への相談を勧めている。たとえば、大山展宏さんたち「生活保護110番」が協力した大田のりこさんの『プチ・生活保護のススメ』(クラブハウス、2003、ISBN4-906496-31-8)にも「相談に行こう!」と、やはり相談を勧めている。私もこれまで、福祉サービスを利用するには申請が基本だから、生活困難になった人に相談・申請するように勧めるのが正解だと思っていた。
■ 生活に困ったほど萎縮する傾向
菊本さんは、困りごとがある人は行政に自分のことを言えないという。決定権のある人の前で萎縮するという。本当のことをなかなか言えないという。
まして、行政が支給決定権をもつと、困っている住民は力関係については行政が圧倒的に有利になるのだろうか。生活に困っている当人は地域の住民のはずであるし、とくに自治体行政は、住民の生活に責任をもっているはずだ。
あえて本人たちが主張しなくては、行政や政策決定機関と対等な関係にならないのだろう。障害者運動でも「私たちに関係することは、私たち抜きで決めないでほしい」(いろいろな表現はあるが)と、自己主張をする。この言葉はもともと、国際的に使われはじめたという。2006年にいたる国連の障害者権利条約を準備する過程についても、同じ表現が使われている。
だから、本人を後押しする支援が必要だと、多く使われている。あえてエンパワメンと外来語をつかって言う場合もある。いつまでも本人の替わりができない面もある。いつかは、行政職員(福祉事務所の職員)の前で、自分のことを主張しなくてはならなくなる事態が起きる。本人の代弁は限界があるとも(たとえば、湯浅誠さんの著書『本当に困った人のための生活保護マニュアル』など)。
■ 困りごとの内容を詳細には出来にくい
たしかに、給付決定権をもつ行政(職員)の前では、人々は萎縮して本当の困ったことを言いにくいだろう。それは分かる。でも、本人が生活に困っていることをなかなか話しにくいのは、行政の窓口に限らない。
一般に、本当に困った内容を言い出しにくいものだ。だれでも本当のことを言い出しにくいものだ。ここで「日本人」という限定をする必要はないだろう。また、行政だから相談できないということもないだろう。営利目的の民間事業者やNPO法人などであっても、いろいろありうる。
1つは、自分でもどんな要素で生活に困っているかをはっきりと明らかにできていない場合がある。認知症とか知的障害にかぎる必要はないだろう。生活に困っている要素が、複雑になってきている。原因を1つに絞れないこともありうる。互いに重なっていることも多い。
または、ケアマネジメントでよく使うが、たとえば「家から出たい」と本人が主張しても、その人にガイドヘルパーを手配すれば、それで役割が終わることもある。でもその人が「家をでたい」という表現で、自分自身の住まいを求めている場合もある。外部で仕事をしたいという場合もある。外部で仕事をといっても企業などに雇われて働く場合もある。あるいは共同作業所で働く場合もあろう。さらには自分で企業を運営したいという場合もあるだろう。いろいろなことがありうる。
また、多重債務で苦しんでいる人の相談を受ける役割をしている人(その人が属しているのは非営利組織)に聞いたことがある。負債は全部話してください。全部解決できますから、といったそうだ。本人が「これで全部です」と話したあとに、調べてみると他からも借金をしている場合が多いという。それだけに全部を洗いざらい喋るのは難しいとも、話された。
給付決定権をもつ行政と人々との関係に限って書いているうちに、本題から遠ざかった。たしかに、自分のことを相談するのは難しい。勇気が要ることだと思う。だからこそ、相談を受ける業務に携わっている人は、むつかしい仕事だと思う。
■ 行政職員が相談事業をできにくい理由
菊本さんは「行政は給付の決定権をもっているわけなので、給付の決定権を持っている人が、例えばその人の相談の話をきくということになるとですね、もしかすると相談者の方が萎縮して本音を言わないことも、日本人の資質から言って多いんじゃなかいと思っています」と話している。講演の話を多分事務局でテープ起こししたうえで雑誌に掲載したと思われるので、書き言葉の表現とは違うだろう。でも、菊本さんの言いたいことはわかる。同時に、私は市民が行政を不信に思うのは、こういう背景があるのかと思った。
