
書くことが無い時は 梅子先生、鑑賞。梅子さんが名誉主宰になっている、句誌の表紙に抜粋されている句から。
☆ 蝋涙の左右等しき虫の闇
風のある場所では、風の方向で、蝋燭の炎も揺れ方が違ってくる。蝋涙も風と反対側がよくたまることになる。
虫の闇で、寺で一晩中 、燃えている、蝋燭なのか。
物、皆、息をひそめている真夜、虫の音がしげく聞こえる。風もない闇が利いている一句。
☆ 桔梗に白瀬あかりのくらしあり
桔梗の紫 谷川の白 色の対比が鮮明だ。
山家の、不自由な暮らしの中で、平穏に時をやり過ごしている。その中に桔梗の咲いた喜びなども、見えてくる。
☆ 半畳の立居秋水はるかとす
茶道を習っていないから、私には、この半畳がさてどこか見えないのだ。茶道にあるのか無いのかも知らないとして。
数寄者の、人生を達観した人物かもわからない。自然界には、又、秋が巡ってきた。
あの山や川は、さて今年も美しく照り輝いていることだろう。私はここに居りまする。昔の想い出を回想している。
☆ 僧形のいくたり紛る芒かな
四国はお遍路の国。
諸国を巡るお坊さんも、幾たびかお四国詣りをしていることだろう。
芒原をお坊さんが行く。
ありふれた光景だが、梅子さんの手にかかると、一編の美しい詩となる。深い意味を読み手に憶えさすのだ。
☆ 藻畳のうねりに佇てり秋渇き
秋渇きの季語の意味は、暑い夏は食欲も減退していたが、風もしのぎやすい秋となり、食欲も出てくること。
しかしこの秋渇きは心、胸の内なる渇き。
秋の川辺に佇んでいると、来しかたが走馬灯のようによみがえる。
梅子先生の句は、立派な句だ。深い土着に発した精神から生まれている。いたずらに、梅子先生の表現を真似ている、結社の人がいるが、梅子先生にはなれない。言葉がうわ滑りしていることに気がつかなければならない。
* 突と鹿ヘッドライトに母郷かな
* 鹿鳴けり夕べの影おく東大寺
* 老人の日の我儘をやりつくす
女史の句の作り方から、私の句ははるかに遠くなった。
平明で子供が理解できる作句に励んでいる。