話は変わるが、生活保護などでも福祉事務所において、相談事業と給付決定を行なっている。よくいわれる「水際作戦」で、なかなか申請にまですすめない。そうした事態を改善するために、相談事業と給付決定作業を分離したらよいという意見がある。
それに対して、給付決定権を持っているから生活に困った人たちは相談に訪れるという反論がある。また、だから、生活保護の場合でも、いくつかの本では、勇気を出して福祉事務所への相談を勧めている。たとえば、大山展宏さんたち「生活保護110番」が協力した大田のりこさんの『プチ・生活保護のススメ』(クラブハウス、2003、ISBN4-906496-31-8)にも「相談に行こう!」と、やはり相談を勧めている。私もこれまで、福祉サービスを利用するには申請が基本だから、生活困難になった人に相談・申請するように勧めるのが正解だと思っていた。
■ 生活に困ったほど萎縮する傾向
菊本さんは、困りごとがある人は行政に自分のことを言えないという。決定権のある人の前で萎縮するという。本当のことをなかなか言えないという。
まして、行政が支給決定権をもつと、困っている住民は力関係については行政が圧倒的に有利になるのだろうか。生活に困っている当人は地域の住民のはずであるし、とくに自治体行政は、住民の生活に責任をもっているはずだ。
あえて本人たちが主張しなくては、行政や政策決定機関と対等な関係にならないのだろう。障害者運動でも「私たちに関係することは、私たち抜きで決めないでほしい」(いろいろな表現はあるが)と、自己主張をする。この言葉はもともと、国際的に使われはじめたという。2006年にいたる国連の障害者権利条約を準備する過程についても、同じ表現が使われている。
だから、本人を後押しする支援が必要だと、多く使われている。あえてエンパワメンと外来語をつかって言う場合もある。いつまでも本人の替わりができない面もある。いつかは、行政職員(福祉事務所の職員)の前で、自分のことを主張しなくてはならなくなる事態が起きる。本人の代弁は限界があるとも(たとえば、湯浅誠さんの著書『本当に困った人のための生活保護マニュアル』など)。
■ 困りごとの内容を詳細には出来にくい
たしかに、給付決定権をもつ行政(職員)の前では、人々は萎縮して本当の困ったことを言いにくいだろう。それは分かる。でも、本人が生活に困っていることをなかなか話しにくいのは、行政の窓口に限らない。
一般に、本当に困った内容を言い出しにくいものだ。だれでも本当のことを言い出しにくいものだ。ここで「日本人」という限定をする必要はないだろう。また、行政だから相談できないということもないだろう。営利目的の民間事業者やNPO法人などであっても、いろいろありうる。
1つは、自分でもどんな要素で生活に困っているかをはっきりと明らかにできていない場合がある。認知症とか知的障害にかぎる必要はないだろう。生活に困っている要素が、複雑になってきている。原因を1つに絞れないこともありうる。互いに重なっていることも多い。
または、ケアマネジメントでよく使うが、たとえば「家から出たい」と本人が主張しても、その人にガイドヘルパーを手配すれば、それで役割が終わることもある。でもその人が「家をでたい」という表現で、自分自身の住まいを求めている場合もある。外部で仕事をしたいという場合もある。外部で仕事をといっても企業などに雇われて働く場合もある。あるいは共同作業所で働く場合もあろう。さらには自分で企業を運営したいという場合もあるだろう。いろいろなことがありうる。
また、多重債務で苦しんでいる人の相談を受ける役割をしている人(その人が属しているのは非営利組織)に聞いたことがある。負債は全部話してください。全部解決できますから、といったそうだ。本人が「これで全部です」と話したあとに、調べてみると他からも借金をしている場合が多いという。それだけに全部を洗いざらい喋るのは難しいとも、話された。
給付決定権をもつ行政と人々との関係に限って書いているうちに、本題から遠ざかった。たしかに、自分のことを相談するのは難しい。勇気が要ることだと思う。だからこそ、相談を受ける業務に携わっている人は、むつかしい仕事だと思う。